第百四十六話
ほとぼりの冷めた頃に恐る恐る部屋に戻ると、ミラはそっぽを向いて横になっていた。もしも……万が一にもさっきのがそういうことだとしたら、僕は最低の男なのだろう。もしも、万が一、何かの間違いで。ミラが僕に好意を寄せてくれたとして、僕はそれに応える自信が無い。何もせず、ただ無為に時間を消費するだけだった男に、彼女に愛して貰うだけの資格なんて無い。分かっている、分かっているのに……どうしてもこの少女に好かれたいと考える自分がいる。図々しい男だと自分でも思う。調子のいい奴だと責める自分を、さらに別の場所から嘲笑う自分がどこかにいる。
「……ミラ? もう……寝てるか?」
そんな僕の卑怯な呼びかけに、ミラは不機嫌そうに布団をめくってバンバンと枕を叩いた。まだ夕方にもならないが……彼女が眠りたいというのなら眠ろう。早く出よう、なるべく早く出よう。と、なあなあで引き伸ばしてきた出発の刻限も迫っている。手紙の件とユーリさんのことを思えば明日にでも出なければならないかもしれない。少し名残惜しいが……エルゥさんにからかわれなくなるのは少しだけ助かる。
「…………じゃあ、おやすみ」
「……ん」
ベッドに横たわると、すぐにミラの腕が僕の首元に滑り込んできた。僕ももう寝よう。出発しないにしても、オックスはもう眠っているんだ。明日の朝一からでも訓練は再開されるだろう……
ふと思う時がある。この生活……サイクルがあまりにもおじいちゃん過ぎやしないか……? デジタル表記の時計は午前三時を記していて、とても残念なことにこの時間にも随分馴染んでしまった。向こうでは日が暮れるとランタンに明かりを頼るもんだから、貧乏旅人の僕らはさっさと寝るしか無いのだ。と言っても、最近じゃ疲労や怪我で起きていられないみたいなことの方が多い気もするが……
「…………勘違いするな……」
自分に言い聞かせるようにそう呟いた。僕は誰かに愛されるような人間じゃ無い。こちらに戻ってくれば、否応にもそれを実感する。特に、すえた臭いの枕に。彼女にはきっと、もっと相応しい相手が現れる。それこそあの少年でもいい。背も高い、性格も良い、身体も強いし志も立派で、魔術という共通の話題もある。それに実家がでかい。優良物件とは僕が言ったのだが、劣等感を感じて胸が苦しくなる。ここに彼がいたのなら、こんなことは無かったろうに。あの無垢な少年の姿を一目見れば、そんな小さな悪心など消し飛ばして貰えるのに。
「……ちいせぇなぁ、僕って……」
ナニの話では無い、器の話だ。いや……ナニもこう……いかん、目頭が熱くなってきた。この話はよそう、自尊心が死ぬ。あんなに大事な二人に対しても、こんな感情しか湧いてこないのか。と、呆れる他無い。さっさと大きくなりたい。あの少女の様な、身の丈をゆうに超えた大きな男に変わりたい。
変わりたいと思ったのなら行動すべきなのだが……やることも特に無いのでな。ミラ《ゲームキャラ》に少し際どいコスチュームを着せて、ローアングルでスクショを……くっ! スカートの下に潜り込むと透過する! もう少し引きなら……見えっ…………見え……っ!
『おはようですぞー。階段側でナニやってるんですかな?』
画面の右下にぽんと現れたどろしぃという単語にびっくりして、ちょっと大きな物音を立ててしまった。具体的にはマウスを落とした。そろそろこいつも年季入ってるから……大丈夫か? まだ動……よし、動くな。
『おはでーす。デンデン氏、随分夜更かしですな』
『拙者はまだまだアクティブですぞー。この後執筆して、そのまま……死にますぞ』
言い方が物騒すぎる。要はアレだ。昨日の晩、僕とゲームしてた時のままずっと今までログインしっぱなしで、この後暫くしたら小説を書き、そして…………眠ることなどなく仕事へ……っ。うん、死にますな。何やってんだこの男。寝ろよ、寝てよ、死なないでよ。デンデン氏いなくなったら、僕はいったい誰と遊べばいいんだ。
『デンデン氏寝て。超寝て』
『フハハ、我が漆黒の夜は未だ明けぬ』
いや、もうすぐ空も白んでくるから。一緒にスクショ撮ろう、じゃ無いよ寝てよ。撮るけど。どろしぃたんことデンデン氏の嫁キャラで小説のヒロイン、どろしぃちゃん。ポニーテールだから活発系かと思ってたけど、小説読んだ感じオドオドしてる小動物系なんだね。うちの子は見ての通り活発な妹で……銀とオレンジで凄くコントラストが綺麗ね。ふぅむ……やはり女の子同士って…………最高ですな。中身おっさんだけど。
『デンデン氏本当に寝て。高台でちょっと際どいの撮ったら、今度こそちゃんと寝て』
『おk撮れたら寝ますぞ』
