第百五十二話
目が覚めたのは、久々のミラのモーニングコールでのことだった。とても寂しそうな、顔でもう行こう。なんて言う少女の姿に、僕も寂しさを覚える。決心が揺らがぬうちに伝えたいのだ。やっと出来た友人に、エルゥさんに。もうこの街を出ると、そして二度と会えぬかも知れぬと。
「……大丈夫。帰りに寄ればいい。また会えるよ」
「…………うん」
さて、オックスも起こしに行かないとな。空が白んで来ている。次の街までにどれだけかかるかも分からない。何事も無く無事に辿り着ける保証も無い。真っ暗で前後不覚という状態の中で野宿する様な事態だけは避けないといけない。出発するならもう行かなくちゃ。
もう起きて支度をしていたオックスに声をかけ、僕らは別れを告げるために役所に向かった。エルゥさんはいつも通り溌剌とした笑顔で迎えてくれて、ミラにはそれがなお辛いものとなったことだろう。僕の手をぎゅっと握って俯いてしまっている。やはり僕が……
「おはようございまーす! おや、おやおや……でへへ……朝っぱらから見せつけてくれますねぇ……」
「おはようエルゥさん。えっと……実は……」
俺達はもうこの街を出ることにしました。そう言いかけた時、ぐいと手を引かれた。ミラは首を横に振って……そして、僕の前に一歩躍り出て深呼吸をする。
「……私達はこの街を出ます。本来の目的通り王都を目指し、一度東へと向かいます。ありがとう、エルゥ。お世話になりました。貴女と出会えたことを、私達は……私は……っ」
「…………そっか。うん、そんな気もしてました」
遂にミラはボロボロと泣き始めてしまった。そんなミラを見て、慰めるのは貴方の役目でしょう? なんて言わんばかりに困った顔で僕を見るエルゥさんは、やはりというかどうしてもというか……諦めた様な顔つきにも見えた。彼女は、僕らの何倍もの出会いと別れを繰り返しているのだ。そう改めて認識する。
「……もう、泣いちゃダメですよ、ミラちゃん。また遊びに来てください。ティーダも待ってますし、この街のみんなも待ってます。私は……うん、決めた」
「……エルゥ……?」
エルゥさんは嗚咽をあげるミラを抱き締めて、優しい手つきで彼女の髪を撫でた。決めた。とは、何か腹を括ったのか。いつもより更に明るい、そして強い女性の笑顔で彼女はミラに笑いかける。
「私も王都に向かいます! お仕事があるんで一緒には行けないですけど。ずっと……ずっと憧れていた王都に。皆さんみたいに歩いて行くわけにはいかないですけど、それでもミラちゃんみたいに色んなものを見たい。もっと広い世界で色んな人とお話がしたい。だから……次はきっと、王都で会いましょう」
「…………うんっ! 絶対……絶対また……ぐす」
ああ、もう、泣かないで。なんて彼女は笑う。アーヴィンを出る時だって泣かなかったミラが……ああ……いや、違う。こいつは、きっとあの時も泣いたんだ。今朝だってそうだ。珍しく早起きだったんじゃない、きっと眠れなかったんだろう。不安で不安でたまらなかったんだろう。寂しくて身が裂かれてしまいそうだったんだろう。もう十五歳、まだ十五歳。寄る辺も無い彼女にとって、慣れた街、やっと出来た友人との別れは、あまりにも辛い出来事だろう。文字通り、僕には想像するのが精一杯の苦しみを、彼女はいつか乗り越えて笑うのだ。
「……じゃあ、気を付けてね。毎日お祈りするからね。アギトさん、ミラちゃんをちゃんと大事にしてくださいね? オックスさんも、無茶し過ぎない様に。それから……」
それから……? 僕らは俯いてしまった彼女の言葉の続きを待った。ポンポンとミラの頭を撫でて、そして彼女は一歩下がって僕らに向かって満面の笑みを浮かべる。それはきっと、彼女個人だけの言葉では無い。ギルドの、この街の。あの事件に関わったものとしての言葉でもあるのだ。
「……私も楽しかったです、嬉しかったです! 絶対……ぜーーったい! また、帰って来てください! 皆さんはもう、フルトの街の家族です!」
「……うん! ばいばい、エルゥ!」
僕らの姿が見えなくなるまで……いいや。ミラのことも考えれば、きっと街を出るまで彼女は僕らに向かって大きく手を振っていたのだろう。トグの大山を迂回する様に舗装された東への街道を進む僕らが、その山の陰に隠れてしまうその瞬間まで。
「…………強い人だったな。それに優しい人だった」
「そう……? そう……ね。強くて……とても厳しい人だったわ」
厳しい? と、僕は首を傾げる。オックスもその言葉の真意を掴みあぐねているようで……ほら、ミラ。説明説明。お前はいつも一言足りないって、この間も言っただろう。言ったっけ? 思っただけだっけ?
