第百四十話
甘い——甘い匂いがする。ああ、甘い……嗅ぎ覚えのある…………アップルパイの様な甘い匂いが……
「——アギトっ! ちょっと? 聞いてる?」
「うおぉうっ⁉︎ びっくりした……いきなりなんだよ……」
甘い匂いの元は、すぐ隣でミラが食べているアップルパイの……アップルパイの匂いじゃないか。なんだ、アップルパイの様な匂いって。無駄に予防線張るなよ……
「いきなり、ってアンタねえ……食べないならそれ、食べちゃうけど?」
「ばっ……ダメだ! これは俺の!」
意地悪な顔をしてミラがそんなことを言うもんだから、僕はようやく我に返って、手に持っていた——揚げたピザパンとでも形容すべきか。ともかくチーズとハムか何かの肉と、カロリーのたっぷりでっぷり詰まったパンを急いで頬張った。美味い……このジャンキーさは……ヤバイ。
「で、話聞いてた? 魔弾の材料なんだけど……」
「魔弾? えーと……ああ、うん。分かってる。今度は外さないから」
思い切り睨まれた。だってしょうがないじゃない。ちょっと……諸事情あって集中出来ないんだ。諸事情……エルゥさんめ……
——ミラちゃんにとって、アギトさんは特別なんですよ——。彼女そうは言った。そんなことを、ちょっとそれらしい理由まで付けられてしまったら……意識するに決まってるじゃないか! 当の本人は買い物袋を一つ持って、オックスさんのところに届けてきます。邪魔しない為半分、優良物件に唾つけに行くのが半分で。と、珍しく悪い顔をして部屋の前で別れたのだが。それの所為で、僕はまともにミラの顔も見れないでいるってのに!
「おーい……まったく、しょうがないわね」
いかん……いかんですよ。折角、ミラは妹ポジションであって、ヒロイン属性では無いと言い聞かせてきたってのに。今になってそんなこと言われても。
「ほら、アギト。あーん……」
「……あーん…………? はい?」
甘い——甘い香りが鼻から抜ける。おお……美味。少し酸っぱいリンゴを、シロップ漬けにして角を取り、そしてこの柔らかくも濃厚なカスタードの優しい味が……味が? この味は……アップルパイの……
「のぁああっ⁉︎ おまっ⁉︎ お前ッ⁉︎」
無意識に口元に運ばれてきたフォークに、食いしん坊の本能で食らいついたがそれは……ッ! それはぁッ! 間接キッ……間接の……関節技がどうとかこう……色々ドキドキするイベントのやつッッッ‼︎ やっぱり……やっぱりそういうことなのか……っ⁈ 僕が思っている以上に、ミラは僕のことを…………っ
「ほんっと卑しいわね。そんなに欲しいなら、ちゃんと言えば分けてあげるわよ。まったく、手の掛かる弟ね」
「…………は?」
おい。僕のドキドキを返せ。今すぐに。今すぐに返せこの————
「——似非ヒロインがーーっ‼︎ だーれが弟だ! 卑しんぼで妹なのはお前だろうが! 別にアップルパイが食いたくて食いたくて気が気じゃなかった訳じゃないわ‼︎」
「な——っ⁉︎ 吐き出しなさい! 返しなさいよ、私の優しさとアップルパイ! 人が折角気を利かせてやったってのに‼︎」
なにを! なによ! と、僕らはいつかボルツでやった時と同じ様に胸ぐらを掴みあった。そして……すぐに笑って手を離した。
「ふふ……もう、なに笑ってんのよ。バカみたい」
「お前だって……ぶふっ」
きっとそれは、無意識の行動だった。ミラも、僕も——当たり前に体を傾けて、そのまま寄っかかってくるミラも、それを受け入れて頭を撫でてやる僕も。それが普通だって……思ってたから。でも、もう僕はそれが普通じゃないって知ってしまった。知ってしまったから……その違いに気付いてしまう。
「……? アギト?」
「あっ……いや、ちょっとオックスの様子見てくる。エルゥさんの玉砕も見届けなくちゃだし」
僕は逃げる様に部屋を後にした。彼女の言う通りだ、まるで違う。でも、それはどうだろう。エルゥさんとは、まだ知り合って日が浅いから……僕の方が長く一緒にいるから。僕はアイツの家族みたいなものだから…………でも。
僕はミラの家族じゃない。気付けば、外はもう日も暮れ始めていた。はて、どれだけ頭を冷やしただろうか。冷えているかは別として。逃げ出して……逃げた先に何があるでも無く、ただぼうっとして街を歩き続けて。なにやら人混みと喧騒を見つけて、僕はうわの空だった意識をはっきりとさせた。
