第百五十話
なるほど……もう三十年生きてきて、今になってわかることの多いこと多いこと。人生は永遠に勉強なのだな。と、一人深く頷く。うん、納得納得。勉強になりました。なりましたから、なったんで……ちょっと、ちょっとちょっと?
「アーギートーさーんー……っ! はーやーくーいってくださーいーっ‼︎」
「タンマっ! ちょっと待って、死んじゃう! 命綱とか無いの⁈ ねえっ⁉︎」
後ろから死地へと追いやろうとするエルゥさんに全力で争いながら、僕は一人確信する。死ぬ。この高さから落ちたら……人は死ぬ……っ! あっさり……無味乾燥な死を迎えてしまう……っ‼︎
「でぇい! なにを今更怖気付いてるんです! こんなの魔獣に比べたらなんだって……」
「なんだってあるよ! 死んじゃう! ごめんなさい、無理です! これは僕には無理な依頼でした!」
僕はどうやら、高所恐怖症らしい。いや、こんな高さ……誰だって……
「アギトー……? な、なにやってんのアンタ……」
「ミラっ! 助けてミラっ! 殺されるっ‼︎」
「ころ——っ⁉︎ 人聞きの悪いこと言わないでください‼︎ 大体、ここ二階の屋根ですよ⁉︎ いつも窓から見てる景色とそう変わらないでしょうっ⁉︎」
いやーっ! 死んじゃう! 死んじゃうから! と、駄々をこねる僕を、下からは窓から身を乗り出したミラが、側からはエルゥさんが呆れた顔で見ている。ああ、情けない……なんてことは! 断じて! 思わないッ! だってこんなの……あれ……? そういえば、この間ミラに強化かけて貰った時はここより高くまで跳んだんだっけ……? いやいや、あれは強化魔術があったからこそだな……いつもミラにおぶられてる時の方が高いし危ない気もしてきた……よ、よし……
「……南無三…………ひえぇぇ……」
「あははっ! なにそれアギト! へっぴり腰!」
笑うな! ようやく窓から屋根に移った僕を、そんな無邪気な顔で笑うんじゃない! しょうがないだろ! 日常生活でこんな高いとこ登る機会無いんだから!
「ほら、アギトさん。さっさとやっちゃいますよ」
「うう……カッコいい……」
エルゥさんはスイスイと屋根を登っていってしまった。口に出した通りその姿がカッコいい……あっ…………むふぅ……このアングル中々……むふふっ。
「…………っ! アギトッ‼︎」
「ひぇええいっ⁉︎ ち、違うぞ! 何もしてないぞっ⁉︎」
振り返れば……たかいぃぃ……じゃなくて。ミラがジロリと僕を睨んでいた。あっ……もしかしなくてもエルゥさんのお尻ガン見してたのバレてます? いや、違うんだ! その……動きやすいようにってことだろうけど、ぴっちりしたズボン履いてるから……ムチムチ感がっ‼︎
「……? ほら、アギトさん。遊んでる余裕あるなら早く登ってきてくださいよ」
「は、はいっ! ち、違うから! やましいこととか無いってば! 目を見ておくれよ、ミラっ‼︎」
知らない! と言わんばかりに、つーんとそっぽを向いて……でも顔は引っ込めないんだな。何だかんだ僕の心配はしてくれているのだろう。甲斐甲斐しいにも程がある、可愛い妹を持ったものだ。
「…………よっと……おお……」
「やっと来ましたか。ほら、高いところも捨てたもんじゃ無いでしょう」
あっ……はい。と、僕は急いで振り返って景色を目に映した。けっ……けけけ決して! 腰を下ろしたエルゥさんの太ももに目を奪われていたわけでは……っ! あれだな、ミラが突っ込んでくれないと本当にシャレになってないな。通報されたらどうしようか。だが……うん、確かにムチム…………げふん! 屋根の上から見る街並みは壮観だ。いつかクリフィアでも窓辺から見た景色に感動したよな。うん……しょうがないよ。ただの街並みすら、僕には新鮮なものなんだと再認識する。でも、もうそれを嘆かない。これからはもっと一杯……
