第百三十一話
筋肉痛で目が覚めた。昨日散々飛び回ったのだから仕方ないのだが、はて? もっとキツイ運動量の日もあった筈だが? と、疑問を抱かずにはいられない。特に、ガラガダから帰った後なんかはもっともっとキツイ状態でもおかしくは無かったと……
「……いや、そんな事気にしてる余裕が無かっただけかも……」
あの時同様背中が熱い。ミラの体温がどうのこうのでは無く、抱き付く力が強い。それだけ体力も戻って来たのだろうと考えるべきか。はたまた、昨日の事がよほど心配だったと考えるべきか。うん、後者だろう。いつかボガード氏が言っていた、ミラは身体能力を魔術で強化している説と言うのを仮定とするなら、彼女が今そんな事をしている余裕が無いのは明らかだ。魔力の残量では無い、温存という目的の為に。
「…………んぐぅ……ふわぁ……むにゃ……」
「はいはい、起きないのは分かってるから」
こら、爪を立てるんじゃ無い。器用に抱き付いたまま伸びをする猫みたいな生き物に、つい独り言が漏れる。本当にカテゴリをペットにしてしまおうか。男二人とペット一匹での旅。ダメだ、華が無い。華やかさが足りてないし、倫理観が損なわれすぎだ。自分の中でミラの扱いが雑になっていっているのが分かって、少しだけ申し訳無くなった。
一向に目を覚まさないミラ……に、抱きつかれて起きられない僕……の、代わりにオックスが朝食を買って来てくれた。本当に申し訳無い。本当に、本当に! 申し訳無いのだけど……その顔やめろお前! オックスは一体いつになったら理解してくれるだろうか。これは男女のなんかそういう甘い関係では無い。お布団と寝太郎のしょうもない関係なのだ。
「で、それはそうとして。アギトさん、今日はどうなるっスかね。昨日のミラさんの心配しようったらそりゃあもう。これがどちらに転ぶか……」
「なるほど。心配して今日はゆっくり休んで、となるか。はたまた火がついて訓練が激しくなるか。というわけだな? 後者だ、間違いない」
断言する僕にオックスは苦笑いを浮かべて、やっぱりそうなるっスかね。と言った。うん、間違いなくそうなるだろう。これは……こいつは、基本的に脳筋なところがあるから……
「ふわ……んん。ごはん……」
「食い意地張ってんなぁ、今朝も。ほら、ご飯食べたかったら起きなさい。あと顔拭いて。あーもう……袖で拭わないの」
ブルブルと小刻みに震えながら背中を伸ばす姿に、やはりペットにカテゴライズすべきかと思ってしまう。いかんいかん、そんな趣味は……女の子に首輪とか着ける趣味は、小生持ち合わせておりませぬ故。嘘ついた。そういうのもアリ。おじさん広いから、守備範囲。イ◯ローの如し。ではなく。
「お母さんみたいっスね……なんかもう……」
「だれが……娘よ…………」
寝ぼけていてもそこには突っ込むんだ。と言うツッコミは無しにしておこう。ソレすら忘れる程にテンパっていた昨日の姿を思い出すと、少しだけむず痒い。なにもそんなに心配しなくても、と言いたくもなる。やはり運動会のお母さんじゃないか。もー、そんなにされたら恥ずかしいじゃん。みんなに笑われちゃうよー。ってな感じだろうか。こんな小さいお母さんじゃ法に触れるわ!
