第百五十五話
まだ真っ暗かなぁ……まだ真っ暗だろうなぁ。なんて目を覚ますと、意外なことにまだ夕方だった。眠ったつもりだったが、どうやらまだ眠れていなかったのだろう。すぅすぅというちいさな寝息とそれから高い体温に、まだ切り替わりが起こっていないことを実感する。だが、それもほんの少しの間だけだ。まどろんでいたってことは……もうすぐにでも眠りに……
「——アギトさん! ミラさん! 大変っス‼︎」
バンバンと叩かれるドアの音とそれからオックスの焦った叫び声に、僕の眠気は一気に吹き飛ばされた。ど、どうした事だ⁉︎ そんな中でも眠ったままのミラを他所に、僕は急いでドアを開ける。
「はぁ……はぁ……っ! オレ達、まずいことしたみたいっス‼︎ 街が……街中にアイツらが……っ‼︎」
「アイツら……っ⁉︎ まさか……っ」
外から悲鳴が聞こえた。緊急性を感じ取ったのかミラも流石に目を覚まし、慌てて僕から飛び降りて窓側に走った。
「…………っ‼︎ アギト! オックス! ここに居て! 絶対ドアは開けないで‼︎」
「ダメだミラっ‼︎ お前だってまだ戦えるか分かんないだろ⁉︎」
「でも——っ‼︎」
ずっと着ているボロボロになったシャツに袖を通して急いで出て行こうとするミラを、僕は引き止めた。原因が分かってない。現状も分からない。そして何より……
「相手が見えないってんなら、二人はただ危険に晒されるだけだわ! 私なら、なんとなくでも居場所が分かる。魔術なんて使えなくても——っ」
「ダメだ! ダメったらダメだ! 俺も行く! もう一人でなんて戦わせない!」
ぎりっと歯ぎしりするのが分かった。僕だけの話じゃ無い、ミラも同じだった。今、街ではパニックが起こっている。考えが甘かった。捕らえられなかった相手が近場の街に逃げ込んだなんて、簡単に想像出来ることだったのに。ミラの言った通り、あの不可視の魔獣が野生の——自然の生き物で無い以上、あの男が関わっているのはまず間違い無いってのに……っ!
「……分かった。でも、絶対に私から離れないで。オックスも、魔術の使用は控えて。避難誘導と自分の身を守ることだけ考えて!」
「おう!」
ミラはナイフを抜いて部屋から飛び出した。僕も魔具のナイフを握りしめて後に続く。オックスは後方の警戒をしながら、更に後に続いて来た。
建物から出ると、街は既に酷い有様だった。幸いなのは、まだ死人が出て居ないってことだけだろうか。いや、それもここから見える範囲だけでの話だ。急がないと……っ。
「……数はそう多くない。アギト、オックス。とにかく建物の中に入るように指示して。歩けない人の保護もお願いすること。そして……それでも、アンタ達は手を出さない、貸さないこと。私から離れないってのと……パニックをこれ以上大きくしない為にも」
「……っ。分かった」
それはつまり、僕らが疑われる立場にあるということか。だがそれは紛れもなく真実であり、今こうして現れた魔獣は、おそらく僕らが引き寄せてしまったものだ。対処は僕らでしなければならない。
「……こっち! 血の匂いが濃い、男の人には片っ端から声をかけて! 人手を少しでも稼ぐのよ!」
そう言ってミラは僕の手を引いて走り出し……っ? 遅い……? 僕らが逸れないようにゆっくり走って……
「……ミラお前……っ」
「いいから……っ! これは私達が解決しなくちゃいけない問題よ」
そもそもが骨折していた人間の、それも運動を取り上げられて弱っている脚だ。いつもの様に走れないのは当然として、やはりあの時同様力が入りにくいのでは無いか……? 不安は尽きないが、今はこの小さな背中を信じて付いて行くしか無い。いざとなったら……僕とオックスで……
また、大きな悲鳴が聞こえた。曲がり角の先だ。数分も走ると大人も何人か見つかって、大所帯とまではいかなくても、そこそこの人数で救助に向かうことが出来そうだ。少しだけギアを上げて角を曲がると、脚から血を流した二人の女性の姿があった。
「二人をお願いします! アギト、オックス! 警戒を! 私から離れず、可能な限り皆を守って!」
「何頭いるか分かるか? もしやばい数いるってんならここにいる全員で避難を……」
どん。と、また拳で胸を押された。だがあの時とは違う、離れていろと言うんでは無い。任せろ。と、口角を上げて、ミラは一歩僕らから離れた。
「——荒れ狂う————っ⁉︎ くっ……そ……なんで……っ⁈」
「……っ! ミラ‼︎」
言霊を唱え出したミラの体がぐらりと傾いた。やはりまだ魔術は……なんて悲嘆している余裕は無い。両腕で頭を覆い、身を屈めたミラの体から血が噴き出した。腕、背中、脚。鋭い刃物で切り付けられた様な傷跡がどんどん増えていく。やっぱり、魔術無しでは——今の弱ったミラに戦う手段は……っ。
「————っ‼︎ そこ——っ‼︎」
ミラの手が虚空を掴んだ。たしかに質量のあるその空間を掴み取った。ああ、僕でもそれならば分かる。肉を切らせて骨を断つとはこのことか。ミラが掴んだ空間には、違和感のある真っ赤な線が付いていた。自分の血を目印にして、正確な位置や距離を測って——ッ⁉︎
「ッ⁈ きゃぁっ‼︎」
少女の体は簡単に地面に叩き付けられた。ダメだ……万全に加えて魔術で強化したいつものミラならいざ知らず、今の弱った彼女では魔獣を拘束するだけの力なんて無い。いつもの電撃での補助も無い今のミラに……っ!