「はいっ、観光はここまで。ほら、早いとこ片付けちゃいますよー」
「……なんて風情のない…………」
今いいとこだったのに! なんて反抗出来るわけも無く、案外あっさり慣れた高所作業に僕らは熱中した。高所恐怖症っていうか……自分の足での高所って初体験だったのね、今更だけど。
「…………しかし、今朝のワンちゃん……」
「ああ、早いとこ飼い主探してあげないとな。ミラは随分可愛がってたし……泣くだろうなぁ……」
はぁ。と、溜息をつかれてしまった。な、なんだよう。僕、変なこと言ったか……? 容易に想像出来るじゃないか! ミラは絶対泣く、賭けてもいい。
「そうじゃなくって……でへへ」
少しだけ僕は身構えた。うん……その笑い方が出ると……大体ロクな展開にならないっていうか……ロクなこと言わないっていうか……
「でへっ……今朝のミラちゃん、随分無抵抗でしたよねぇ……」
「…………まぁ、寝ぼけてたからね」
またまたーっ! はは、またまた? 僕らは笑いあってすぐに睨み合いに戻る。いえ、睨むも何も、エルゥさんはずっとニヤけてるんですけど。僕の心情としては、もうこれは冷戦といっても過言では無い。
「アギトさんと勘違いして、無抵抗だったんですよぉ……でへっ。あれってぇ……アギトさんにならあんなことされても平気って意味じゃないんですかぁ……? じゅるっ……でへへへ……」
「どうあってもそういう方向に持って行きたいの、貴女は……はあ。なんども言うけど、俺とミラは……」
またまたまたーーっ! はははは、またまたまた? と、僕らは笑いあってすぐに取っ組みあった。いえ、取っ組みあったって言っても……エルゥさんが肩を組んで、ニヤけ顔を寄せて来ただけ……っ! 近っ……待っ……ッッッ⁉︎
「ほらほら……いい加減素直になりましょうって。なんなら、今夜試してみたらいいんじゃないですか? 寝付いた頃を見計らってちょーーーーっとシャツの隙間から手を入れて。ガン見してましたもんねぇ……興味あるんでしょう……ぐへへ……」
「ちょっ……ちょっと……って、何言ってんだこのエロオヤジ! オヤジ……? 頭お花畑も過ぎるぞ……ですよ……あの……ちょっと、本当に……」
両手を上げて目をそらす僕に、エルゥさんは更にニヤニヤと悪い笑みを浮かべた。やめろ……やめてくれ…………っ! これ以上童貞を追い詰めないでくれッ‼︎
「……ミラちゃんは良いのに、私はダメなんですか。へぇ〜……でへへえ」
「……っ⁉︎ ちょっと⁉︎ 何でもかんでもそっちに持っていくのはやめてちょうだい⁉︎」
なんでよ! 気付いてよ! どっちかって言うと、ミラよりエルゥさんの方がドキドキするだけだって! そん……そんなねぇっ⁉︎ ミラがそんっ……そんなととと特別とかっ⁉︎ そそそそういうんじゃッッッ⁉︎
「エルゥさんっ! 早く終わらせますよっ! 飼い主探しもしなくちゃいけないんだから‼︎」
「えぇー……もー、二人してすぐにはぐらかすんだもんなー」
はぐらかしてない! って言うか、今のはエルゥさんの匂いとかそういうのにだな……いや、しかし近くで見るとやっぱり美人だな……それにミラには無い……大人の……ごくり。いや、エルゥさんもまだ子供なのは変わらないんだけど。
「ぶー……絶対うまくいくと思うんだけどなぁ……」
「あのね……」
中学生女子か。いや、中学校は途中から行かなくなったし、女子との交流なんてあるわけもなかったんだけど。いやでも、恋愛に事柄を絡めようというその精神は、中々どうして見上げたものだが……相手を選ぼう。そりゃミラは可愛いと思うが、どっからどう見ても…………アウトだろ。それに……
「…………僕がアイツに好かれるなんて……」
「……アギトさん?」
