第百六十七話
その姿はまるで人のそれとは一線を画していた。だが……だがそれでも、彼を魔竜とは思えなかった。大きな翼には次第に鱗が生え揃っていき、腕や脚はどんどん太く硬く、強くなってしまっても。その骨格は人のものであり、またその表情から窺える感情は紛れも無く人間味を帯びていたから。
「————Drahaaa——————ッ——」
「——ッ! エンエズさんっ!」
彼はまだそこにいる。こんな姿になってもなおそこにいる。こんな状況になっても、甘い希望に縋ろうとする自分がいる。振り払わなければならない。打ち倒さなければならない。分かっているのに、握った拳が震えるのが止まらない。
「おおぉ……これはこれは。このままでは本当に死んでしまいますねぇ……いやはや惜しい。惜しいのですがぁ……ええ、惜しいですねぇ。こんな所で殺す予定は無かったんですが……やっぱりヤメ……になんて、して下さいませんよねぇ」
「——————ッッ‼︎」
それは最早言語では無く、溢れた怒りが漏れ出しているに過ぎなかった。止めなければ。翼の意味が本当に飛翔の為のものなのかは分からない。だが……どちらにせよ、このままでは二人にまでこの凶爪は襲い掛かるだろう。彼を沈静化させる。そしてゴートマンを討つ。やることは何も変わらない——
「——斬り断つ北風っ!」
斬撃は軽々と鱗に弾き返される。もうそんなに成長してしまったのかと悔やむ間も無く、彼はその膂力を小娘一人屠る為に振るい始めた。力任せに振り回される尾の衝撃に、建物まで悲鳴を上げ始める。だが……この展開は私の望んだ所だ。
「ッ! ゴートマン——ッ!」
一歩、二歩と私は彼の攻撃を避けながら、ゴートマンを射程距離に捉えようと進む。攻撃が大振りになれば、威力が上がったとしても避けるのは容易い。その為に私はこの強化魔術を鍛えてきたのだから。
「ッ! 狙いはあくまでも私、ですか……っ」
この男自体に戦闘能力は無い。だが、魔獣を強化するなんらかの薬を持っている。この男を倒す為にはエンエズさんを退かさなければいけないが、彼を抑えるにはこの男が邪魔なのだ。なんとも煩わしいことに。
「——捉えたッ!」
私は出せる最大の出力で床を蹴った。携帯版とでも言おうこの強化魔術には出力上限がある。目が回る程の高出力はどうあっても出せないが……この場でそれは必要無い。
私の体は男の背後に一瞬で回り込んだ。回り込んだ以上、もう後は蹴り込めばこの男はおしまいだ。ただの人間相手に繰り出す威力をしていないのだから、動けなくなる程度で済めば御の字。このまま腰の骨を砕いて二度と歩けなくすることだって出来る。だと言うのに、私の体はその一撃を放つのを躊躇した。こんな男に情けを……? 否、そうでは無い。そうでは無かった。
「——デルバー——起きてください——」
「——ッ⁉︎ しまっ——」
私の体はそれを予期していたのに、逸った心がそれを見落としてしまった。男の背中がバックリと割れ、私の脚はそこから現れた大きな口に飲み込まれる。
「————ッッ! が——っ⁉︎ ぁああ——ッ‼︎」
「おや、おやおや。いつのまにそんな所に。いけませんよぉ……いけません。番犬注意、なんて……あ、言ってませんでしたっけ。それにしても人の背中を蹴とばそうだなんて、やんちゃな子ですねぇ……」
態とらしく挑発まがいの言葉をつらつらと並べる男に、私は火炎魔術を撃ち込んだ。だがそれも、追いついたエンエズさんの尾によって呆気無く掻き消される。番犬とはよく言ったものだ。この男はいつも連れていたのだ。
「……っ! そのコート、一体どうなってんのよ……」
「いえいえ、どうもこうも。見て頂いた通りで」
コート自体が魔獣なのか、それともその中に仕込んであるのか。或いはもうこの男は自身の体を……っ。足が食い千切られなかったことが唯一の救いとでも言うべきか。ポーチから新たな魔具と痛み止めを引っ張り出して次策を————
「————っ? な——んで——」
「あー……すいませんねぇ。予防接種とか、してないんですよぉ。病気ぃ……持ってたかもしれないですねぇ……」
突如視界が歪み始めた。息が熱い。吸い込む空気が熱い。喉が焼ける……目が焼ける……っ。痛み止め……解毒薬も……とにかく対処を……っ⁈
「ゴートマンッ‼︎ 約束が違ウッ! コのガキは俺がッ‼︎」
「あーいえいえ、まだ死んじゃいませんって。大丈夫です。折角ですし、表にいる皆さんの前で……なんてのもオツなもんじゃないですか。と……思うんですけど。待てない? 待って頂けない……?」
私の体は横たわっている……のか……? 寝ている場合じゃない、時間はもう無いんだから早く処置を……っ。手からこぼれ落ちた薬瓶を必死に拾い上げてその栓を抜く。ただそれだけのことがひどく難しい。
「……おや、まだ動けたんですねぇ……って。エンエズさん、止めて止めて。その子、薬なんて飲もうとしてます。それはいけない」
「知った事カッ‼︎ 動けようが動ケまいが、どちらにセよ————」
幸いにもこの二人の目的はズレている。言い争っているうちに、解毒が無理でも魔具での麻痺さえ出来れば——
「——————ッッッッ‼︎ がぁッ———うぁああ————ッッッ⁉︎」
「ああ……言わんこっちゃ無い……」
私の身体はどうなった……? 突如内側から焼かれるような激痛に襲われ、そして強化も何も……魔術による特性の一切を剥奪された……?
