第百六十話
不安はある。確保されたのは安全ではなく安心で、それは言ってしまうと僕らの思い込みである可能性が高い。運良く見逃された、運良く見過ごされた。僕らはあの男から自力で逃げ切ることすら、一度として出来ていないのだから。だが……不安もあった上で、今の僕には責任感がある。秋人として、この店のアルバイトとして。不安は一度置いておいて、帰ってからそれは悩むことにして。今はやるべきことをやる。あっちとこっちを別で考えるのが難しいなら、一緒に悩めばいい。最近たどり着いた答えの一つだ。
「さて。じゃあ車に乗って、原口くん。花渕さん、お店よろしくね」
「いってらっさい。おっさんもヘマしないよーに。大切な一件目だからって無駄に気負わないこと」
はは……僕の心配してくれてるのか店の心配してくれてるのか。うーん……両方、かな。まだ寝坊のこと根に持ってるんだろうか。本当に申し訳無いことをしたと反省しております。
「じゃ、店は任せるし。って言っても、お客なんて来ないんだけど」
「はは……頼もしいよ。それじゃ行ってきます」
僕と店長は香ばしいパンの匂いに満ちた軽バンに乗って店を後にした。この匂いは……いかん、朝ごはん適当に流し込んできたからあんまり食べられ無かったんだ……っ。ぐぉおお……腹が減る匂いだ……
「あはは、その様子だと慌ててご飯も食べずに飛び出してきたね? 急がなくてもいいって言ったのに」
「いや……流石にそう言われて本当にゆっくりご飯食べる度胸は無いですよ……ほんとすいません」
その節は本当に。というか、この短期間でもう二度目の遅刻なんだよな。どっちも向こうでの出来事がきっかけだけど……そればかりは言い訳に出来ないからなぁ。この生活を受け入れて、続けていこうって決めたのは僕なんだし。事実、どちらかが欠けた未来は想像出来ない。どっちの僕も大切にしないとな。さて……それはそうとして。いや、ある意味それも関係あるんだけど……
「あの……店長。大丈夫ですかね……花渕さん一人にして」
「ああ、うーん……いきなり大勢のお客さんが詰めかけてくれたら大変かもね。でも彼女は本当に要領が良いからねぇ……ソツなくこなすというか。最低限は外さないって感じ。頼もしいことこの上ないよね……この間のことと言い…………」
うん……あれは頼もしかった。ではなくて。そう、遅刻ばっかしてる僕の話にも繋がるのだが……店長は僕らのことをどこまで信用しているのだろう。信頼は……花渕さんは信頼されてそうだなあ……
「えっと……その。僕達ってまだこの店で働き始めて間も無いじゃないですか。だからその……花渕さんを悪く言うつもりは無くて、僕らをそんなに簡単に信用しても良いのかなって……」
「ああ……あー……ああ、うん。いいんじゃない? 二人ともレジ金持ってったりしないのは目に見えてるし」
一体どこからその信用は出てくるんだ。花渕さんは遊び盛りでお金が欲しい年頃だ。まあ……しっかりしてるからそんな悪いことするとは思えないけど。ぱっと見の第一印象だけなら……カツアゲされそうとか思ったわけで。僕なんてもっとひどい、論外だろう。この歳になるまで就労経験ゼロ、その上貯金もゼロ。不審者極まりない風体に、皆無に等しい社会性。自分で思ってて泣けてきた。でも、それが事実だろう。どこからどう見ても信用出来る部分が無い。
「花渕さんは賢いからねぇ。例えばこの状況、自分一人しか居ない状況で悪さすれば真っ先に疑われるって、分かっててそんな馬鹿なことするとは思えないんだよね。やるならもっと気付かれない方法で、気付かれないくらい布石を打ってから。だから……多分、あの子が本気で悪さしたら、僕らは気付かないと思うよ?」
「あぁー……僕は絶対に気付かないと思います。あの子に勝てるビジョンが見えない……」
ははは。と、店長は笑って左手で僕の肩を叩いた。落ち込むな、ってことかな? 申し訳無いがそんなことで今更落ち込んだりなどしない。今更過ぎるんだよ……別に花渕さん以外になら、とかも無いわけだし。失う物の無い人間の無敵感たるや。
「君の場合はもっと簡単。そんな悪いことに頭が回らない、回っても手が出ない。と言うか、ケンちゃんの手前そんなの出来ないでしょ? 僕がどうとか、店がどうとか以前に」
「うっ……それを言われると……まあ……」
お見通しだな、意外と。正義感とか常識とか以前に、僕は兄さんに頭が上がらないんだ。兄さんの紹介で……もはや斡旋だったけど。ともかく兄さんの縁でこの店に来た以上、何かすれば全て兄さんの耳にも入るし兄さんにも泥がかかる。そんなことは出来無いし、やろうもんなら家に居場所がなくなる。シンプルイズベスト。僕には兄さんの優しさを、面と向かって踏みにじる勇気はない。もうドア越しじゃないんだから。
「それに君は悪さするのに向いてないからね。嘘なんてついてもすぐ分かるって、ケンちゃんとたまに話するよ。今時子供だってもうちょっと嘘つくの上手なのにねって」
「うぐぐ……」
褒めてるんだよ。と、笑いながら店長は言ったが……褒められてる気がしない! 嘘つくのが下手って一体どんな……ああ、分かったわ。そういえば身近に居たものね、嘘つくの下手な子。僕もあんななのか……いや、あれは美少女がやるから可愛いんであって。太ったおっさんがやってると、ただの成長し損ねたヤバいやつじゃん。その通りじゃん……っ⁉︎
「さ、着いたよ。町内会にちょっと掛け合ってみてね、今日の寄り合いでちょっと食べて貰えることになったんだ。別にこれがそのままこれからの売上になるわけじゃないから、気楽にね。とりあえず手に取って貰おうって試みだから」
「そ、そんなこと言われても……」
パンの入った箱を持ち上げて店長はそう言ったが……そんなの無理じゃん。この語尾やっぱあれだな……女子がやるから可愛いんで、あって僕がやるとただの田舎もんだな……ではなく。初めての試みなんだ、この店にとっても。もちろん僕にとっても。ただでさえ人付き合いが苦手で逃げ出したってのに……へールプ! 心拍の上昇が! 動悸がすごいよ! 歳? 痩せろ? 分かってらい!