撮れるさ……俺達なら……と、僕らが全力でカメラアングルと格闘しているうちに日は昇った。昇ってしまった。やばい朝! というデンデン氏のチャットにようやく僕もそれに気付いて、解散するまでに撮ったスクショはおよそ三十枚。ふう……どれも最高ですな。
「さて……と……」
まだ僕には時間あるな。ならデンデン氏の小説でも読んでいよう。娯楽の九割をデンデン氏に掌握されている……? だがまあ……やっと出来た友達だし、多少は良いだろう。それに今、良いところだから。自らを庇って負傷した主人公に、ドロシーちゃんが奮い立つとともに自分の感情に気付いてしまう……キュンキュンするんじゃぁ〜。
私はきっと、彼のことが好きなんだろう。ああ……なんてキュンキュンする響き。この……それを自分の中だけで留めて、普段通りに振る舞おうとする不器用さがとても良い。主人公は主人公で、散々ドロシーのこと好き好き言っときながら、いざ好意を向けられると気付かないっていうね。ベッタベタですよ、ベッタベタ。ベタだからこそ良い。最高。ああ……僕もこんなステキな青春を送りたかった……ぐすん。後悔しても仕方ないとは言え、やっぱり憧れるよ……
「アキー。そろそろ起きろよー」
はて、兄さん随分早起きだな。なんて時計を見ると、もう六時半。いかん、そろそろご飯食べて支度しなきゃ。キュンキュンしてる場合じゃ無い。いやでも……もうちょっと……いま良いとこ……くっ! デンデン氏、結構読ませる文を書くじゃないか!
「うん、すぐ行く」
名残惜しいが、伝説の魔竜討伐へ向かうのは帰って来てからにしよう。リビングに向かえば、手抜き朝食の代名詞とも言える納豆ご飯とインスタント味噌汁が待っていた。そりゃ毎日毎日は大変だもの、こういう日もあるさ。なんだか随分上から目線になってしまったな。ごほん……いつも美味しいご飯をありがとうございます。よし。
「じゃあ行ってきます。アキ、遅刻するなよ」
「大丈夫だって……」
さては店長から話行ってるな? 気合い入れないといけないな……なんて思わせる発言を置き土産に、兄さんは家を出た。少しして母さんも。僕は……うん、僕も。
「……思い出すな思い出すな……今はこっち……」
看板娘の姿が思い出される。ああ……こう、もう一人キャラクリするならあんな感じに……いや、男キャラとか作らんし。作るなら美少女かロボットに決まってるだろ、常識的に考えて。変形合体ロボットのパイロットがあの二人、とかなら尚良し。なんの話だ。とにかく余計なことは一度忘れよう。花渕さんにどやされてしまう。
「……窓よし、ガスよし……よし、鍵かけた、と」
散漫な注意力に僕は指差呼称して家を出た。そう……こっちにもいるんだ、僕の精神を削る十五の少女が……っと。いかんいかん、ガス切ったっけ? えーと……あれ? 窓閉めたかな……?
これは昨日の事。今朝の事じゃない。昨日帰った時の事。おっさんにちょっとした相談をしたら、思いのほかスッキリした日の事。
「ただいま」
表に車が無かったから、お母さんはまだ買い物だろうか。一度は脱ぎ散らかした靴を綺麗に整頓する自分が滑稽で仕方が無い。どうにも、こういうのは染み付いて抜けない癖になってしまった様だ。髪色もこんな風に定着してくれればいいのに。
「…………ただいま」
仏前で手を合わせておじいちゃんに挨拶をする。これももう日課。抜けないものは抜けない。少しだけ肩が軽くなった事を報告すると、なおのこと体が軽くなった。なら、初めからおっさんになど頼らずこうすれば良かった。余計な弱みを見せた。
少しして車の音が聞こえた。もう随分聞き慣れた音に、私の体は勝手に動く。私は玄関で母親を出迎える為に、友達との会話を一度中断する。
「おかえりなさい、お母さん」
「ただいま、美菜ちゃん」
花渕美菜はそう育てられた。誰よりも清く、正しく、自らを律し続けろと。きっと、そんな極端な答えを求めたわけでは無いのだろうけど、私は両親にそう育てられた。いや、育てて貰った。
「……美菜ちゃん、やっぱり学校……」
もうこれで何度目だろう。それは学校を辞めてから……と言うんでは無く、今朝顔を合わせてから。一日の間に、一体何度それを尋ねるのだろう。と言う、辟易とした私の愚痴。だけどそれも仕方が無い。私はこの人の望む答えを、分かっていながら返していないのだから。そして今も……いや、今は……
「…………ごめんなさい、もうちょっと悩んでみます。自分で決めたいんです」
アキトさんは言った。後悔した、と。だから……その後悔を少しだけ覗いた私は、もう少しだけ自分で悩んでみようと思った。きっと寝るまでにこれを何度も口にするんだろうけど。