第百五十三話
敵は何頭いるのか、どんな姿をしているのか。どんな攻撃をしてくるのか、果たして本当に魔獣なのか。見えないというだけで、戦う為に必要な情報の大半が欠如してしまった。
「……いい、二人とも。見えないんじゃ戦いようも無い。一気に駆け抜けて撒くわ。合図したら私に掴まって」
ミラはそう言って、もう一度気を引き締め直す様に短く強く息を吐いた。第六感で敵の存在こそ感知出来ていても、やはり戦うとなると難しいのだ。撤退を選んだ彼女に、僕らは揃って頷いた。
「——揺蕩う雷霆……っ⁈」
いつも通り——ミラが唱えたいつもの強化魔術の言霊は空に消える。しかし、対照にミラの体がストンと地面に落ちていった。力無くぺたんと座り込んでしまったその姿は、自分の状況を全く飲み込めていない様子だった。
「…………っ⁈ どっ、揺蕩う——っ⁉︎」
「ミラ……っ⁈」
少女の体がぐらりと傾いた。急いで両手をついて倒れるのを防いだ彼女の表情は困惑に満ちていて、同時に僕らは確信を得る。どういう原因かは分からないが、ミラは今戦えない。さっきの一撃で毒を貰ったのか、それとも何か他の、地質や空気の成分なんかが関わっているのか。僕にわかるのは……
「……な……なんで……っ」
「ミラっ! 大丈夫か⁈ 走るぞ、掴まれ!」
今この場に留まるのは良くないということだけだ。へたり込んだミラの前でしゃがんで、早く背中に乗る様にと急かす。一刻も早くこの場を離れないといけない。もしも、この不可視の攻撃の正体がゴートマン繋がりだとするなら……やはり毒という線が濃い。早い所病院に連れて行かないと……
「オックス! 一度引き返そう! いつ着くか分からない次の街より、一旦戻って……」
「——ダメっ! そっちはダメ! 見えないけど……さっきまでは居なかった筈なのに…………大量にいる……っ! このまままっすぐ、川にも近付かないで!」
後方に大量にいる……っ⁈ そんなバカな! だってその道はさっき僕らが通ったばかりの道だ。ミラが敵の存在に気付いたのはたった今で、この少しの時間で一体どこから、ミラの索敵範囲外からどうやって⁉︎
「アギトさん、先行ってください! ちょっとでも時間を稼ぎます!」
「オックス⁈ 何するつもりだお前!」
いいから早く! と、怒鳴られ、僕はミラをしっかりおぶって走り出した。ミラのしがみつく力が弱い。まさか怪我がまだ……っ。
「……掬い上げる南風」
「強化魔術……っ! オックスのやつ、もう使いこなしたのか!」
ぶわっ——と、風が舞い上がった。あの時ミラに見せて貰った時よりも激しい風が。だがそれは……つまり、体を支えるのに必要な最低限の出力に抑えられていないということだったのだろう。ミラは心配そうな顔で見ているし、オックスも少し慌てている様子だった。
「でも……これなら……っ‼︎ 扇刃一線っ‼︎」
かつて見せた様にオックスは短剣を脇に構え、そして大きく振り抜いた。それは以前の、空を斬る鋭い刃では無く、より多くの空気を切り取る大回りな剣筋に見えた。
「……ほんと、センスあるわ。アギト走って! オックスなら大丈夫!」
「お、おう!」
オックスが振り返って走り出す姿を確認して、僕も思い切り走った。向こうの景色が歪むほどの暴風が吹き荒れて、おそらくあの魔獣もこれでは追ってこれないだろう。一刀の下に斬り捨てる風の刃の魔術を発展させた範囲攻撃とでも言うのか。でも、なんか……ズルくない? 僕にもそろそろ強化イベントがさぁ⁉︎
「オックスばっかり! オックスばっかりがっ‼︎」
「っ⁉︎ ど、どうしたんスか⁈」
いや、こっちの話だ。お茶を濁す僕とは打って変わって、ミラは興奮気味にさっきの魔術について質問責めにした。こらこら、暴れないの。
「そうっス。まだ細かい調整は出来ないけど、とりあえず背中側に大きな壁を作ることは出来るっスから。今までは自分が吹っ飛ばされるから出せなかった出力でも放てる様に、支えをイメージして」
「偉いわ! オックス偉い! そう! そうなのよ! えへへぃ……楽しいわよねぇ……。魔術も錬金術も、有るものをどう使うか、無いものをどう補うか。それが大切で、同時に一番楽しいポイントなの。見事だったわ」
べた褒めにされてまんざらでも無さそうなオックスは一度置いておこう。うん、あれだけ褒められれば嬉しいのは分かる。だがな、ミラよ。僕はもう泣いてしまうぞ。暴れるのは百歩譲って許そう。危ないってことは確かだし、僕も余計に気を配らないといけなくなる。けど、それだけだから。我慢します。でもね……
「ミラ、興奮してるとこ悪いんだけどさ。頭叩くのはやめてくれよ。地味に痛いし……疎外感も相まってとても寂しい」
「へっ? あっ……ご、ごめん!」
