第百三十三話
今朝の板山ベーカリーは、少しだけ賑わっていた。そして、やはりと言うか……それは長続きしないもので、すぐに店長と二人っきりの……そこそこ久しぶりの、二人っきりの店番となった。そう、花渕さんは今日お休みなのだ。度を越した連勤は労基がどうのって、そういえば初めに言っていたっけな。
「しかし……すぐに引いちゃったね、お客さん。どうしような……お店、いつまでもつかな……」
「え……縁起でもない……」
そう、そろそろソレを危惧しなければマズいのだ。夜遅くまでデンデン氏の小説を読みふけってしまったおバカさんの寝惚けた頭で、そんな事を考える。だってこのお店、開店したばかりだってのにお客さんが全然来ない。そりゃあ大通りってわけでもないが、一応は住宅街なわけだし。住宅街だから逆に見つけ辛いのか? もっと看板を大きく出してみるとか? 僕も店長もウンウン唸りながら頭をひねる。というか、割と考えなしに店出したんだな、店長。
「やっぱり味をなんとかしなくちゃダメだよねえ、なにより」
「え…………? あ、あー……そ、そうですかね?」
だってそんなに美味しくないでしょ、うちのパン。と、悲しそうな顔で店長は言った。自覚はあったのか……と、失礼な言葉が頭に浮かぶ。でも、それならそれでどうして今になって改善しようなんて言い出したんだろうか。というか、美味しくないって分かってるならパン屋をやるなよ。もうちょっと美味しいの作れる様になるまで待てよ。とは思っていても口に出せるわけが無い。兄さんにどんな顔すればいいんだ、そんなのが原因でクビになったら。
「……実は僕、小さい頃乳製品ダメでね。アレルギーで全然食べらんなかったんだ、パンもケーキも。友達が言う誕生日ケーキも、シュークリームもうちでは食べられなくて、ずっと憧れてた。だから……そんな子でも食べられるようなパンを、って。バターやクリームを使わないパンを、同じ様な子達に届けたい、って……始めたんだけど……」
「そう……だったんですね……………………?」
そんな過去が……と、少しだけ寂しい様な、店長の優しさを実感した様な……。しんみりした脳に、何やら引っかかるものがある。なんだろう、少し何か……違和感というか、見落としというか……? 忘れていることがあるというか…………っ⁉︎
「店長……? それ…………ポップとか看板に書いてありましたっけ……?」
「…………ああー。そういえばそうだったね」
届くかそんなんで‼︎ そりゃそうだよ! だって、食べらんないもの買わないもの! 食べてみて、あそこのパンはなぜか大丈夫―、なんて危ない事子供にさせるわけ無いもの‼︎ どういう事だそれは! 行き当たりばったりが過ぎる! もう少しこう……あるじゃん! 下手か! 説明が! 二人して‼︎
「急いで看板に書き足しましょう! っていうかポップも作り直して……」
「まあまあ落ち着いて。そうだね、これはうっかりしてた。反省だけど……うん。どうしようか」
どうしようか? どうしようかとはどういうことぞ? どうもこうも、今すぐにその事を推して……
「バター使って、ちゃんと美味しいパンを売ったら……その方がお客さんは喜ぶんじゃ無いかなって。結局、アレルギーの無い子にとっては、味気無いパサついたパンになっちゃうんだし。どっちの方がより喜んで貰えるか、って考えると……」
「何バカ言ってんですか! アレルギーで困ってる子の為に始めたんでしょうが!」
おっとぉ…………これはいけない。いけないぞぉ……アギトくん。ついついあのおバカ娘に説教している時の調子で……
「ち、違うんですよ」
店長は目を丸くして黙ってしまっている。違うんですよ……って、もしかしてこっちで言うのはレアなのかも。口癖になりつつあったソレを……ええい、何余計なこと考えているんだ! さっさと謝れ! バカ呼ばわりはいくらなんでもまずいって!
「……ははは。そうだね、そうだった。そこを曲げたら意味が無いよね、僕がこの店を始めた意味が。いやあ……そうだ。うん、バカだった」
「て、店長……?」
おこって……ない? 怒ってないのは問題じゃない! ソレは別として、言葉遣いをどうこうって花渕さんに自分で言ったばかりだったくせに! 怒ってなさそう、ほっ。じゃないんだ! 大丈夫そうだよね、じゃなくて! ちゃんと謝りなさい!