っ⁈ 急いで手を口に当てたが、どうやら遅かったらしい。それはどうして? と、からかうでも無く、純粋な疑問からエルゥさんは僕を追い詰める。心の声が漏れるとか……本当に起きるなよ……っ。
「……アギトさん。それがどういう意図かは分かりませんが、貴方が自分をどう思おうと、誰かが貴方を好きになることを否定する材料にはなりませんよ? ずっと思ってました。アギトさんは、随分自己評価が低いって」
「……低くなんて無いよ。採点ミス無し、赤点が俺の絶対評価だ」
むぅ。と、頰を膨れさせて、エルゥさんはトンカチを……どぉぉおぃ⁉︎ トンカチを振り回すな‼︎ それはシャレにならん‼︎
「低いです! 低過ぎです! 少なくとも、貴方はミラちゃんを、そしてオックスさんを。仲間を想って行動出来る素晴らしい人です! 私が見た貴方の姿は、屈強とは縁遠くとも、勇敢であることに間違いありません!」
「——ッ」
それは……だって……今の僕しか見ていないから……っ。本当の……秋人と言う過去を知らないから……
「……アギトさん……っ⁈ な、泣いてるんですか⁈ ご、ごめんなさい……えっと……なにか気に触ることでも……」
「へ……? 泣い……っ⁉︎ なんで俺泣いてんの⁉︎」
知らないですよ! と、エルゥさんはポケットからハンカチを取り出して涙を拭ってくれ……きゅんっ。かっこよ過ぎる……それは僕がやりたいやつ……っ。
「もう……あ、もしかして褒められて感極まっちゃいました? ちょろすぎますよー? そんなんじゃ、いつかミラちゃんを泣かせそうだし……今のうちに褒められ慣れといた方がいいんじゃ無いですかぁ?」
「感極まって……いや、うん。たぶんそう……だと思う」
ちょっと。憐れまないでちょうだいよ。自分で言ったんじゃない、なんでそんな顔するの。しょうがないじゃん、褒められ慣れてないんだよ僕は。そんなね……ああ、もう。昔、ミラ相手にもこんなこと思った時があったな。あの時は……いい方向へは転ばなかったけど。
「〜〜っ! いいから! 早いとこ終わらせますよ!」
「は、はい……本当に大丈夫ですか? もしあれならミラちゃんにお願いして慰めて貰っ——」
「——要らないからッ‼︎」
僕らはまた作業に戻った。早いとこ終わらせて、ミラとポチ(仮)のふれあいの時間を少しでも短くしなければ。絶対泣くから、このままだと。まったく……手元が見辛い。なんだよもう! お調子者っぽいクセに、急にしっかりするなってんだ。そんな……そんなの言われたら嬉しいに決まって……だーっ! 泣くなアギト! 秋人は泣いて無いんだから、お前が泣いてどうする! 勝手に泣くな! 普通に危ないから!
「アギトさん、もっと自信持ってくださいね。どんな理由にせよ、貴方はあの惨劇から帰ってきてくれた英雄なんです。少なくとも、私にとっては」
「……善処します」
最近、ミラに肯定されることにはすっかり慣れてしまってたんだな。と、少し反省ポイントも見つかった。アイツの一言一言ももっと大事にしよう。いや……それしてると割と身が保たんな……なにせ、アイツは全肯定小娘だからな。親バカお母さんでももうちょっと否定するぞ……まったく……
ようやく地上に戻ってきたのは、すっかり涙の跡も消えたお昼頃のことだった。昼ごはん買いに行く……ついでに、飼い主でも聞き込みするか。なんて考えていると、エルゥさんが申し訳なさそうに手を挙げた。はい、どうぞ。発言を許可します。
「……あのぅ……ワンちゃんの飼い主なら、役所に届ければすぐに見つかりますよ……? ペットや家畜の飼育は許可が必要ですし……」
「…………もっと早くに言おう?」
もっと……もっと早く……っ。ミラがヴェルグルハイドとか変な名前をつけちゃう前に言おう? 飼い主探しって聞いてしょんぼりする程打ち解ける前に……言おう……っ!