「ああ……そういえば、行商が来るって言ってたっけ」
それは大きな——それこそ、ガラガダの帰りに乗った、王都の騎士団が使う馬車の様な。大きな大きな荷車が四台。そこにいるのは、商人と、護衛であろう騎士と、それからこの街の人々。そういえば、オックスがからかって何か言っていたっけ。レヴという言葉の本当の意味、贈り物をしたら良いんじゃないかとかなんとか。
「…………ああ、もう……期待なんかするなって」
ミラはあんなに優しい顔をしていたのか。あんなに甘えた声を出していたのか。あんなに……違うのか。僕といる時のミラの姿は、エルゥさんが抱き付いていた時の姿とあんなにも……っ。それは違う。きっと別の理由だ。期待なんてするな。僕に……僕にそんな好意を向ける理由なんて無いだろう。
「……お礼くらいは……しないと……悪いよな」
だから、これはやましいことなんかじゃ無い。下心なんて無いんだ。僕が……僕なんかが。今の今までなにも為してこなかった、逃げていただけの男が、誰かに好かれているなんて付け上がった勘違いをするな。これは……タチの悪い甘い毒だ。
「アギト!」
ふらふらと商店に立ち寄ろうとする脚を、背後から呼び止められた。ゆっくり振り返れば、そこには息を切らしたミラがいた。
「ミラ……? お前……脚……っ⁈」
「脚……? ああ、うん。先生も言ってたわ。驚異的な回復力だって。まあ鍛え方が違うのよ、鍛え方が!」
胸を張ってそう答える少女の額には、汗が滲んでいた。もしかして、僕を探して街中を……走り回ったのだろうか? いくら回復が早いと言っても、まだギプスも取れていない脚で。痛む脚で僕を……
——期待をするな——
それはきっと、負い目から来ているものなんだ。きっとミラは……巻き込んだからとか、自分が誘ったことだからとか、そんなしょうもない理由で負い目を感じているんだ。だから僕の身を案じて……
「ほら、さっさと帰るわよ」
「っ!」
そう言って、彼女は僕の手を取って歩き始めた。あの時から変わらない、小さくて温かい手。あの時の様に早くなった歩みに、僕は少しだけ落ち着いた。初めて会った時から変わらない。コイツはアーヴィンの皆を、その内の一人として僕を守ろうと——
「…………この辺なら人目も無いわね」
「……ミラ?」
——歯ぁ食いしばりなさい——。喧騒から離れた薄暗い街中で、そう聞こえたのはミラが手を離してこちらを振り返った時のことだった。
言葉の意味はすぐに分かった。乾いた音と共に、僕の頰に熱が走る。あの時とは違う。ひどく冷たい熱だった。
「……何回…………何回言ったら分かるのよ……アンタは……っ!」
やはり脚は痛むらしい。一歩僕の方へと踏み出した彼女の体がフラついた。慌てて支えた僕の手をまた強く握って、彼女は涙を浮かべながら憤りを言葉に込めて僕に言い放つ。
「一人でふらふら勝手に出歩くなって……本当は昼間の買い物だって行かせたくない。でも……そんなわけにもいかないから……我慢してんのに……っ」
「…………ごめん」
力無く反対側の頰も打たれた。さっきまでの自分勝手な言い訳を恥じる。コイツは、ミラはどうあれ僕のことを大事にしてくれている。それが僕個人に対するものなのか、市民の一人に対するものなのかなんてどうだって良いのに。僕は……自分の自信の無さを理由に、彼女の優しさまで疑ってしまっていた。
「…………バカアギト」
それだけ言って、ミラはまた僕の手を握り直してずんずんと歩き始めた。病院に着くまで……病院についても、彼女が口を聞くことは無かった。
「お、おかえりなさーい。でへへ。あ、お邪魔虫はすぐに退散——」
僕は病室に着くや否や、ベッドの上に放り投げられた。そして有無を言わさず横にされて、いつも通り後ろから拘束される。
「もう今日は寝るから。おやすみ」
「えっ……あれれ……? ミラちゃん……?」
ぎゅうと気持ちいつもより強く抱き着いて、ミラはシーツを頭まで被って眠りについた。訝しげな顔をしたエルゥさんと目があったが……明日説明しよう。そそくさと部屋を出て行く彼女の背中にそう思う。説明……いや、弁明か。