「オックス! みんなを頼む!」
「ぐっ……ぅ……んぎぃ〜〜〜っ! 分かったっス! 無茶はしないで下さい!」
物分かりのいいやつだ、オックスは。倒れ伏し丸まって身を守るミラの上に、覆いかぶさる様に僕は抱き付いた。背中が熱い。腕が、脚が。斬り付けられて初めて分かる。こいつはいつもいつもこんな痛みを……
「アギト……っ! 退いて! 退けっ! それじゃアンタが……っ!」
「退かない……っ! 退くわけない! でないとお前は‼︎」
ガンッ! と、頭の中で鈍い音がして、チカチカと視界が明滅した。さっきまでとは違う、斬りつけるのでは無く叩きつける様な攻撃を背中に貰ったのだろう。息が出来ない。逃げたい。でも……
「——っはぁっ! もう一種類……居んのか……?」
せめて、それが別種なのか、斬るのでは無く踏みつける様に攻撃方法を切り替えただけなのか。情報くらいは得ないと引き下がれない。もう一度、ズンという音と共に鈍痛が背中に走る。もう一度、もう一度。もしも総取っ替えで個体が変わったんで無ければ、これは同一個体の攻撃だろう。もしかしたら、僕ごとミラを踏み潰そうとしているのかもしれない。だとすればアテが外れている。切り刻まれたなら出血ですぐにでも気絶しただろうに、これなら……耐えられなくも……っ?
「……アギト……?」
「…………っ? ミラ、アイツらの気配は……?」
周囲を警戒したまま、ミラを覆い隠す様な体勢のまま僕は身を起こした。僕の質問に彼女は首を横に振り、辺りを見回して信じられないといった顔で呆けていた。
「……ここだけじゃない。もう、この街にアイツらはいない……どうして……?」
「いない……? 何か目的を達成したって…………っ‼︎」
僕もミラも急いで立ち上がった。まずい——まずいまずい! 急いで向かった先は昼間に訪れた道具屋、つまり——
「…………おや。おやおや、おやぁ。お久しぶりですね、ええと……なんとおっしゃいましたか。お名前……お伺いしましたっけ? まぁ良いです。今は貴女にも特に用は無いですしねぇ」
「——ッ! ゴートマン……っ!」
遅かった。間に合わなかった。どうして気付けなかった。どうして思い出せなかった。今日聞いた話だったじゃないか。こいつは術師を探している。この街に術師は珍しいと、彼が教えてくれたじゃないか。術師は術師を見分けられると……散々——ッ‼︎
ミラは膝から崩れ落ちた。僕もとても平静を保てる状態に無かった。ただ上がってくる吐き気と吐瀉物を抑え込むのでいっぱいで……それがなんなのかという理解を、最悪の現実と向き合うことを脳も体も拒否している様だった。
「では、ご馳走様でした。ご招待しますと言った手前で申し訳無いのですが……まだ準備が整っておらず、ええ。申し訳ありませんが、今はまだ。行きましょう、えーとそうですね。お名前伺うの、忘れてましたね」
ゴートマンはそう言って、ソレの手を引いた。まるで貴婦人をエスコートするみたいに丁寧に、優しく手を握って。そして、店があった場所に落ちていた板切れを見下して、一番聞きたくなかった言葉を口にする。
「“エンエズ”さん、って。貴方の名前ですよねえ。これからよろしくお願いしますよ、ええ」
ぐちゅ、ぐちゅる——と、それは身を……肉を這わせて進む。もう面影など何も無い、ただの肉塊と化したソレを、まるで愛おしい人でも見る様な目で見つめるその男を僕らは黙って見逃すしか出来ないでいた。エンエズと呼ばれてしまった……彼だった物を————
「————さようなら。次は貴女の——————」
剛風が吹き荒れて、男の声は掻き消された。ゴートマンも、エンエズさんだった筈のものも、そいつに運ばれて姿を消した。あの時倒した物よりも更に大きい、屈強な肉体を持つ竜“達”の飛び立つ姿を僕らは見せつけられたのだった。