「そうだね。お客さんのことばかり考えていても仕方無いよね。僕は僕の為に、僕が欲しかったものの為にお店を始めたんだからね」
「……店長……」
ふと、いつか聞いた兄さんの言葉が思い浮かんだ。何かを頑張る為に他の何かを犠牲にしてはならない。僕はソレの意味を履き違えていたのだと、今になって理解した。ああ、兄さんが……父さんが言いたかったのはこれか。なんて単純でエゴな理屈だろう。笑ってしまいそうだ。
何かを頑張る為に自分の描いた理想を諦めてはならない。兄さん、もしかしてあっちの事知ってたりするんじゃないのか? あの時のミラにかけてやりたい言葉じゃないか、これは。あいつに、僕に。一々他人の為とか言い出す欲張りに、うんざりするまで言い聞かせてやりたくなる言葉だ。
「じゃ、看板の方お願いしてもいい? 僕も大急ぎでポップ作っちゃうから」
「……はい!」
大急ぎってわけじゃないが、僕は店先の小さな看板……というか黒板に、なるべく目立つ様に文句を書き足した。黄色とピンクで派手に囲った、バター不使用! アレルギー持ちのお子様でも召し上がれます! という文字の……うん、字が汚い。書き直せ! 書き直……へっただなぁ、字‼︎
「おーっす。何してんの、おっさん」
「おっさ……だから僕は…………って、あれ?」
一人黒板の前で悪戦苦闘している僕に、失礼な少女の声が届いた。振り返れば、普段通りパーカーに袖を通した花渕さんが立っているではないか。も……もしかして僕に会いたくて……っ! なんて展開じゃないことはもう流石にわかってるぞ。
「バター不使用……ああ、やっぱそうだったんだ。今までこれ書いてなかったんだ……やる気あんのかな、店長」
「やる気は満ち満ちてると思うよ……ちょっと抜けてるっぽいけど……」
ずいと割り込む様に僕の汚い字を見て、少女はそんなことを言った。コトのついでに、おっさん字ぃ汚いね、なんて暴言も。泣いてもいいですか……?
「ぐすん……って、花渕さんどうしたの? 忘れ物?」
「ん、ああ。おっさんに会いに来た」
へー。そっか。そうだよね。わかってるとは言ったけどね、やっぱり期待はしちゃうもので。うん、そうだよね。おじさんに会いに来たわけ……おっさんに会いに来た⁈
「会いに……えっ⁉︎ ぼっ……ぼぼぼっ⁈ すいません! お給料出るまでお金は全然持ってなくてっ!」
「や、カツアゲじゃないし」
ど、どどどどどうするっ⁉︎ そんな……そんなのもう愛の告白じゃん(違う)! だって……いや待て? はて、何か忘れている様な……忘れていない様な……?
「とりあえずチョーク貸して。こーゆーのは得意だし」
「あ、えっ? あー……あ、可愛い字してるんだねぇ。意が……げふんげふん。やっぱり女の子だよね、こういうのは」
綺麗にデコられた看板は、確かにさっきまでのそれとは全く打って変わって……うん、最初から彼女に任せておいた方が良かったのかもしれない。店長の、丁寧だけど簡素な看板から、パン屋さんらしい明るい配色の楽しいキャンバスへと早変わりだ。ところで、端っこのは何? うさぎさん? くまさん?
「……絵心はないんだね」
「はぁっ⁉︎ どう見ても可愛い猫ちゃんじゃんっ‼︎」
怒られた。どうして僕が……いや、確かに僕が悪……悪くないやい! どっからどう見てもエイリアンなこの謎生物が悪い!
「もう、うっさいな! さっさと仕事する! もうじきどうせ上がりでしょ? 待ってるから!」
「えっ……本当に僕に用事が……⁈」
最初っからそう言ってるじゃん! と蹴飛ばされて、僕は店内に戻った。花渕さんは宣言通り店長に挨拶して、控室に引きこもってしまった。
「……怒らせる様な事したの?」
「…………だって、どう見てもエイリアンじゃん」
これは女の子の特権だな。おっさんが口にするとなかなかキモい。店長に渡されたポップを店内に貼り、彼女の読み通り僕はそこで上がりとなった。或いは彼女が、おっさんもういらないでしょ? とか言ったのかもしれないが。