「だーめ。自分で考えなさい。エルゥは間違いなく厳しい人だったわよ。それこそ神官様よりも、ゲン老人よりもずっとスパルタよ」
「神官様より……」
「先生より……?」
ぷいとそっぽを向いてしまったミラにいくらせがんでも答えは帰ってこない。もしかしたら、僕らの知らないところで、二人きりの時に何かあったのだろうか。教えてくれないってことは…………やっぱりあの時女の子同士で何か……っ⁉︎
「…………見えなくなっちゃたわね……街……」
「……そうだな」
不意に立ち止まって、ミラは寂しそうな顔で街のあった方を眺めた。もうそこには陽射しを浴びて輝く険しい山しかなかった。
「……アーヴィンを出る時だってそんな顔しなかったくせに。大丈夫だって、また会えるよ。これからだって、もっと大勢と出会える」
「……生意気言って。うん……ありがとう」
僕らの旅はまた続く。冒険者の街、若者を失った港町、地獄を味わった街、そして……大切な友人が出来た街。あらゆる言葉を以ってしても表しきれない思い出の街、エルゥさんの街。僕らはそんなフルトに背を向けて、東へ——手紙の指令通りキリエの街を目指す。エルゥさんをはじめとした街の人の情報によると、砦こそ持たぬものの湖に囲まれた栄えている街らしい。水資源にも土壌にも恵まれた、文字通りオアシスの様な街。辿り着く前から少しだけワクワクしてくる。
「アーギートー。楽しみなのはいいけど、あんまり気を抜かない様に。いつまたあの男が襲ってくるかも分からないんだから」
「わ、分かってるって!」
そう……あのゴートマンなんていう危険人物に目をつけられてさえいなければ、この旅は長閑で楽しい物見遊山だったのに……
この道のりは随分楽だ。なんて思っているのは、多分僕だけじゃない。さっき気を張れなんて言っていたばかりのミラも、呑気な鼻歌交じりに景色を楽しんでいる。いや、呑気なんかじゃない。ここならば大丈夫、というのが見て分かる。後方には確かに山が見える。だが、前方はどうだろう。左右は。遠くに林か何かは見える。川は少し行ったところに流れている。地面は短い草に覆われて、滑るとか硬いとか、歩きにくい要素も無い。身を隠せる程の背の高い植物も無く、鬱陶しいと踏み倒す手間も無い。そう……待ち伏せされる恐れがあるものは何も無いのだ。
「はぁ……長閑っスねぇ。カエルの鳴き声くらいしか聞こえないなんて」
「そうだなぁ。カエルと……たまに鳥の鳴き声が聞こえるくらいかなぁ。虫の音も夜になれば聞こえるのかなぁ」
もう、気を抜かないの。なんて注意するミラも、随分穏やかな顔つきだった。うん……これはとても……平和で良い。願わくば、このままキリエまで辿り着けると……
「……ほら、ちゃんと気張って。ちょっと待ってなさい。すぐに片してくるから」
「なんだ? トイレか?」
脇腹に一発いいのをもらった。最近多い……脇腹……っ。ミラはナイフを一本抜いて、僕らの前に立ちはだかる様に構えた。真剣な目つきに、僕とオックスもすぐにスイッチを切り替える。魔獣の気配を感知したのだろう。だが……こんなひらけた場所で一体どこから……?
「…………アギト! 退がってなさい!」
ミラの睨む方を確認しようと一歩前に出ると、怒鳴り声とともに胸を突き飛ばされた。その時、目の前に真っ赤な糸が…………違う! これは血液だ。魔獣は血を飛ばして…………バカ! 全然違う‼︎
「ミラっ‼︎」
「大丈夫よ! 指先をちょっと切っただけ! いいから退がってなさい!」
まさか……不可視の魔獣……っ⁉︎ 僕とオックスは、あの時と同じ様に背中を合わせて周囲を警戒する。もしもそれが本当に不可視だとするなら…………不自然であるとするなら——っ‼︎
「まさかゴートマンの……っ」
「否定は出来ないけど、そうとも限らないわね。とにかく姿が見えるまでそのまま、下手に動くんじゃないわよ」
平和な道のりは一転。姿の見えぬ脅威に僕らは晒されることとなった。