第百三十八話
腰を落として、膝を柔らかく。前後左右、いつでもどの方向にでもまず一歩踏み込める余裕を持った立ち方を意識する。なるほど、オックスの言うことが少しは分かってきた気がする。
「ほら、アギトさんもっと……ああ、もう。下手くそっスねぇ。大股で動こうとしすぎっスよ」
「……うす」
気がするだけだった。ミラに追い出される様に病室を出た僕らは、また空き地を使って歩法の練習をしていた。そろそろ他のことを練習したいと思わないでも無いが……中々オックス先生が合格点をくれない。そんなにダメか? まあ運動神経が良いなんて思ったことは無いし、要領が悪いのもここ最近ずっと実感してるんだけど。
「なん……って言うんスかね……? うーん……根本が先生のスタイルと合わないと言うか……」
「根本が……そんなバッサリと切り捨てられると、いっそ清々しい……」
ああ、そんな卑屈にならないで! と、オックスは慌ててフォローを入れてくれたが、正直それも納得である。そもそも、自分の身を守る必要なんてない生活をしているのだから。魔獣などというものと無縁で、戦うなんてありえない平和の中で生きていたのだから。根本的なところは、どうしたって……
「……なんて言うんスかね、本当に。仮想敵が違うと言うか。目指しているものが違うって言うか……」
「目指しているもの……? そりゃそんなの……」
途中まで言いかけて、僕らは目を見合わせた。そうか、そんな簡単なことで変わるのか。僕が目指すべきものと目指しているものの乖離が、そんなに大きく影響していたなんて。
「……そう……だよ。そうだ、俺はミラの背中ばっかり見てきたんだから。アイツの戦うところばかり見てきたんだから、自然と思い描く戦い方なんてアイツのマネになるに決まってるんだ」
ミラの戦法は、いつだって先手必勝。常人には出せないスピードで接敵して、常人にはありえない威力の蹴りを叩き込む脳筋戦法。速さ×質量=力という式の、“速さ”に全出力を寄せただけの単純明快な蹂躙戦法。僕はそれに心の底から憧れたし、無意識にそれを目指しているのかもしれない。だが、今の僕にそんなものがマネ出来るわけも無いのだ。となれば。
「俺が目指すべきは……蛇の洞窟で見た、生存優先のゲンさんの立ち回り。誰かを守る為に、自分の身を守る戦い方……」
はぁ。と、大きく息を吐いて、頭の中で力を抜くイメージを作る。これは、ミラがトップスピードを出す直前に一度行う脱力では無い。自分の体を柔らかく使う為の…………っ! 拳を握らず、スルスルと円を描く様に、脚を、腕を、体を滑らせる。ここに再現するのは、ミラの殺人蹴りを容易く止めてみせたゲンさんの姿だ。あの男の様に飄々と、柳の様に全てをいなし、それでいて打ち付ける滝の様に激しいイメージを。
「……アギトさん」
「——オックス! 今のどうだった⁉︎」
手応えはあった。さっきまでよりも随分無駄な力は抜けていた。それでいて下半身にはしっかり体重が乗っていて、踏み出すのでは無く送り出す感覚で体を動かせていたと思う。これなら……
「…………おじいちゃんの健康体操みたいだったっス」
「はあぁあッ⁉」
全然そんなことは無かった。返せよ! さっきの僕の達成感返せよ! だれが公園で太極拳してるおじいちゃんだ! まだラジオ体操の方が見るわ! 老後と言わず、これからの日課にしてやろうか! 健康にそろそろ気を使った方が良いか⁉︎
「あはは。でも、さっきまでよりはいくらかマシっスよ。余計な力は確かに抜けてますから」
「いくらか……さっきまでそんなに下手くそだったのか……」
進歩はしていると言われたのか、それとも相当センスがないと言われているのか。どちらにせよ、ゴールはまだまだ先だな。自分の体の動かし方を理解しないことには、ミラに強化魔術をかけて貰う事もままならない。なんとかせねば……
「……じゃあ、ちょっと組手でもしときますか。いざ面と向かったら腰が引けちゃうなんて事じゃ意味無いっスから」
「組手…………? え? オックスお前まだ怪我が……」
