第百六十九話
聞き慣れた声、聞き慣れない声色で彼女は生まれる。見慣れた顔、見慣れない目で僕を見る。彼女の名前は——
「……ミラ=ハークス……レヴ……っ」
「……っ? …………照合開始……一致。おはようございます、主人」
彼女は手をついて起き上がろうとした。だが、自身よりもずっと大きい、重い相手が踏みつけているのだ。動ける筈も無く、彼女はそのまま以前同様の照合とやらを開始した。そして……笑って僕を主人と呼んだ。
「……ナんだ……? コのガキ……起きテ……」
「承認を。苦しいので、これを退ける……戦闘を許可してください。苦しいです」
苦しい……? いや、全然そんな風に見えないんだけど……などとボケている場合ではない。逃げないと!
「……っ! そいつから逃げろ! こっちへ来い……って、違う! 今なんとかするから……」
そうだ、早くこの魔人を退かさなければ。ミラは今完全に押し潰される一歩手前で、胸まで床につけたあの状態じゃロクに力も入らない筈だ。もう雷の槍は出ないけど……通じないかもしれないけど、僕は短剣を構えてエンエズさんに——
「——戦闘許可……非承認。悲しいです、残念です、不服です。ですが……その命令を受諾しました」
「……ッ! コノっ……ナンダこのガキ————ッ⁉︎」
この少女については目を疑う出来事が本当に多い。体重の差なんて十倍近くあるだろうその巨体を、彼女は持ち上げた。持ち……持ってはない。それがのしかかったまま、体重をかけられたまま彼女は平然と立ち上がったのだ。
「……グッ⁉︎ ナンダオまエは……っ⁈」
「主人っ!」
そしてそのままパタパタと走ってきて……僕に抱き付いた。うん……? ええと……いかん。この状況でそれは良くないぞ? 具体的には空気がまずい。あまりにも殺気立った二人組に、呆気にとられたオックスに。シリアスブレイカーもほどほどに……などと考えていると、やはりエンエズさんは容赦無くさっきまでの倍近く太くなった尾を振り回して攻撃してきた。
「っ! ミラ危な——」
「こん——のぉっ! こんな時に何イチャついてんっスかッ‼︎」
間一髪のところで僕らはオックスに引っ張られて床に倒れこんだ。空を切った尾はそのまま壁に大穴を開けて、そしてすぐに次の攻撃を繰り出そうと鎌首を擡げる。次の一撃が……
「戦闘許可を。早く、早くしてください主人」
「戦……っ! ダメだ! 逃げる! 撤退だ!」
マスター! と、可愛らしい怒鳴り声とともに、ミラは僕の指に噛み付いた。痛くもかゆくも無い……いつものミラとは全然違う。やはりこのミラは彼女とは別の……
「エンエズさん——っ! 退きます……ここにはもう用はありません。貴方が出来た時点でこの研究は完成と言ってもいい。好きにさせて構いません。放っておきましょう、そんな連中は」
「……っ⁈ ゴートマン! 約束ガ違う! あのガキを——っ⁉︎」
何やら向こうも揉めている……らしい。がじがじと未だに抗議を繰り返すミラを他所に、ゴートマンはエンエズさんを睨みつけて撤退命令を出していた。そう、撤退……と、確かに言った。この有利な状況で……撤退と……?
「……二度は言わせないでください——」
「っ! わかった」
エンエズさんの体がみるみる萎んでいく。元の人間のサイズから考えればまだ巨体であるのは間違いないが、それはもうさっきまでの魔人とは呼べない大きさだった。ゴートマンは壁に空いた大穴から指笛を吹いて、外に集まって来ていた竜を呼び寄せる。本当に……見逃されるのか……?
「……美しくない。それは本当に美しくないですよ。人間に——人間のまま搭載していい機能じゃあない。外道はどちらだ、ハークスの末裔」
それは畏怖や、普段見せている不敵な男の挑発する様な顔ではなかった。心の底から軽蔑する様な、醜いものを見る様な目で男はミラを睨んで背を向ける。そして、二人とも竜の背に乗って飛び去って行った。
「……逃げ……た? なんで……どうして……」
「どうでもいいです。主人、それよりも大切な事がある筈です、怒り心頭です、もう怒髪天を突き破りました」
それよりも大切なこと……? そうだ、そうだった。ミラは無事……ちょっと⁉︎ 指がよだれでべちゃべちゃじゃないか! おしゃぶりじゃないんだぞこの……この…………?
