第百四十五話
ユリエラ=イルモッド。かつて僕らを窮地から救ってくれた騎士の名だ。いつかアーヴィンにミラを連行する為にやってきたことがあり、その時にも一度救われている。ミラは初め、警戒する様言っていたのだが、あれは多分徴兵の件だろう。というかこの呼び出しの手紙も……
「…………なぁ、ミラ。もしこれが、さ……」
「大丈夫よ。もし私のことを本気で戦士としてアテにしたんなら、あの時無理にでも連行されてるし。それこそアンタだって若いんだから、一緒に連れて行くのに不都合は無かった筈よ」
まあ蓋を開ければヘナチョコなんだけど。と、意地悪に笑って僕をからかうその姿に、もう彼への警戒心は薄れていると見て良いのだろうか。お前だってまぁまぁヘナチョコじゃないか! と、僕はその頰をつつく。
「……大丈夫よ、うん。いざとなったら……」
「なったら……?」
いやに神妙な面持ちをするから、少しだけ緊張する。いざとなったら……なんだ。まさかとは思うが、ユーリさんを倒して逃げるとか言うなよ? お願いだから、そんな馬鹿なことは流石に言うなよ?
「…………一緒に逃げましょうか。冒険者として転々としていれば、そう簡単に見つかりやしないわ」
「今こうして見つかってんじゃないかよ」
ちょっとでもシリアス展開を予想した僕がバカだった。賢いんだかアホなんだか、本当にはっきりしない奴だ。頭は良いけど抜けている、と言うには抜けが多過ぎる。アホだけどたまに切れる、では流石に片付けられない。ええい、扱いに困る。
「……そうよね。はぁ……こんなか弱い少女を徴兵なんて、ひどい世の中になったものよ」
「か弱い…………? いや、うん……今は雑魚助だもんな」
つついていた指を思い切り噛まれた。この咬合力はとても雑魚ではない、サメとかフカとかキャビアとかの類っ! 噛み癖もなんとかして抑えないと、毎晩の首元が危ういな。
「誰がザコスケよ! 私より強い人間なんてそうそういないわよ!」
「じ、自分で言い始めたくせに……」
なによ! なんだよ! と、もう何度目かも分からない取っ組み合いをして、いつも通り笑って抱き合った。これはもうお約束になりつつあるな。そのうちキスとかに発展…………するとシャレにならないな。テレビがなくて良かった。
「……アーギト」
随分甘えた声でミラは僕の名前を呼んだ。なんだなんだ、撫でて欲しいのか。よーしよし。といつも通り髪をわしゃわしゃと………………
「…………おぁぁあああッ⁉︎」
「っ⁈」
いつも通りじゃないわ! いつもいつも気付くと膝の上に乗りやがって! あざといんだよぅ! とか思いつつ、名残惜しいので悶絶はしても退かすことは出来ない自分が情けない。こんなんだからあの二人にからかわれるんだ……
「アギトー……? だ、大丈夫……?」
「いや……大丈夫。ちょっと変な事を思い出して……」
落ち着けアギト、そしてリトルアギト! 何度も確認するが、こいつは妹だ。その妹というのは、そもそもコレが半ば家族みたいなもんだとか言い出したから始まったもので、つまりどういうことかと言うと……こいつにとって、僕は唯一の身内なんだ。そう、そうだぞエルゥさん。身内だからちょっと甘えやすいってだけだからな! 甘えやすいのとそれから……唯一甘えられると言うのと。ともかく、ミラにとってこの好意は……違う! この行為はだな……
「……まだちょっと腫れてるわね。ごめんね、叩いたりして」
「っ⁉︎ べ、別に殴るのは今に始まったことじゃないだろっ⁈」
それもそうね。なんて寂しそうに笑う少女に、選択肢を間違えたのだと少し悔いる。ここは、別に良いよ、気にしてない。とか、俺が悪かったからな。とか、フォローを入れるべきだったんだ。軽口タイムでは無く、ちょっと真面目な反省タイムだったんだ、ミラは。
「…………ねぇ、アギト? もし……もしもの話よ……? もし……私が居なくなったら——」
「——ミラちゃーんっ! 遊びに来たよーっ‼︎」
バシャァーン! と、部屋のドアが開いて、元気の良い少女の声が響き渡った。病院ではお静かに……ではなく。まだ赤みが残った僕の頰に手を当てて、ミラは顔を近付けていた——そう、まるで押し倒される寸前の様な状態で……そんな状態を……そんな状態のところに……一番話がややこしくなる女がやって来てしまった‼