無意識にやってたのね。痛いってのは誇張表現としても、僕の上で僕を除け者にして盛り上がるのは勘弁して欲しい。寂しいし…………めっちゃ寂しい。
「……それより気配は? まだ追ってくる感じあるか?」
「…………今のところは大丈夫。でも気は抜かないで。別の危険もあるけど、林を通って行きましょう。多分、単純なスピードなら私達より速い。或いは水の流れに乗ってやってきているのだとしたら、木々の間を縫って進むのは難しいはず」
了解。と、オックスと息ぴったりな返事をして、僕らは少し遠いがさっきからずっと視界に入っていた林を目指す。欲を言えば、その先に人里があると……
ミラの予想通り、と言うべきか。僕らが林に入った頃、彼女はもう大丈夫と言った。僕らはそれを合図にペースを落とし、ゆっくりと、けれど歩くよりは速い程度の速足で木々の中を進む。
「厄介ね。あれが野生だったなら……近くに街や村は望めないかも」
「……逆に言えば、この近くに集落でもあればさっきの奴は……」
そういうことになるわね。ミラは少しだけ強く僕にしがみついて奥歯を噛んだ。もし、今ゴートマンに襲われたなら……僕は乾いた口の中の、粘ついた唾を飲み込んだ。一刻も早くミラの回復を。
「…………さてと、ミラさん。これって、もしかしなくても別の危険って奴っスかね……?」
「オックス……っ⁈ そうね……足跡はある? アギト、アンタも警戒してなさい。魔弾もいくらか補充してあるとは言え、大型が相手じゃ分が悪い。まずは逃げることを考えるのよ」
うん? 二人とも一体何を? と、首をかしげる僕の視界に映ったのは、大きく抉れた木の幹だった。ミラをおぶって少しだけ視線の下がった僕には見つけ辛い高い位置についた爪痕は、その者の大きさをよく表している。深く深くまで刻まれたそれを見て、僕は体が冷えていくのが分かった。
「急いで林を抜けましょう。ただの熊ならいざ知らず、魔熊となれば音を聞いて襲ってくる可能性もある。出来るだけ静かにね」
また僕らは了解と口を揃えた。さっきの不可視の魔獣も、この巨大な魔獣も。本来ならそんなにビクつく必要の無い相手なのだが……いや、この考え方はもうやめよう。ミラが倒してくれるから安全、なんていうのはダメだ。僕一人で相手して、逃げられるかどうかを基準に持っておかないと。
ミラとオックスの二人掛かりで痕跡を探したお陰か、僕らは何事も無く林を抜けることが出来た。トグの大山で戦った様な強靭な魔熊だったとしたなら、こうして出会わずに抜けられたのは本当に幸福だ。もしあれが出てきたのなら、いくらなんでも僕とオックスでは手に負えない。逃げることも……恐らくは……
「二人とも! もう少しよ! まだ遠いけど街が見える。煙も上がってるし、山火事ってんじゃなければ人が住んでるわ!」
「本当か⁉︎ オックス、聞いたかよ!」
嬉しそうにミラは背中の上ではしゃいだ。僕もオックスも続いて笑って、また速足で街の方へと向かう。キリエの街へはまだ着かない筈だから。ということで、目的地では無さそうだが、とりあえず宿は確保出来そうだ。頼りっきりは良くないと思ったばかりだが、ミラが戦えない以上野宿なんてのは避けたい。医者にも行かないといけないし。
しばらく歩いて、僕らは小さな砦みたいな街にたどり着いた。街の規模は本当に小さい、アーヴィンの半分も無いんじゃないかな。フルトの様に冒険者がいるわけでも無さそうだ。だが、そこは確かに魔獣から身を守ろうと人々が寄り添った防衛街だ。
「……ミラさんの悪い予感。今日は尽く、っスね」
「ええ……アギトも注意して。この街では絶対に一人にならないこと。私が動けない今は特に、絶対に二人で行動するのよ。それから、私からあまり離れない様に。いざとなったら……」
おっかないことばっかり言うなって。赤ん坊をあやすようにミラの体を揺すって僕は街へと乗り込んだ。一番乗りだ! いえーい! ごほん。名も無き砦は、看板によってルーエイという名を僕らに教えてくれた。この街での滞在はそう長くは無いのだろうが、少なくとも一晩はお世話になる街だ。まずは挨拶からだろう。そんな訳で……
「まずは街に入ってから考えよう。街を警戒する必要はないだろ? ゴートマンが錬金術使いだってんなら、ミラが見るだけで分かるんだし。顔だってもう見てるんだから」
「…………はぁ、お気楽ね。まあその通りだけど……なんか、アンタが言うと不安になるわね……」
ちょっと⁉︎ それどういう意味⁉︎ さっきより激しく揺さぶると、慌ててしがみついてそのまま首元に噛み付かれたので、もうミラへのちょっかいは今日はやめておこう。ともかく街に着いたのだから、ひとまずご飯…………じゃない! 病院だ!




