第百六十四話
「じゃ、行きましょう。二人とも大丈夫?」
朝食後すぐに僕らは街を出た。どこかに留まれば、また危険が街自体に襲いかかる。それを阻止出来ない苦痛を嫌という程味わったからには、もう悠長なことは出来ない。一刻も早くゴートマンを止める為、ユーリさんに会って近隣の街に連絡を入れて貰う為に僕らは東へ急ぐ。
「……それで……その……お前は大丈夫なのか……?」
「問題無し、とは言いがたいけど……でも平気よ。ダメになったならダメになったなりのやり方がある。準備万端とは程遠いけどね」
大丈夫か。なんて僕らに尋ねたミラの顔色が少しだけ優れない。原因は今朝、試運転にも似た魔術の確認を終えた彼女は、色々と準備をし始めたのだ。それは傷を癒すためのポーションであり、魔力を補う霊薬であり、そして使えなくなった魔術の代用となる魔具である。買い込んだ小道具の一切を惜しまずに、彼女は可能な限りの準備をした、のだと思う。いびつで見栄えの悪い石のはめ込まれたブレスレットやネックレスを身に付けて、自らの不具合を克服しようとしたのだ。
「……もう一度念押ししておくわね。ゴートマンと接触した場合、最優先事項は生存。逃げ延びることを何より先に考えて。こちらの動向が割れている状態では、絶対に向かい合わないこと。でも……」
でも。その先の言葉を、ミラは一度喉元で止めた。それは恐怖だろうか。自分の身の安全を脅かす存在に対しての、大切な仲間の身を害する悪に対しての。大きく息を吐いて彼女はそれを乗り越えようとする。口から続く言葉が出て来る頃には、頼りになるカッコいいミラの姿になっていた。
「……でも、こちらを向こうが感知していない場合は別。魔獣の動向次第では、奇襲をかけて一気に叩く。ただし、遠距離からの魔術攻撃は無し。ああも大量の魔竜を準備出来たってことは、あの男には魔力を探知するなんらかの方法があると見ても良い」
「……了解っス。目的は生きてキリエの街へ。そして……」
「騎士団の力を借りて確実にあの男を止めること、だな」
コクリと頷いて、ミラは怖い顔からいつもの愛らしい、子供らしい笑顔に戻る。この顔のまま目的地に辿り着ける様にと祈るばかりだ。僕らはミラの先導の元、また休めていた足を進め始める。
午前十時半といったところか。どうにももう懐中時計の精度が怪しい。旅自体が過酷なことと、それに伴い乱暴に扱われることが多いのと。或いはミラに貰った魔具の影響かもしれない。理論が分からないから断定は出来ないが、言ってしまえばこの短刀は帯電した金属なのだろう。それならば、磁性を持っていてもおかしいことは無い。中の歯車や発条に悪影響して狂わせてしまっているのかも。時計も大切だけど、しかし命を守る為のアイテム相手では分が悪い。もう暫くは割りを食って貰おう。
「しかし魔獣の気配も何も無いっスね。良いことっスけど……一周回って不気味っスよ」
「……こ、怖いこと言うなよ。魔獣と出会わないなら出会わない方がいいに決まってるんだから」
とりとめもなくオックスは不安を煽る様なことを言った。そう言えば、と言うべきかどう言えば良いのか。あの見えない魔獣のこともあって周囲への警戒はしっかりしているのだが、どういうわけか生き物の気配を感じない。たまに鳥か虫か、羽ばたく生き物が視界の端に映り込むくらいはあれど、獣の類は全く見かけない。ひらけた草原なのだから、身を隠せないこんな場所にウサギは出てこない。と、そう言ってしまえばそれまでなんだけど……どうしても魔獣に対する恐怖心が勝ってしまう。
「今のところ、魔獣の気配は確かに無いわね。まぁ……それも今のうちよね」
そう言ってため息をついたミラの視線の先には…………ゴメン、草と空しか見えない。彼女には、僕らでは見えない遠くの危険が見えているんだろうか。ううん……厄介なことでは無いと良いんだけど。
少し進むと、僕の甘い考えはすぐに蹴飛ばされることとなった。なるほど、コレは草と空しか見えないわけだ。僕らのくるぶしをくすぐるようになった草は次第にふくらはぎを傷つけだし、膝を隠し、下半身を覆ってしまう程にまでなった。背の高いオックスは良いけど……ミラなんてそのうちすっぽり隠れてしまいそうだ。
「これじゃ小型がいても見つけるのは無理だよな……魔猪とか出ないと良いけど……」
「猪なんだから、こんな場所に出ないわよ……なんて、言えたら良いんだけどね。魔獣の生息域に、通常の獣の規則性は当てはまらない。砂の中に住んでる半魚の魔獣なんてのも居たくらいだしね」
