第百三十四話
僕は、とりあえず土下座するくらいの覚悟をして、花渕さんの待つ控室に入った。さあ、なんの用事だろうか。もう胃が痛いぞ。
「終わった? おつかれー」
「お、お疲れ様です」
いや、働いてないし。と笑う姿は、とても無邪気で子供らしい——こう言うのもなんだが、とても自然な姿に見える。そりゃ十五歳だもの、友達と遊んでる時みたいに笑ってるのが一番自然なのは当たり前か。どうにもまだ友達付き合いというのに実感が持てない所為で……
「座りなよ、おっさ……アキトさん。別に、今日は怒ってるわけじゃないし」
「は、はい」
なんだろう、今まで受けて来たいくつかのバイトの面接なんかよりずっと緊張する。一体どうなってしまうのだろうか。花渕さんは不機嫌そうでも無いし……大丈夫だよね、僕の命……?
「……あのさ、アキトさんも学校行ってなかったんだよね……?」
「うぐっ…………うん」
開口一番トラウマを抉られる。そうだ。と、頷く僕の頭が重たくなっていくのが分かった。これはアレだ。悪い癖が、考え込むばかりで動けなくなる、昔からの悪癖が出る兆候だ。
「…………後悔……って、やっぱりしてる?」
「それは……うん。すごく……」
その問いは、彼女が後悔しているから出た問いなのだろうか。それとも、後悔しない為の——したくないが故の問いだろうか。或いは……と、僕はやはり、聞く勇気も無い質問を頭の中で無意味に浮かべていた。いけない。これは——この質問には、キチンと答えないといけない。思い出したのは、先日花渕さんが口にした相談という単語だった。彼女にしてみれば、この選択肢は——高校を辞めてしまった今、目の前に現れている選択肢はあまりに重すぎる。
「そうだよね……そう……。じゃあさ」
私は、もう一度学校に行くべきだと思う? 彼女は真剣な目で僕に聞いた。ああ……そうか。それもそうだ。散々アイツの様子を窺っていた所為……お陰だな、これは。彼女が欲しがっているものが分かる。それはズルイだろうか。それとも、僕に与えられた唯一の、他人に指し示してあげられる道しるべと言うべきだろうか。
「……行くべきだと思う。行かないと、きっと後々多くの後悔をするし、行けばきっと、花渕さんは十代を灰色の時間で塗り潰す様なことをしなくて済む。って……そう、言えたら良いんだけどね」
「……アキトさん?」
それは、きっと色んな人が同じことを言うのだろう。いいや、“言った”のだろう。僕が彼女に差し伸べられるものはたった一つ。こちらに来るな。でも、こっちへ来い。でも無い、たった一つきり。
「……僕は後悔した。散々後悔して、後悔して。今だって後悔してる。後悔以外の時間を、なんにも覚えていない。本当に……あの時からの今までの時間、一体何をしていたのかも思い出せないくらい」
僕は地図を差し出した。僕が歩んだ地図だ。なんてことは無い、少し周りと合わなかったから諦めた道を——綺麗で明るいその道を外れてしまった、僕の足跡付きの地図を。そして今歩いている、綺麗じゃない、明るくもない、それでも……大切で大好きなこの場所へ繋がっている。そんな……
「でも、僕は胸を張って自慢出来ることもある。ついこの前のことだけどね。僕は、世界を変えて貰ったんだ。生きているのかどうかも分からない様な底から、引っ張り上げてくれた。そんな人に出会えたことが——アイツに出会ったことが、僕の人生で最大の幸福で、最大の自慢だよ」
…………ん? あれ、なんか情けないこと言ったかもしれない。言ったね。言いました。でも、それが真実だ。僕にとってアイツは……あの少女は救世主なんだから。それも、二つ分の世界を救ってくれたんだから、それはもう飛びっきりの大英雄に決まっている。泣き虫だけど。
「…………おっさんの話はイマイチ分かりにくいよね」
「ひぐぅ……」
伝われこの思い! 無理だ! だって、その英雄はこの世界にいないんだもの! 小さく聞こえた笑い声に顔を上げると、面白おかしくて笑っているんでは無い、安心に頰を綻ばせた少女の顔があった。安心というのは、あっちの少女を散々見てきた僕の経験則なので、実は呆れて笑うしかないのかもしれないが……多分、間違っていない筈。多分。
「……もうちょっと苦しむよ。そりゃそうだよね……相談して解決するとは思って無かったし」
「……捨てたもんじゃないけど……やっぱり、出来れば真っ直ぐ進む道をオススメするよ。あ、なんか悪の道に進んだ人っぽくない? 今の」
三十路ヒキニートは普通に社会の悪だし。と切り捨てるそれを、人は若さと呼ぶのだろう。僕の心は真っ二つにされてスッと死んだ。それは……言ったらいかんですよ…………
「……ありがとね、アキトさん。誰に聞いても、大体同じ事しか言われないからさ」
「ははは……まあ、側から見て、こんなのになる道に進もうとしてたら止めるよ。それはもうみんなして」
ごめんってば。と、小馬鹿にした様に笑う姿は、少しあの恩人を思わせた。うん……同い年だもんな。随分大きさに差があるけど。どことは言ってないですよ。どこもとは思ってるけど。
「……うん、良かった。悩んでる意味はちゃんとあったんだなって……私が……私が悩む意味はちゃんと……」
「花渕さ——っ! 痛い! 痛いよ!」
震える声に心配して一歩近付くと、鋭いボディブロウが襲った。それから回し蹴りも。反応までそっくりじゃないか! 威力はまあ可愛いもんだけどさ!
