第百五十六話
ミラは血が滲む程唇を噛んでいた。それでも、拳を握ることも立ち上がることも出来ないで、膝をついたまま商店があった場所を今にも泣きそうな顔で見つめている。彼女は……僕達はまたしても間に合わなかった。僕は無残にも食い荒らされた農村の姿を思い出す。
「…………ぁあ……っ! ああぁ————ッ‼︎」
「……ミラ…………」
ミラはそのまま両手をついて、叫ぶこともままならず嗚咽を漏らし出した。そんな彼女にかけてやれる言葉の一つも持たない僕は、震えるその小さな背中を眺めるだけだった。少しして、オックスと途中声をかけた男達がやってきた。騒ぎが収まって、野次馬達も家から顔をのぞかせた。文字通り、叩き潰されてしまった様な地術商エンエズを見に、人々は集まって来てしまった。
「……アギトさん…………これ……」
「ああ……」
夕焼けもすっかり落ちた。街灯と窓から溢れる家庭の灯りだけに照らされたその姿は、あまりにも寂し過ぎる。まるで、全て終わってスポットライトが落とされてしまったみたいな。もうその場所には何も無いのだと言われてしまった様な、胸が苦しくなるばかりの喪失感が襲う。たった一度顔を合わせただけの青年の変わり果てた姿が、きっとミラの胸中を蝕んでいる。
「……間に合わなかった…………っ! また……っ‼︎ また…………」
彼女はこれで何度目の後悔をしているのだろう。この旅の間だけで、背負わなくてもいい責任をいくつも背負い込んでしまっている。もうそれを手放してしまえ、と。お前がそんな事にいちいち悲観する必要な無いんだ、と。かけてやろうと思った言葉は、いくつも胸の内で消えてしまった。
しばらくすると、野次馬は皆帰っていった。もう夜も遅い、僕達も戻ろう。僕はそれを言い出すタイミングを見失って、でも彼女を放っては置けなくて。どっちつかずに彼女の隣に膝をつく。名前を呼んで——慰めるでも無くただ名前を呼んで、彼女の側にいるという答えを出した。僕の答えは待機だった。
「…………行きましょう。東へ、キリエの街へ」
「ああ……だけどもう今日は遅い。怪我だってある。ゆっくり休んで——」
震える肩に手をかけようとした僕の体は、あっけなく尻餅をついた。見たことも無い剣幕で押し倒されたのだ。涙を浮かべながら、なにかを呪う様に歯をくいしばる彼女の今の姿はとても見ていられるものじゃなくて……僕はつい、目を逸らした。
「休んで——っ‼︎ 休んで……休んだ結果がコレじゃない……っ! 怪我なんて言っている場合じゃなかった。無理は承知でも追いかけるべきだった……っ。私があんなに幸せを享受してしまったが為に……あの人は——ッ」
「——っ! それは——っ! それは……違う。違うんだ、ミラ」
フルトで過ごした楽しい時間を、そんな顔で呪わないでくれ。お前にとって、あの時間はとても大切なものだった。無論、僕にとってもだ。自分が幸せになった所為で他の誰かが不幸になっただなんて考え方はやめてくれ。言いたいことはいっぱい浮かんでくるけど、僕の口は何一つ言葉に出来なかった。
「……ごめん、痛かったわよね」
「いや…………ミラ……?」
ごつんと頭を僕の胸につけて、そして彼女はゆっくりと立ち上がった。暗がりの中でもはっきりと分かる、勇敢な少女のいつもの顔つきでミラは東を睨む。
「急ぎましょう、今すぐに。まずは東、キリエへと」
「今すぐにって……お前、怪我が……」
心配する僕の顔を見て、ミラは少しだけ青い顔をした。ああ、こいつはまた……バカな勘違いをしているんだろう。ああ……っ! もう……わかったよ。この程度で引き下がる様な賢い奴じゃないって、脳筋なんだってとっくに分かってたんだ。
「う……うぐ……ごめん、アギト。なんとかおぶってくから……」
「俺の怪我じゃねぇよ、お前の……はぁ。わかった、俺は歩けるから」
そういえば、僕も僕でそこら中切り傷だらけあざだらけなんだった。なんて思い出したのは、ミラが心配を口にする直前。青い顔でワタワタし始めたせいだ。思い出したら……背中の鈍痛が……っ。ミラはミラで何やら混乱してる様子だし……こいつは他人の心配をすると他が一切目に入らなくなってしまうな……
「…………お前の好きな様にしろって。付いてってやるから」