半魚……ああ、路銀稼ぎに初めて魔獣退治のクエストに出かけた時の。あれならまだ良いけど……あのめっちゃ痛い蛇とか出てきた時はどうしたもんか。こんなとこで出会ったら逃げるのもままならない。あれは乾燥帯以外には生息していないとかだと嬉しいな……
「……しっ。なにか……何か聞こえない……?」
「……? 俺……達には何も……」
突然立ち止まって、ミラは耳をすませて辺りをキョロキョロし始めた。僕もオックスも顔を見合わせて首を傾げるばかりだが、彼女の人並み外れた感覚器官なら僕らが捉えられない音だって拾えるのだ。しかし……ということは、だ。
「…………ちょうど良いわ、草に身を隠して進みましょう。二人とも手を繋いで、絶対に逸れない様に」
「……分かった。オックス」
そう言ってミラは僕の右手を握った。逸れない様に、そして草に身を隠して進む、ということは……つまり、相手は鼻の利く魔獣では無いのだろうか。だが、一定以上の危険度はある相手。つまり……危険度の高い人間……? 左手をオックスに差し出して、三人ひと繋ぎになって僕らは草をかき分けながら進む。しゃがまないといけないオックスは大変そうだな、なんて心配も口に出す余裕は無い。ひたすら無言で、足音にも気を払って慎重に僕らは進む。
「……あれは……っ」
先頭車両のミラが何かを見つけたようで、僕らに伏せろと指示を出し、ポーチの中に手を突っ込んで自身も身を屈めた。この反応……やはり“誰か”いる。ゴートマン……なのか? だが、辺りに魔竜の姿は無い。見えない魔獣も居ない——居るならミラがとっくに伝えてくれてる筈だし……あの男では無いなら、一体何に彼女は警戒している。
「……二人とも。ゆっくり……這ってでも良いからゆっくり後退。絶対に物音を立てないで……」
そう言ってミラも地面に伏せて退き出した。伏せていたからミラの背中しか見えなかった僕の視界の真ん中で草が風に揺れる。割れたカーテンの隙間から、一瞬だけ思いもよらぬ姿を視認した。
「……っ! ミラ……今の…………」
言いかけたところでミラに口を塞がれる。確かに今のは人の姿だった。人の背中だった。だが……人間と言うにはあまりにも……人の肌と言うにはあまりにも赫い。肌と言うには光沢がある……燃え盛る鱗の様な赫く硬そうな背中は、一瞬の間に僕の精神に恐怖を植え付ける。そして同時に、嫌な可能性を思い浮かべた。あれは……あの人は……っ。
「ストップ、ここで待機よ。獣の一匹も居ない理由がよく分かったわ。全部逃げ出したのよ…………あの人の敵意に恐怖して……」
「…………っ。エンエズさん……」
もうその背中は見えなくなったけど、それでも僕の体は震えが止まらない。あんなに優しげで爽やかだった店主が……っ。どうしようもないくらい……変わり果ててしまった。
「……何をやって……? もしかして……まだ変化の途中なの……?」
途中? つまり……まだあの人は完全に魔獣になったわけでは無い……? あの鱗の様な肌は魔竜へと変化する兆候で、今はまだ人の姿を……理性を保ったままである可能性が……っ。希望を見出そうとした僕をミラが制する。諦めろ、と言うのでは無く、覚悟しろ、と。どうあれもう変化してしまっているのだから、十中八九敵対することになるのだと言わんばかりに僕の肩を掴んだ。そして……その手も、やはり震えていた。彼女も恐怖とその希望を相手に戦っていることが分かった。
「…………っ! アイツ……っ」
ミラの表情が険しくなったのは、もう少し後のことだった。アイツ。と、恨みたっぷりに歯をくいしばるその姿から、やはりあの男が姿を現したのだと察する。今この場には、ゴートマンと変化の途中であると思しきエンエズさんだけ。魔竜も魔獣も姿を見せず、そしてミラのセンサーにも反応は無し。そして……恐らくはこちらに気付いて居ない。
「……流石に声までは聞き取れないわね。二人とも、返事はいいから聞いて」
百メートル程……いや、もっと先だったろうか。今は僕の視界には何も見えていないが……この草の壁の向こうにゴートマンがいる。そう思うと、体の芯が冷えてくる。ミラの呼びかけに少し遅れて手を握り返すと、その温かさに不安は多少和らいだ。
「…………これはチャンスよ。魔竜が集まってくる前にあの男を叩く。ただし……彼の詳細が分かってから。まだ変化の途中だと確証が持てたら……私が一気に奇襲をかける。二人は周囲の警戒を」
僕はまた彼女の手を強く握り返した。オックスも小さく頷いた。思いもよらず出くわした好機に、恐怖が遠慮無しに大きくなる。ここであの男を叩けば……また平和な旅が……