「お、落ち着け……落ち着け……パンを届けて挨拶して終わりなんだ。それも店長の陰でささーっとやるだけで……」
気持ちを落ち付けようと深呼吸を繰り返す。目の前のパンが踊り出す。手が震える。視界が歪……っ⁉︎
「原口くん? どうかし……な、何笑ってるの……?」
「いえ……ぶほっ……くっ……ぐふ……なんでも……ぶふふ……ないです……」
突然頭の中で手拍子が鳴り出した。ああ、もう! だからもっとスマートにだな! 僕も僕でそんな……思い出し笑いで緊張ほぐれてるんじゃないよ! あの野郎……戻ったらとっちめてやる。病み上がりだから程々に。
「はぁ……馬鹿らしい。よっと……」
僕は震えなくなった手で箱を持ち上げて店長の後に付いて行った。昔から変わらない公民館で、見たことがあるような……無いような……あったような。町内会の皆さんに店自慢のパンを振る舞った。いや、自慢も何もそんなに美味しくは無いって言うか……ボソついてるって言うか。そして僕はそのまま退散して、店長は呼び止められて……会長さんかな? ちょっと立派なスーツを着てる人と話をしてから車に戻ってきた。
「ふー、お疲れ様。って言っても、疲れるようなことでも無かったかな。これからこんな感じで売り込みもしていくから、今日みたいに丁寧にお願いね」
「はい。いやー…………疲れた……」
店長と笑いながら車に乗り込むと、どっと疲れが押し寄せた。弱すぎるだろ僕……
それから僕らは店に戻り、営業時間いっぱい仕事して…………とは売り上げの都合出来ないので、キリの良いところで二人とも上がって。他愛も無い話を花渕さんとして。というか、花渕さんはなんで僕が着替えてる横で普通に着替えてるの。そりゃ上からシャツとエプロンしてるだけだけどさ。もうちょっと……あるじゃん。なんて少しさみしいイベントも終え……
「さて……えーと……」
僕は文面を考えていた。明日はどうあっても早寝なわけだ。となれば……今日やらないと、ゲームやるタイミングは無いわけだ。デンデン氏を誘おう、とは決めたものの……うーん。ちょっと難しい。いや、デンデン氏を誘うこと自体は簡単なんだけど……今更どうなのってのもありで。うーん……
「……でも、もう体験版じゃやること無いんだよな……」
ミラ(自キャラ)には悪いが、もうやり尽くしたのだ。いや……また最初からやるとかも出来なくは無いけど。基本的にお金が無かったから、同じゲームを繰り返すってのにも慣れてるし。でも……ミラ(自キャラ)に思い入れあり過ぎて消すに消せないっていうか……だからボーストでも久々にやろうかなーって思ったりしたんだけど……デンデン氏、SNS見る限りもうそんなにやってなさげっていうか。鬼竜くんと一緒にやる時しかやってなさげっていうか。
「えーと……そうだな。『デンデン氏―。そろそろミラちゃんでやることが無くなってきましたなー』っと……」
……なるほど、そう言うのもあるのか。相変わらずの爆速リプライに、僕は急いでクラウンサーガを立ち上げる。なるほど……そういうのも……あるのね。
「名前は……髪色は……体型は……むふっ」
思い出せる限りで思い出して、僕はセカンドキャラクターを作った。名前はあの街でお世話になった大切な友人の名前を。職業は……ビーストテイマー! さあ行け、ポチ(仮)ことヴェルグルハイド(謎)こと……ティーダ(確定)よ! あの元気娘とともに世界を駆け抜けろ! え? のっぽの少年? 誰が男キャラなんて作るかよ! 戻ったらとっちめてやるからな‼︎




