第百六十三話
窓からはまだ朝日も射し込んでいなかった。うん、やっぱりそうだ。夕方には眠っただけあって、とっても早く……早く起き過ぎたかな。時間……は、分かんないや。明かりも無しに時計なんて見える程の夜目は利かない。はあ。と、ため息をつくのが先か、僕は一つの違和感に気付いた。
「……ミラ?」
背中にあの小さいあったかいのがくっついていない。もしかしてトイレかな? それとも僕が寝返りを打った時に落っことしたとか……と、色々間抜けなことを考えていると、答えはすぐそばに落ちていた。
「……なんだ、そこにいたのか。何やってんだよ、そんな暗いとこで」
布団から少し離れたところに、見慣れた背中がぺたんと座っていた。あれは……僕のポーチかな? なんだろう、あいつは昨日の昼間少し寝てたし……早くに起きたから魔弾の補充でもしてくれてたんだろうか? 材料と思しき物も買い込んでたし……
「…………? おーい? 寝てんのか? 風邪引く……っ!」
背筋が凍る様だった。まだ覚醒しきっていなかった寝惚けた意識は、その痺れみたいな緊張に無理矢理叩き起こされる。振り返った少女の瞳に、いつもの光が無い。いいや……いいや違う。あの時の……いつもとは違ったあの時の少女の貌がそこにあったのだ。
「……レヴ……なのか……?」
冷たい目で僕を見つめていた彼女はその問いに答えることもせず、手に持っていたホルスターをそっと床に置いて……そして僕に微笑みかけた。それが別れの挨拶だということはすぐに分かる。彼女はふっと目を閉じて、そのまま床に倒れこんだ。
「……っ! ミラ!」
僕は急いで彼女に這い寄った。息はしてるし脈拍も正常だ。体温は……少しだけ低いかもしれない。背中にくっついてくれればもう少し細かに比較出来るけど、手で触った程度じゃ差異は感じ取れないくらいの変化だ。
「……んん……ふわ…………アギト? あれ……私……魔弾を調べてて……」
魔弾を調べていた……? ならさっきミラは……いつもの、このミラだった……のか? いや、魔弾を調べていた、というのはどういうことだ? そういえば、昨晩魔弾を使った時反応がおかしかった様な……?
「……なんだよ。寝惚けてんのか? ったく、珍しく早起きしてると思ったら」
「むー、何よその言い方! いつもアンタのこと起こしてたのは私でしょ!」
はいはい。と、軽くあしらってご機嫌をとる。バシバシと少し強めに叩かれるのはちょっと痛かったが、今の問題はコイツの機嫌じゃない。
僕はここに一つの仮説を立てる。ミラはあの少女を知らない。レヴと名乗るもう一人のミラのことを。もしさっきのがレヴなのであったのなら……彼女はミラの知らないところで何かをしている。その何かというのが魔弾だ。昨日の反応からして、魔弾になんらかの……ミラの予期せぬ挙動が見られたというのはほぼ間違い無いだろう。それが強化なのか弱体化なのかは問題じゃない。問題は……レヴの目的がなんなのか。そして、もしも魔弾の変化というのが僕の目にも分かるものだったとしたら。魔竜に使った時となんら変わらぬ様に見えた魔弾は、あの時既にレヴの手によって手を加えられていたのだとしたら。彼女はやはり、あの時クリフィアで……いや、或いはもっと前から表に出て来ているのだろうか。
「……? アギト? どうしたの、人の顔ジッと見て」
「えっ……ああ、いや。その……今朝もミラは可愛いなぁって……」
何言ってんの。と、とても冷たい対応をされてしまった。一応本心ではあるんだけどなぁ……って。冷たい奴め。そう冷たい……冷たい目をしてはいたが、あの子には敵意といったものは感じ無かった。僕にそんな、他人の感情の機微を感じ取る能力は無いんだけど。でも……彼女が僕らに何かをしようって意思は感じ無い。問題なのは、彼女とミラの関係性だ。ミラとレヴは二重人格……なのだろうか。もし、もしもレヴの意識が大きくなっていったとして……その時、ミラの人格はどうなるのだろう。消えて……このミラが消えて無くなってしまう、なんてこと……無い……よね?