「っ! でもっ……うん、ありがとう。オックス、荷物取ってきて。私は少しだけ調べたいことがあるから……アギトもこんなだし」
元気よく返事をして、オックスは宿にすっ飛んで行った。はぁ……宿代、払い損か。懐事情もそんなに裕福では無いんだけど……仕方無い。
「ところで、調べたいこと……って、なんなんだ?」
「魔力痕……の、その痕跡とでも言おうかしらね。あの肉塊が、本当に昼間会ったあのエンエズさんなのか。そして……あの魔竜達の元は一体誰なのか。それを確かめる」
ミラの言葉に胸が締め付けられる。言葉にして聞くと、なおそれを実感するのだ。エンエズさんに出会って、彼のことをしっかり保護しようなんて話をしたのも今日の出来事なんだ。たった一日で……っ。
「…………っ。最悪では無い報告だけアンタにも教えとく。それから……やっぱりさっきも言った通り、今すぐにこの街を出るわ」
「……わかった」
ミラの表情を見れば飲み込んだ言葉がなんなのかくらいは分かる。ミラも僕の顔を見てそのことを自覚したのか、頭を抱えてごめんとため息をついた。隠しごとに向いてい無さ過ぎるし、そもそもその切り出し方じゃ隠せるものも隠せないぞ。なんて、いつもなら突っ込んでるところだ。いや、今だからこそ少しでも和ませる為に…………いや、無いな。
「あの竜達の魔力痕には一切覚えが無い。つまり、私が予期した最悪の展開だけはまだ避けられている、ということね」
「最悪の展開……?」
こくりと頷いて、ミラは東から南へと顔を向け直す。自分達がかつて歩いた旅路の方を、ずっと遠くを望む様に。
「……奴は準備をすると言った。どういうわけかあの窮地を生き残った私を警戒して、最大限の戦力を整えようとしている。困ったことにね」
ゴートマンはあの時の出来事を知らない。あの男からして見れば、あの状況から僕ら三人が逆転したのだと、そんな間違った認識が自然なんだ。そう、あの男も……あのミラを知らない。悪い考えだ——と、何度も首を振るが消えない。消えてくれない。僕はまだ、あの時の兵器と名乗る少女の姿を頼りにしてしまっている。
「…………あの男が求めているのは術師。エンエズさんの様に、優秀な術師を大勢求めている。そんな需要を満たせる場所を、私達はひとつだけ知っている」
「……っ! クリフィアか……」
また彼女は頷いた。最悪というのは、彼女が立てた仮説に基づいたものだろう。“元になった術師の能力が魔獣の強さにも影響する”という仮説が正しければ、老いたとは言え優秀な魔術師揃いのクリフィアは…………っ!
「……そう。あいつの狙いは他でも無い、魔術翁ルーヴィモンド。先代の結界もあるから、そう簡単には侵入出来ないでしょう。でも……」
「だから急ごうって……」
今度はもう頷くこともせず、僕に手を差し伸べた。その意図はなんだ? まさかここでお別れ、今までありがとうなんて言い出すわけでも無いだろう? ミラがなにかを言い出す前に、僕はその手を強く握った。
「……守るわ。何があっても」
「たまには俺にも言わせてくれよ」
いかん、ちょっとときめいた。エルゥさんもそうだったけど、ちょっと逞し過ぎない? そして、僕情けなさ過ぎない⁈ 遠くから足音が聞こえてきて、すぐにオックスが姿を現した。荷物、一人に任せてごめんよ。なんて思ったが……僕らの荷物少なくない? 旅人だよね? こんな装備で大丈夫か?
「よし、じゃあ行きましょうか!」
そんな僕の心配なんて他所に、ミラは力強くそう言った。街を出るとその先は、もう街灯も何も無い、月明かりだけに照らされた大自然。もしまた不可視の魔獣に襲われでもしたら……ミラさん。やっぱり明日に……
「アギト! ほら、早く!」
「お、おう……大丈夫かなぁ……」
言霊一つで、ミラは小さな火球を生み出した。これなら多少は明るい……けど、ミラの魔力は減る一方だ。ランタンの一つも準備してないって……やっぱり明日からにしない⁈ ねぇ⁉︎
「…………アギト……ちょっとビビりすぎじゃない……?」
「く、暗いんだから仕方ないだろ……」
ホルスターの留め具を外し、いつでも銃を構えられる様にしている僕を見て、ミラは感心した顔でそう言った。びびってなんぼ、ここから先は用心し過ぎるくらいでちょうどいい。と、そう言われているみたいで…………あの、生きた心地がしないんですが……