「寄んな気持ち悪い! 別に慰めて貰うのはおっさんに期待して無いし、求めても無い!」
「きもっ……⁉︎ もう、ほんとにおじさん泣くよ⁉︎ 泣くからね⁉︎」
元気そうで何より。僕はもう瀕死だよ。この辺はアイツの様にはいかないな……まあ、アレの距離感で来られても困るんだけど。
「……それじゃ、また困ったら頼って。私もまた相談するから」
「うん。頼りにさせて貰うよ」
ニッと笑って、花渕さんは颯爽と立ち去った。願わくば、彼女のこの先の人生にあの表情が多くあります様に。それはそれとして……うむ。どうしても僕は十五、六の少女に頼らざるを得ないのだな。しょうがないじゃない! あの子の方が仕事出来るんだもの!
「……精進せねば……」
僕もさっさと帰ろう、店長に挨拶して。流石十年分と言えるか、デンデン氏の小説もまだ最新話に全然追いつかない。今日ならゲーム出来るかもしれないし。とにかくやりたいことはいっぱいある。やらなきゃいけないことから目を背けている気がするとか……そんなことを考えてはいけない。ドントシンク、フィール。
「えっと……デンデン氏、今晩はいかがですかな? っと」
相変わらずの爆速返信は快諾の言葉だった。さあ、今日は何をやろうか。そろそろ体験版で出来る事って無くなってきたんだよな。お互い嫁キャラ妹キャラ同士、百合百合なイチャイチャスクショでも撮るか……
背中が……あったかくない。あったかくない⁉︎ ちょっと⁉︎
「ぐぅ……すぴぃ……」
「……おまえ…………」
ほっと胸を撫で下ろす。ゲームもそこそこに眠りについた僕の目覚めをジェットコースターにしたのは、いつのまにか前に回り込んでいた英雄の寝相の悪さだった。いや、もしかしたら僕が寝返りを打ったのかもしれない……寝返り打ったんだろうな、うん。
「…………ああ、もう。こんなに間抜けな寝顔してるくせに……」
昨日悩める少女にした話を思い出すと、目の前のチビ助がとても愛おしい。抱き締めて……そういえば、もうなんの戸惑いもなく頭撫でたりしてるな。うん、抱き締めるのにも恥ずかしさとかは無い。どちらかというと……これはアレだな。うん、アレだ。
「……あぎとぉ……むにゃ…………」
「はいはい、ここにいるからねー……って。もうすっかり保護者だな」
はて、先日過保護過保護と彼女の心配性を嘆いた事もあったような。だが、こうしているとすっかり立場も入れ替わってしまった様で……いやこれ……大丈夫か? いつも思うけど……こういうのの所為でオックスにも変な勘違いされてるんじゃ……?
「どうしたもんか……」
最大の問題は、これを悪く無いと思ってしまっている点だ。そりゃ悪い気はしませんとも、当然。ではなくて。このままではうちの子はいつまでも甘えん坊のまま、お兄ちゃん離れ出来ずに大人になれないまま……
「…………ごふぅっ……」
勝手に思い描いてしまった、は? アイツの服と一緒に洗濯しないでって言ったじゃん! みたいな反抗期の姿に、一人で心を痛める。昔はお兄ちゃんお兄ちゃんって付いて回ってたじゃないの。そんなの知らないし! あんなの兄じゃないし、とにかく一緒に洗わないで。お風呂もアイツ入ったらお湯変えてよね! みたいなやりとりが浮かんで……ひぐぅ。
「そ……そんな事ないよな? お前は永遠のお兄ちゃんっ子だよな……?」
「ぐぅ……」
返ってくる筈の無い問いを投げかけて、僕はまた妹の頭を撫でる。うん……そろそろ覚悟決めとくか……妹離れは意外と近いのかもしれない……




