第百六十五話
私達は、文字通り草葉の陰に隠れて奴らの動向を探る。辺りに魔獣の気配は無く、また魔竜の影も無い。灼熱の化身の様な赫い鱗を纏った男と、そして元凶の帽子男。もしも……もしもエンエズさんの変化がまだ途中で、まだ助けられるのだとしたら……
「…………ふー……」
ダメだダメだ。と、頭の中に浮かぶ甘ったれた希望を振り払う。彼はおそらく助からない。あの男がそんな隙を作る筈が無い。そう心に刻め。下手な希望は大きな絶望を呼びかねない。私の悲嘆は彼にも伝播する。苦痛は私一人が負えばいい。
「……っ。移動する……二人とも、ゆっくり付いてきて」
ゴートマンは、辺りを見回しながら彼の手を引いてその場を立ち去ろうとする。何か……様子が変だ。あの不敵な男と今見ている男の態度があからさまに違う。何か……そう、不安げと言うか……怯えている様な……
私は最初それを、今エンエズさんを使って作ろうとしている魔獣に対して、強過ぎる力を持つ新たな戦力に対しての畏怖から来ているものだと思った。だが……どうやらそれも違う。男は彼をエスコートする様に手を引くが、彼の足取りはとてもそう見えぬ程に覚束無い。まるで足の悪い老人の手伝いをしている様な、立ち上がったばかりの赤子の手を引く様な。やはり、彼はまだ変化の途中で…………
「……二人ともそのまま、進み続けながら聞いて。もう少しだけ様子を見る。もしかしたら……いえ、間違いなく。アイツはどこかに向かっている。そのどこかってのが……」
私は確信では無く仮定でこの話をする。二人には少し強い言葉を使って、まるで確証が持てているかの様に振舞って少しでも不安を遠ざけよう。その不確かを確かなものにする為に、私は男達を尾けることを選ぶ。
「……おそらくはあの男の、ゴートマンの工房がここらにあるのよ。魔竜の姿が見えないのは、エンエズさんを刺激しない為。そして新たな候補を見つける為。まだ準備中だと言ったアイツの言葉を信じるわけじゃないけど……魔竜の大半は、クリフィアへ向かったのでしょう」
「…………刺激しない為……?」
アギトは不可解そうな顔で私の言葉を復唱した。無理も無い、私も確証を得て話しているわけでは無いだから。だが……今の様子を見るに、やはりその可能性は大きい。
「エンエズさんはまだ変化の途中。前に言った仮定が本当だとしたら、今生まれようとしているのは先の魔竜なんか比べ物にならないくらい危険な存在ということになる。過去に作ったどの魔獣よりも強力な魔獣を、アイツは確実にものにする為に万全を期す。となれば、周囲は静かで刺激の少ない方がいい」
それは私の経験則からも来ている。と言うよりも、術師のセオリーの様なものだ。特殊な刺激は可能な限り避ける。実験はいつも同じ環境、状況を準備して再現性を高める。その為の工房であり、またその為に術師の研究は秘匿されやすいのだから。
「……何かあった時に対応しやすい自分の工房を、孵化の場所に選ぶのは自然なこと。アイツが錬金術使いだって言うんならね」
「……じゃあ、早いとこ叩かないといけないんじゃないか? もし工房に入られて、エンエズさんの変化が間に合っちゃったら……」
そう、彼の言う通りだ。私は黙って頷いて、また彼らの動きを観察する。彼の言う通り、あの男を倒すだけなら今飛び出すのが一番確実だ。工房には控えさせている魔獣がいないとも限らない。だが……
「…………魔人の集い。と、あの手紙にはあった。もしもアイツの仲間が他にいるってんなら、工房を——研究経過を残すのは危険だわ。このまま後を尾けて工房を突き止める。そして、レポートの類は全部焼き払う。錬金術使いを倒すってのはそう言うことよ」
「……それは危険過ぎないか? 本当に向かっている先が工房かも分からないのに……」
それは……っ。私は彼の言葉に返す言葉を持ち合わせなかった。分かっている……自分でも分かっているんだ。もし私の予想が外れれば、二人を危険に晒すことにもなる。でも……それでもあの男をどうしても許すことは出来ない。あの所業を野放しには出来ない。人の命を弄ぶ、あの悪魔の様な実験を……っ。
「……分かった、お前に付いてくよ。ただ、もしやばそうなら絶対に引く。それだけは約束してくれ」
「…………ありがとう。こんな状態だもの、無茶はしないわ」
二人を危険に晒すことだけは避けないと。こんな私のわがままに付き合ってくれる優しい彼らを、私の無謀の所為で一度は死なせてしまうところだったんだ。もう二度と、あんな思いは……
「っ。動いた……」
男はゆっくり、ゆっくりと草原を奥に進む。どんどん背の高くなる草に視界を奪われ、二人と逸れないようにするのも難しくなってきた。普通に歩かれたのならこうして隠れての尾行など不可能だったろうが、まだ覚醒しきっていないのであろうヨタヨタ歩きの彼のおかげでなんとかなっている。
しばらく歩くと遠くに小屋が見えた。魔竜の姿は……無い。魔獣の気配も無く、やはりあの男の工房であろうと思わせる魔術痕がそこかしこに窺えた。
「……工房のあたりは草も生えてないみたいね。アイツらが建物に入ったら攻め込むわ。二人は表で魔竜の警戒をお願い」
「っ! お前……っ。一人で乗り込むってのか……⁈」