「もう……何かも分からないうちに薬なんて飲むからそうなるんです。ちゃんとお医者さんに見て貰ってから。自己判断での服薬は危険ですよ?」
毒……? いや違う、これは魔術だ。魔力に反応して喰らいつく狂犬の様な魔術。私の体内に埋め込まれたのは、あの魔獣の一部だとでも言うのか……?
「エンエズさん。ポーチ、取ってもらえます? 下手に近付くと相打ち覚悟で燃やされかねないんで……私、近付きたくないんですよ」
「ポーチ……? 今更コレの何に警戒すル?」
見れば、エンエズさんの翼は無くなっていた。私のザマに怒りが失せたとでも言うのだろうか。ならば今が好機だ。急いで二人に伝えなければ。ここから離れろと。早くキリエに向かって、そして保護を受けろと。
「がっ……返……せ……」
動かぬ体を踏み付けられ、腰に提げていた道具入れを奪われる。彼はそれを忌々しそうに見つめながら中身を床にぶちまけた。
「……ちっ。半分くらい俺の店で買ったやつじゃねえか。調子狂うな……」
「ええ……どれも良い出来です。流石は焔の竜人。ですが……もう半分は酷いですね。とても人間が作ったとは思えぬ、非人道的なものもあります」
エンエズさんは一通りそれらを見た後に、片っ端から踏み砕き始めた。ポーションも霊薬も、魔具も。準備してきた一切を踏み砕かれる。今私が戦うための数少ない手段が踏みにじられていく。だが……私から興味がそれている今なら、二人に——
「おや。おやおや……おや。可愛らしいものが出てきましたね。年頃ですから……ええ。ええ、ええ。コレは良い趣です。やはり少女というのは花を愛で、愛らしくあらねば」
「——え?」
ひらひらと舞い散る花弁の様にそれは床に落ちた。鮮やかな群青色の髪飾り。あの時行商から買った、なんの術式も組み込んでいないただの髪飾りだ。そのポーチの中身としてはあまりにも場違いな物が出て来たから、二人とも随分興味を惹かれている様子だ。だから……今なら二人に合図を送れると言うのに、私の目もそれを追ってしまっていた。
「……下らない」
エンエズさんはひどく冷めた声でそれを踏みにじった。鱗に覆われたその太い足で、魔具同様簡単にねじ伏せて見せた。
「——っ! やめてっ!」
不意に上がった声に、男達の視線は私に向いた。何故そんなことを言ったのかは私にも分からない。だが……それが踏み付けられると、私の胸まで握りしめられているようだった。
「……おや。大切なもの……でしたか。エンエズさん、足を退けてあげてください」
「…………ああ、下らない」
彼は男の言葉になど耳を貸さず髪飾りをグリグリと踏み付けた。なんだ……? 何が……? なぜあの二人はそんなにそれに執着している。他の魔具やポーションならいざ知らず、それはなんの変哲も無いただの飾りだ。なぜそんな物を。なぜそんな物が……
「エンエズさん。それは酷いですよ……彼女にとって大事なものみたいですから。ほら、足を上げて……」
「うるせぇ! ならやめさせたら良いじゃねえか! 俺とは違う、統括元素使い様なんだから!」
縮んでいたエンエズさんの体がまた大きくなった。ばきっ、ばきっ。と、飾りの石が砕ける音がする。一体何故彼はそれを。一体何故私はそれを見て……こんなにも苦しい思いをしているのだ……?
「やめて……やめてってば……」
何度も何度も踏み付けられる度、その度に私の胸も同じ様に痛んだ。なんだ……? 一体あれは何だ……? 私は呪いのアイテムでも買わされたのか……? 苦しい。痛い。悲しい。私の胸の奥からあり得てはいけない感情が湧いて出てくる。
「……エンエズさん!」
「黙れゴートマン! 出来る筈だ! そうでなければこのガキは——俺が殺したいと憎んだこのガキは……っ!」
頰を熱いものが伝った。ああ……どういうことだ。どんな痛みにも耐えて来た。どんな苦痛も超えて来た。自身の死と見えて、もうこれ以上は無いと……そう思って……
「……やめて……やめてよ……お願いだから…………やめて……」
私は何をやっている……? 許してはいけない仇敵を前に、何故私が許しを請うている。何故……なんで、あんな物の為に私は……
「——エンエズさん。それ以上はいけない。私は確かに外道ですが……少女を泣かせるのは本意では無い。子供は元気に、笑っていなければ」
「…………興醒めだ」
ガッとガラスの破片とともに蹴飛ばされた髪飾りを、私は必死で抱き寄せた。涙はそれでも止まらなかった。守らなければならない人がいる。倒さなければならない敵がいる。それでも……私はなによりもそれが大切なものであるかの様に泣いた。
「……まったく、申し訳ありません。どうもこの人は短気が過ぎるようで……」
許して貰えたのだろうか。私の心のどこかで、そんな腑抜けた言葉が浮かんでくる。ふざけるな。許してしまって良いわけが無い。この男を……この悪を……っ。思考とは裏腹に、私はもう男を睨みつけることすら出来無かった。