ヒュンと風を切る音とともに、オックスの左脚が空を切った。一発だけで止まらず何度も繰り出された上段蹴りは、オックスの体調が回復している事の証で……
「あ゛っ⁉︎」
「おい」
……は、無さそうだ、ダメっぽい。調子に乗って大きく体を動かし続けたオックスは、濁った悲鳴をあげながら脇腹を抑えて蹲った。もう、言わんこっちゃない。傷口が開いてたらコトだ、早く病院へ戻ろう。痛みに悶えるオックスに肩を貸して、僕らは訓練を打ち切って帰ることにした。
「め、面目ないっス」
「いいよいいよ。お前も焦ってたんだな。ちょっと安心したよ」
安心? と、首をかしげるオックスに、失言だったと反省する。僕一人が焦って、不安で居ても立っても居られないでいるわけでは無い、と。オックスも自分の無力さにジッとしていられなかったのだと思うと、少しだけ気が安らいだ、と。そんなのを本人に言ってどうする。僕は慌てて言葉を濁した。
「そ、そうだ! 今朝のこと、なんだよあれは。エルゥさん美人だし、性格も良さそうだし。それをあんなに拒絶するなんて……代われよ! そこ代われよ!」
「何を言い出すかと思えば……別に拒絶したわけじゃ無いっスけど……」
いーや、拒絶してたね。あんなに可愛いのに。ああ、良いよねエルゥさん。底抜けに元気だし、周りを盛り立てようって気が感じられて。小柄だけどすらっとしててスタイル良いし……あ、でももうちょっと二の腕はムッチリしてるくらいが好みかな。何より愛嬌があるし、良い匂いもするし。ああ……うん、良いよねエルゥさん。
「ず、随分語るっスね……ミラさんに報告しなくちゃ……」
「うえっ⁈ 声に出てた……? そして何故そこでミラの名前が出るんだいオックス?」
そりゃあ……と言いかけて、目を伏せて鼻で笑うオックスに無性に腹がたつ。何だお前は。いいか? アイツはあくまで妹であってだな……
「ていうか……ぷふっ。褒めてること、全部ミラさんにも当てはまるじゃないっスか。どんだけ好きなんスか」
「な——っ⁉︎ 違うやい! そりゃあアイツは底抜けに元気だけど、盛り上げ役もしてるけど……小柄……はいざんねーん! アイツは全然スタイル良くないでーす! ぶっぶーっ! お子ちゃま体型だから一致しませーん!」
愛嬌はあるけど。一番大事なとこが不一致でーす! と言うと、オックスは軽く……ドン引きで、本人に言ってやろ。と、呟いた。本当にそれだけは勘弁してください。土下座も辞さない勢いで僕はオックスに頭を下げる。一体、僕はオックスにどんな青い顔をして謝ったのだろうか。オックスは笑うでも引くでも無く、哀れみのこもった目で僕を見ていた。そんな悲しい男を見るような目で見ないで!
「……しかし、こういうのも良いよな」
「え……? そんな趣味が……?」
違うやーい! 誰が謝りフェチだ、そんなもん聞いたこと無いわ。無くも無いかもしれないわ! そうじゃなくて。
「いやね……同年代の男友達が他にいないもんだからさ」
「はは……そう言えばそうっスね。アーヴィンじゃ、十三超えたら基本的に徴兵されちゃいますもんね」
徴兵……か。そういえば、オックスと初めて出会ったのも、それが原因で蛇の魔女の巣穴に閉じ込められていた時だっけ。この世界は、ひどく余裕が無い様に感じる。クリフィアもそれで滅ぶと現魔術翁は言っていたし、エルゥさんもそれが原因で出会いが無いと……いや、これはそんなに大事なことでも無いか。
「……三人は元気かな?」
「元気っスよ、どうせ。アイツらも、なんだかんだゲンさんの教えを受けてるんスから。泣き言言えば張っ倒されるから、上辺だけでも元気を取り繕ってる筈っス」
果たしてそれは元気と言えるのだろうか。そして意外と……意外でもなんでもないけど、ゲンさんスパルタなんだな。いつか後ろから刺されそうだ。女癖も悪そうだし。
そんなこんなで、僕らはくだらない話に花を咲かせながら病室へと戻ってきた。いえ、オックスの病室なんで、ミラもエルゥさんもいないんだけど。しばらく大人しくしてなきゃならないオックスを看護師さんに任せて、僕は一人ミラの部屋に向かった。女の子二人だけがいる部屋……いかん、変な妄想が止まりませんぞ! むふ……むふふ……