食事を済ませ、ミラもすっかりぱっちり目を開けた所で僕らはまた空き地へとやって来た。やはり特訓だろう。特訓でしょう。特訓ですね。特訓かぁ……
「アギト。昨日見てて思ったんだけど、アンタなんか……こう…………なんて言うのかしら。そうね…………ぎこちないって言うか………………鈍いと言うか……」
「やめろぉい! 分かってるよ! 運動音痴は自覚してるから! やめて! 分かってはいるから! 人の口から告げられるのだけは! 目を背けてきた事だけに心が死んじゃう‼︎」
うん、分かってた。いくら体が引き締ろうが、若くて健康な体を頂こうが、僕にはそもそも運動の経験が殆ど無い。ミラに連れ回されて走る分にはゲロ吐くくらいで済むけど、自分の体を——それも、全く馴染みの無い細い手足を操るのはまだ慣れない。これに気付いたのはごく最近の事、海に飛び込んだ時の事だ。むしろそれまでよく気付かなかったな、とか言うな。そんなんでも普段のたるみきったボディよりずっと高性能で動きやすいんじゃい。
「まずは基礎からやるべきかもしれないわね。幸い、体術なら私も教えられるし、ゲン老人の教えを受けたオックスもいる。歩法から体捌きから、はじめっから一度鍛え直しときましょう」
「うげえぇ……」
基礎、基礎かあ。どうにも苦手な響きだ。だが、それ抜きにいきなり応用と言うのが無理な事は先刻承知。やるしかないのだから……やるしかないのだ……
「まずはオックスに教わりましょうか。多少は齧って慣れてるだろうし」
「押忍! お願いしますオックス師範!」
オレっスかぁ? などと言いながらも案外まんざらでも無さそうだ。師範という響きに悦に浸っているのか。ミラもそうだが……いかん、このパーティには単純な奴しかいない。僕も含めて。
「えーと……そうっスね。まず足運びからっスけど……腰を落として、体重を常に両方の脚に掛ける様なイメージで。どちらか一方だけに寄っちゃうと、ふとした時に動けないからって」
「えー……片脚に全部乗せとけば一気に踏み込めるのに……」
こら、オックスに教われって言ったのお前なんだからな。ちゃちゃ入れないの。だが、その違いもよく分かる。ゲンさんも、攻め込む時にはきっと体重を片脚に集中させるのだろう。そうでは無い、まず生き残る為の——逃げ回る為の歩法を、オックスの口から聞き直しているのだ。多分。
「それで、足を高く上げない様に。すり足のイメージっスね。腰を回して、そのついでに脚が付いてくる様なイメージで。なんて言ってましたね」
「えー…………ばばーっと跳んで蹴っ飛ばせば早いのに……」
だから。いや、もうそれはいい。ミラにとって歩法とは、敵との距離を詰めて一撃で仕留める為のもの。加えてあの高速移動だ。一歩で大体の間合いは詰められるし、詰められない間合いも、それはそれで魔術で一方的に攻撃出来るのだから問題は無いのだろう。ゲンさんが教えたい物とは対極にあると言ってもいい。
「上半身は基本的にずっと動かさないって。足腰で、立ち回りでしっかり避けろって事らしいっス。上体を動かすと、体幹が弱いうちは足が動かせ無くなっちゃうからって」
「あ、それは分かるわ! 殴るより蹴るほうが威力も出るもの」
違う。絶対に違う。それは絶対に違うことを言っている。というのは黙っていよう。だが、オックスの言っている事は多少理解出来た。つまりは恥じらう乙女の構えのまま……
「ぷっ……あはは! へっぴり腰!」
「う、うるさいな!」
だから! 茶化すんじゃ無いって! ええと……そう、へっぴり腰になっちゃダメなんだ。腰を落として、膝を柔らかく……あれ、意外と難しいぞコレ。腰を回そうとするとどうしても……あれ?
「膝を曲げすぎなのかもしれないっスね。膝を曲げずに腰だけ落とすような……」
「膝を曲げずに腰を落とす……腰を落とすってなんだ⁈ ちょっと待って⁉︎ 膝を曲げ無かったら腰の位置下がんなくない⁉︎」
ああでもないこうでもない、もっとガーッとやれ、スマートに円のイメージで、バババーっと……ええいミラは黙ってろ! 思っていたよりも難しいゲンさんの教え、名付けるなら恥じらう乙女の歩法が全くと言っていい程捗らない。全然わからん!
「もっと腰を……そんなに大回りさせずに。内側から通すイメージっスよ!」
「内側内側……内側ってどこだよ⁉︎ 腰はここにしかねえけど⁉︎」
全然……全然わからん……
結局、僕がオックスに習ったことをある程度実践出来る様になるまで、随分と時間を食ってしまった。うん、言葉を濁らせたけど……
「アギトー。もう晩御飯の時間なんだけどー?」
「うう……まさかこんなとこでも落第とは……」
空はもう真っ赤に染まって、街に長い影を落としていた。一日掛かって、まさか基礎のきの字も終わらないとは。自分の運痴さに愕然としてしまう。
「でも、始めよりだいぶ良くなったっス。この調子で続けていけば、そのうちコツを掴んで一気に理解出来る様になりますよ」
「だといいけど……」
汗だくになってびしゃびしゃのシャツに、お風呂が恋しくなる。ひとっ風呂浴びて早く眠りたい。ああ、その前にコーラでも飲みたい。コーラ……ジュース……
「じゃ、戻りましょう。お疲れ様。明日も頑張るのよ」
「……うす……」
急がなくてはならない。あの男の事を考えると、僕らは急がなくてはならないのだ。こんな所で悠長にしていてはダメだ。そう考えないといけないのに。ああ、どうしても——このまま平和に旅を続けられればと考えてしまう。