まだ彼らには見えないであろう小屋を睨みながら私はそう言った。握りしめた拳を掴まれ心配されると、またなんとも心強い。彼はきっと待っていてくれる。大丈夫。と、手を握り返して、私はもう振り返らないと覚悟を決めた。彼に甘えるのはこれが終わってからだ。これは私が……ミラ=ハークスが成さなければならないことだから。
男達はやっと小屋に辿り着いて中に入っていった。その際も周囲を頻りに気にしていたあたり、私の予感はおおよそ当たりといったところだろう。行ってくると言い残して、私はアギトの手を離した。身を隠すのはもう終わり。あの男をこの手で、あの悪事をこの力で打ち砕く為に私は立ち上がった。
「…………結界も無しとはね。ヘボの工房らしいヘボ設備じゃない」
近付いて魔力検知を行う。結界も罠も無い、何の備えも無い小屋に私は少しだけ警戒を強める。立地的に人が寄りにくいとは言え、大切な工房に何の防御策も無しとは考えにくい。よほど従えている魔獣の強さに自信があるのか、それとも術に拠らない罠が仕掛けられているのか。恐る恐る二階建ての小屋の入り口を開けると、拍子抜けするほどさっぱりとした何もない空間が広がっていた。
「……ここは……卵の安置所ってところかしらね。魔力痕だけは異常なくらい染み付いて……」
其処彼処にへばりついた魔力痕に良い気分はしない。ここはおそらく商品の管理場所だったのだろう。卵を売り歩いていた頃の、まだ強力な魔竜など作り上げる前の名残。もう誰かを騙さなくとも自らの力で他者を喰らうことが出来るようになって、不要になった途上の研究の残骸がそこにあった。
「……ふざけてんじゃないわよ……っ」
ぎゅうと拳を握る。力が入らないなんてことはもう無い。奥歯を噛み締めて、ポーチの中身と使えなくなった魔術の全てを思い浮かべる。今の私には切り札が無い。先制攻撃で一気に決めきるのは難しい。だが……不意をついて一度有利な態勢を作れば、手数で押し切ることは出来る。ポーチからナイフを取り出して、慎重に部屋を進む。奥へ奥へ、そして上へ。物音がするのはこの先からだ。なにやら話しかけるような声が聞こえる。あの男の、ゴートマンの声だ。
「——良いですか——貴方は今、目覚めようとしてる——」
これは……やはりエンエズさんはまだ魔獣としては完成しきっていないということか。これはまだ調整の段階なんだ。人格を残しているのか、はたまた植え付けているのかは分からないが、蛇の魔女のことを思えば完成体に人の名残があるのは確かだ。一歩。また一歩。奥の部屋から聞こえてくる声に近付く程に、自分の鼓動が大きくなっていくのがわかる。
「——ほら、目を瞑って————貴方はもう一度眠りにつく——三度の朝の後にその精神は——」
あと一歩。あと一歩でドアに手が届く場所までやってきた。このドアを蹴破って、ゴートマンに火炎を叩き込む。そしてそのまま補助魔術を使って肉弾戦に持ち込めば……
「——さぁ、眠りなさい——今はゆるりと眠りなさい————」
音を立てぬようにゆっくりと深く息を吸う。魔具の準備は出来ている。もしも火炎を避けられても、ナイフに込めた魔力であの男を拘束出来る。一度目を瞑り、二人の姿を思い浮かべる。優しい、暖かい大切な仲間の姿を。よし。ナイフをしっかり握り直してドアを蹴破ろうと少しだけ下がり、勢いを————
「——なあ——もう良いだろう、こんな茶番は————」
聞こえてきたのはゴートマンの声では無かった。それが何なのかを考える間も無く、私の体は大きく後ろに吹き飛ばされた。蹴飛ばそうとしたドアが砕け散り、奥から赫い鱗に覆われた太い尾が伸びてきて私を突き飛ばしたのだ。
「——ッ‼︎」
防御は間に合った。だが、それは私の見立ての甘さを物語っている。ゴートマンと並んで立っているのは、間違いなくまだ人の形を残したまま——さっきまで追いかけていたままの姿だった。だがそれは……
「人が悪いな、ゴートマン。こんな娘一人嵌めるのに、爺さんの真似までさせて。終いには子守唄とは」
「いえ。いえいえ、いえいえいえ。大切なことなんですよぉ……この方はとてもお強い。警戒心も強い。なれば…………もう、私への怨みを利用しなければままならない程に」
嵌められた……? あの時から既に私達の尾行はバレて———っ‼︎ マズイ……それはマズイ! この状況が、では無い。尾行がバレていてなお放置されたということは……ここまで誘い込まれたということは……っ‼︎
「————ッ‼︎」
「おっと。逃さないでください、エンエズさん」
怨敵に背中を向けてでも急がなければならない。だが、それを赫い鱗は遮った。まだ人の形を残しながら、本来なら無い筈の尾の使い方を熟知している様に、彼はその太い尾で逃げ出そうとした私の行く手を阻む。
「……そうですよねぇ、そうでしょう。貴女は聡明な方ですからぁ……気付いてしまって然るべきですとも。さぁ……では楽しみましょう、ええ。制限時間はそう長くありませんが……ええ、貴女ならこの窮地も……」
奇襲には失敗した。離脱も不可。だが……幸い、この男自体の戦闘能力はさして高く無いと見える。それにまだエンエズさんも変化しきっていない。早期決着を付けるなら……出し惜しむ暇は無い——ッ‼︎
「——揺蕩う雷霆——ッッ‼︎」
私の言霊に呼応して、短剣はバチバチと青白い閃光を放つ。魔具に込めた私のとっておき。そう長くは保たない即席の強化魔術でこの二人を倒し、そして——