「……むふっ……むふふ……でへへへ…………」
「ストァーーーップ‼︎ バック! カンバックエルゥさんッ‼︎」
もう何も言葉すら発さず、キモ…………不思議な笑い声をあげながらドアを閉めようとするエルゥさんに待ったをかける。それはもう全力で。
「でへへへ……いや、ごめんなさいね。お邪魔しちゃって……でへ……じゅるり」
「ちょっと‼︎ どこ行くの! 戻って来なさい‼︎ エルゥさん! エルゥさんっ‼︎」
じゅるりって何だ⁉︎ とりあえず誤解を解かなければ……ミラさんちょっと退い……退いてくれる⁈ ちょっと⁈ いくら退かそうとしても、ミラは意地でも離れるものかと僕にしがみついてしまった。
「ちょ、ちょちょちょちょっと⁉︎ ミラさん⁈ あのおバカさん捕まえなくちゃいけないから——」
「……いいじゃない。エルゥが気を遣ってくれたんだから。それが勘違いでも、私はこの機会を逃すわけにもいかないのよ」
頭の中が真っ白になった。な、ななななな——何をっ……何が起きている……っ⁈ そうこう言っているうちに、エルゥさんはもう何処かへ行ってしまった。ミラは何か……何を言おうとして……
「アギト……あのね…………」
「ミラ……っ⁈ ちょ、ちょっと待って……こ、心の準備が……準備がっ⁉︎」
こ、こここれはっ⁈ そういうイベント⁈ そんなドキドキイベントなのっ⁉︎ いつ立った? いつ回収した⁈ フラグなんて全然身に覚えがないんだけどっ⁉︎
「……アギトっ! 私ね……っ!」
ガタン。と、音がした。何かを落とした様なまぬけな音が、ドアの向こうから……うん。じゅるりって、やっぱりそういうことだよね。少しだけ気が合いそうだ。僕も、コレが傍観者視点だったら同じことをしただろう。
「…………いや、あの……ですね……」
「……ミラ。ちょっとだけ、ちょっとだけ待ってくれ。今とっ捕まえてくる」
本を拾おうとしてそのまま頭突きする格好でドアを開けたのは、やっぱりエルゥさんだった。ミラの制止も振り払って——否、制止するミラから逃げる様に、僕はエルゥさんを追いかけて走り出した。今はその耳年増が有難い。とりあえずお茶を濁さなければ……もし今のが本当に…………何かの間違いでフラグ回収のイベントだとしたら……それはいろいろとまずい!
「エルゥさんッ! ちょ、意外と足速っいぃ……おい待てエルゥッ‼︎」
「ごめんなさーーーいっ! 待ちませーーーんっ‼︎」
病院の外まで逃げて行くエルゥさんを、僕は追いかけなかった。追いかける必要が無かったから。とりあえず……一度落ち着こう。そんな訳は無いんだ。僕が……誰かに……っ。
「…………変な期待なんて持つな……僕は……っ」
ミラが僕を好いてくれる理由は無い。誰かが僕を好いてくれる理由は無い。こんな僕を……いったい誰が…………
アギトは走って出て行ってしまった。病院では静かに。と、きっと怒られるのだろう。
「…………言わなくちゃ……いけないよね……」
ああ、アギトに前に言ったことを思い出す。背中を押された勢いを失ってしまった今の私に、果たしてその告白は出来るだろうか。いや、それだけじゃ無い。もう一つ、こっちは急務だ。だが……それを私は、本当に彼に伝えることが出来るのだろうか……?
「……お姉ちゃん…………っ」
胸がきゅうと締め付けられる。彼に伝えなければならない。いや——必要無いのかもしれない——。私は……いや。ミラ=ハークスではない私は、きっと彼に包み隠さず説明してくれるだろう。私から説明する必要は無いのでは——と、そんな邪心が芽生えてしまう。それはいけない、どうしても私の口から伝えなければ……
「…………嫌だ……嫌だよ…………」
私が消える。私は消える。このまま行けばきっと、アーヴィンに帰るどころか王都に着くこともなく私は消える。きっと何事も無かった様に元に戻る。全部が……無くなって……
「……アギト…………」
私は一人、彼の名前を呼ぶ。いつもの様に、甘えた声であの人に縋る。この涙もきっと偽物なのに、嫌な熱だけが頰を伝った。