「……変なの。まあ良いわ、起きたんならちょっと付き合って」
「付き合うって……何するんだよ、こんな夜中に」
いいから。と、ミラは僕の手を引っ張って部屋を飛び出した。そしてそのまま、街の外の開けた場所に出た。
「何するんだよこんな場所で。魔獣でも出たらコトだし、早めに切り上げるぞ?」
「分かってるって。ちょっと離れてて」
離れてて……って、貴女ね。不安と疑問は一度忘れて、僕はミラの姿をジッと見守る。何かの魔術を使うつもり……なんだろう。言霊ではなく魔術式を地面に描き始めた。それはいわゆる魔術陣ってやつ? なんて尋ねようとする僕に、離れてなさいと注意するばかりの姿は、何やら学校の先生みたいだ。
「……揺蕩う——っ! ぐぅ……」
「っ! ミラ!」
いつもの強化魔術。いつもの言霊と、いつも以上に入念に準備された魔術陣。それでも強化魔術は失敗した。ミラは力無く片膝をついて、僕はそれに急いで駆け寄って手を貸した。いつもならバチッと来る筈の静電気も走らない。やはり何か……彼女の中の何かがおかしい。
「……離れてなさいってば。次……っ」
しっしっと手で追い払われて、僕は仕方無くまたさっきの位置まで戻る。次。と言いながら、新たな陣を描き始める彼女の狙いはなんだろう。それは恐らく……今使える魔術の確認だろうか。このまま進めば、ゴートマンとの戦闘は避けられない。そうなった時、戦闘の軸になる魔術を確認しておきたいのだろう。曰く、魔力消費の少ない、連戦に向く強化魔術を取り上げられた今、発動しない魔術に魔力を無駄遣いするということが土壇場で発生しないように。
「荒れ狂う——っ! っくぅ……次っ。穿つ————」
どれだけやっても得意の雷魔術は一つとして作用しなかった。環境に応じてその場で微調整が必要、と言っていたっけ。ならその細かい調整が出来なくなって……と言うわけでも無さそうだ。さっきからうんともすんとも言わないのは、きっと発動そのものに手間取っているんだろう。効力の大小といったレベルに無い。いつもの頼もしい言霊が虚しく空に消えていくのを、僕は黙って見続けた。
「…………雷魔術は全滅……ね。はっ……笑えてくるわね、ここまで来ると。次は……爆ぜ散る春蘭——ッ⁉︎」
それは突如やって来た。いや、全然突如じゃない! むしろこれが普通なんだ、見慣れた光景なんだ! 白炎はまだ暗い空を焼き、まるで朝日のように輝きながら…………眼前で爆発し、辺り一帯を焼き払った。焼き払って……しまった。
「〜〜〜っ⁉︎ ミラっ! おまっ……お前何してっ⁉︎」
「だ……だって出ると思ってなくて⁉︎ この流れだし、本当に発動するとは思わなくって‼︎」
消火を急げ! と言う風にはならなかったのが不幸中の幸いか。いや……これ、日が昇ったら騒ぎになるぞ……? なにせ街からそう離れてない草っ原が焼けてしまったんだ。もしかしたら、今ので起きた人もいるかもしれない。急いで戻ろう、っていうか身を隠しながら戻ろう。もしこのことがバレでもしたら、危険人物として街から追い出されてしまうかもしれない。それだけはゴメンだ。出発するにしても、せめて朝ごはんくらいは!
「…………炎は使えるんだ。ううん……もしかしたら……」
「急げ! 急いでかつ隠れて走れ! お説教は後だ!」
僕らはそれはもう夜盗の様に迅速に宿へと戻った。どうやら、起きた人はいないか、いてもわざわざ街から出てまで様子を見には来なかった様だ。誰ともすれ違わず、誰からも身を隠す必要無く部屋へと戻ってこられた。
「……はぁ。おバカ。何やってんだよ」
「ご、ゴメン。でも……これでちょっとマシになったかも」
マシ? やっぱりさっきのは確認だったんだ? と、そう問えば、嬉しそうに頷いてミラは明かりの無い部屋に小さな火球を灯した。
「……どういうわけか、雷魔術は使えなくなってる。雷魔術だけが。でも他の、炎や風魔術はフルトにいた時から問題無く使えた。錬金術だってそう。分かっていれば、それ相応の戦い方が出来るってもんよ」
「…………でもそれってさ……」
一番得意な魔術を封印されてるんだろ? という問いには、彼女も素直に頷かなかった。もしかしてあの時……魔竜と戦う直前、三頭の大型を倒した時の魔力の酷使が原因なんだろうか。あの時は魔力切れで炎魔術に切り替えたのだと思ったが、実はもうその時から…………?
「……? あれ、でもさ……雷魔術、使ったよな? フルトで……俺に……」
「…………? あれ、そうよ……ね。そうよ……アンタに強化魔術使って……もしかしてそれまでは使えてて……? 使えなくなったキッカケはあの戦闘じゃない……?」
いくら唸っても答えは出なかった。ともかく、今は雷魔術は使えないと言うだけで、僕らにとっては大きな痛手だ。なにせあの高速移動も殺人蹴りも、広範囲攻撃も特級威力のあの大技も使えない。彼女の引き出しの多さはある程度見てはいるものの、主力にしてこなかった以上それらを超えるものでは無いのだろう。二人で頭を抱え込んで考え込んでいる間にも、窓から白い光が射し始めた。不安に包まれたままの朝が始まったのだ。