「どうして戦闘許可を出してくれないのですか! 私は兵器です! 貴方の身を守る為ならどんな障害をも打ち砕きましょう。ですが……ですが兵器は、許可無くしては戦えない!」
「兵器……? ミラ……えっと…………ミラでいいんだよ……な?」
上目遣いに睨んでいたミラは、また自分のことを兵器と言った。少しだけ胸が苦しくなる。一体、このミラはなんなんだ。二重人格……と言うにはあまりにも違い過ぎる。性格の話じゃない、能力の話だ。
「…………ええ、私はミラ=ハークス=レヴ。そうですね……便宜上、私の事はレヴとお呼びください。それより戦闘許可です。主人、貴方は私のオーナーな訳ですから。管理責任は今、貴方に全て委ねられているのです。戦わずして砕かれる矛になど、なった覚えはありません」
「……っ。その……兵器っての……やめてくれよ。お前も……その……ミラなんだろ……?」
さっきまで無表情に攻め立てていたかと思えば、僕の言葉にきょとんとして、理解出来ないと言わんばかりに首を傾げている。この姿を見て兵器だなんて……誰が思えよう。いや、誰が思っても関係無い。僕はまた……こっちの少女に助けを求めてしまった。それが事実だ。
「……次はしっかりお願いします。それでも不服は不服です。補填を要求します」
「次って……? 補填? 補填って……お腹空いたのか……?」
違います。と、また噛み付かれた。だが……やはり噛む力は弱い。さっき見せた怪力を考えれば、いつものミラ以上にもっと痛くてもおかしくはないのだが……
「撫でてください。いつもしている様に、愛情を込めて撫でてください。私の事も可愛がってください」
「ぼふッ⁉︎ 可愛……っ⁈ いつもしている様にとか言うな! なんか……なんかこう……そんないかがわしいことしてるみたいな言い方するな‼︎」
オックス! 違うんだオックス! これは決して特殊なプレイとかじゃないんだオーーーックス‼︎ 意外と甘えん坊というか……この辺はあっちのミラと同じと言うか……いつもしている……様に……?
「……レヴ……? お前は……覚えてる……のか?」
「…………いいえ。ですが……前にも言った通り、貴方に触れられるとこの体が悦ぶのです。もっと触れたいと、もっと触れられたいと。温度など感じられない私ですが、なぜか暖かくなるのです」
違うんだーーーッ! オックスーーーーッ‼︎ 違っ……違う! いかがわしい話じゃないんだ! ちょっとこの子は頭と言葉が足りてないみたいだけど、一切そういうやましい事は……オーックス!
「……アギトさん……」
「ちがっ……違う! そういう意味じゃない! そんなことしてない! する度胸無い! こいつは……そうだ、お前会うのは初めてだったよな⁉︎ 紹介しないと、紹介しよう、紹介せんことにはな!」
これ以上良からぬ誤解をされる前に、オックスにもこのことを知っておいて貰わなければ。グリグリと頭を擦り付けて甘えてくるミラ……レヴ……? ええいややこしいな! 噛みつき系小娘を引き剥がして僕はオックスに可能な範囲で説明を……
「こいつはだな……こいつは…………?」
「……? アギトさん?」
知らない。僕はこいつのことを、レヴのことを何も知らない。もう一人のミラである、と。なんとなくそんな風に考えてはいるものの、その正体を知らない。あの時助けてくれたから、今回も助けてくれたから。ミラだから……いいやつで、仲間で、傷付いて欲しくない人だと思うだけで。何も……知らない……?
「……レヴ。お前は一体……」
「…………後でもっと撫でて下さいますか?」
あれ、そんなキャラだった? と、疑問を抱きたくなる程の甘えん坊っぷりだが……まあいい。あとで幾らでも撫でてやるからとなだめると、少しだけ上機嫌になってレヴは僕の膝の上に座りオックスに説明を始めた。
「……私はレヴ。ハークスの兵器、人造神性の失敗作。今は主人の……アギト様の管理下にあります。そして……」
人造神性。いつか先代魔術翁も口にした言葉が出てくる。もう今更驚くことでも無い……なんてことは無い。兵器。失敗作。管理。彼女が口にする単語は、どれもこんな小さな少女に対して使われる言葉じゃない。そして……と、少しだけ躊躇って彼女は更に続ける。だが……僕達にとって、それの意味は理解出来るものでは無かった。
「……私は——ミラ=ハークスを製った物です——」