第百二十八話
それは、空腹にお腹をさすっている時に、平和に浸って和気藹々と談笑をしていた時にやって来た。病室のドアが三度、少し力強く叩かれ、クエスト受付で出会った小柄なお姉さんが顔を覗かせたのだ。
「おはようございます。皆さん、具合はいかがですか?」
「あ、おはようございます。はい、見ての通り元気ですよ。こっちの二人はまだ怪我治ってないですけど。それでも元気です」
それは良かった。と、彼女は笑った。こういうのでいいんだよ。寝ぼけて噛み付いたり、食い意地で噛み付いたりしたりなんてしなくても。そんな僕の感想は一度置いておくとして、お姉さんの笑顔が少しだけ無理に作られたものの様に見えた。僕がそういうのに敏感だとか言うんでは無く、彼女がそういうのを苦手としていると言うのが正しいのだろうか。オックスはなにも言わなかったが、ミラはそうもいかない。持ち前のお節介さと気遣いの効く優しい心で、躊躇無くそこを突っ込んだ。
「……何か、あるんですね? こんなになってる私にも、何か。こんなになっている私達にすら声をかけなくちゃいけない事が」
「……っ。はい……」
ミラは僕の手を握った。彼女の言う通り、何か起きたのだろう。駐在していた冒険者の大半を喪ったこの街に。争う力を根こそぎ失ったこの街に、また何か危機が訪れようとしている。お姉さんの表情はどんどん暗くなっていった。
「…………っ。トグ山にて、また小型魔獣の群れを観測。おそらくは幼体かと。これの討伐を、フルト議会は依頼しました。そして…………それを受注出来る冒険者はもう多くない。ギルドは、あの事件からの生還者であるあなた達に白羽の矢を立てました」
それは……と言いかけたところで、ミラは僕を制止した。その顔はどこか寂しそうで、どこか覚悟を決めていた様な顔だった。薄々分かっていた。ありがとう。と、彼女は僕の手を強く握って、またお姉さんの方へと向き返った。
「……わかりました。報酬はいくら程に?」
「………………前回の三頭のヌシ討伐と同じくらいには。街からの依頼なので、監督役も今度は付きます。他にも声をかけている冒険者はいるので、討伐数に応じて分配金が決まる様に……っ」
お姉さんはそこで言葉を飲み込んで俯いてしまった。泣いているのだろうか。それは、僕らを案じてくれているのだろうか。そうだとしたら……やはり、彼女にこの仕事は向いていない。冒険者の悲運を悲しい事として真正面から受け止めてしまう、それこそミラの様な優しい心は、きっとギルド受付なんてものには向いていないと僕は思った。
「……私はギルドの決定、街の決定には逆らえません。この依頼も、冒険者に対する半ば強制のような……っ。これではもう徴兵です……っ。断れば、この街でのクエスト受注は難しくなるでしょう」
もしかしたら、さっきのミラの言葉は彼女なりのけじめだったのかもしれない。自分達は冒険者であり、この街にとっての武器であり、同時にこの街が守りたいものの枠から外れているものだと。だから、胸を痛めないで。非情に命令を、指令を下してください、と。彼女はこのお姉さんにそう伝えたかったのかもしれない。
「でも……皆さんは、この街に常駐して報酬金を稼ぐのが目的ではないのでしょう? お願いです、断ってください。こんな……っ! こんな馬鹿げた依頼を……そんな体で受けないで……」
お姉さんは遂に崩れ落ちてしまった。ああ、やはり向いていないと思う。僕らだけじゃない、あの時あの場所にいた全ての冒険者の死を、彼女は小さな背中で背負おうとしているみたいだった。そんな……それが非常に危なっかしいことを、僕は身近にいる少女に学んでいる。
「……ありがとう。でも……大丈夫です。私達は戦います。戦えます。場所は大山で良いのですよね? 準備が出来次第出発します。どうか受注書を」
「…………はい」
彼女は戦えると言ったが、それはどうだろう。正直に言って、まだ動ける状態では無いと僕の目には映る。今朝ストレッチをしていたのにはそれはもう驚いたが、それと高負荷な戦闘とでは比較にならない。後遺症が残らないとも限らない。僕はこの時点で、一つの覚悟を決めていた。
「……では、ここにクエストに受注を承認します。ご武運を。どうか……どうか無事に……っ」
お姉さんは涙を拭ってそう言った。力強い足取りで病院を後にする背中を、ミラはいつまでも目で追っていた。
「……それじゃあ……行きましょうか。アギト、ごめん。魔弾の補充、しておけばよかったわね。麓に残って……なんて言いたいけど、そんな余裕も無いし。ほんとごめん。二人とも、一緒に戦ってくれる?」
ミラは申し訳なさそうな顔でそう言った。オックスは力強く頷いていた。僕は……ミラの体を抱き上げて首を横に振った。
「……嫌だ。一緒には戦わない」
「…………うん、分かった。ごめん。でも……絶対守るから、お願い。私を運ぶ役がどうしても……」
僕は抱き上げたその小さな体をもう一度ベッドに寝かせて…………頭を引っ叩いた。平手で、そこにあった紙袋を丸めた棒で、枕で。目を瞑ってそれを堪えるミラを叩き続けた。ああ、こいつはまた何か勘違いをしている。それを思いしらせなければいけないのなら、こうだ!
「……っ⁉︎ ちょっとアギトっあははは! ちょっと……っ! んひっ⁉︎ こら……あっはは! くすぐり……〜〜〜〜〜〜っ! あははははは!」
「こうでもしなきゃわからんか! こいつは! 黙って叩かれるのはちょっと想定外だったわ! こいつは‼︎」
僕はミラの脇やら背中やら首もとやら足の裏をひたすらくすぐった。罰を受け入れるような顔で叩かれてるんじゃ無い! 胸が痛むわ! そういうつもりで叩いとらんのじゃい!
「はあ……っ! この……あひっ⁉︎ こら! いい加減に……」
「いい加減にしろはこっちのセリフだ! 一緒には戦えない! オックス! お前もだ!」
ミラの頰を両手で鷲掴んで綺麗な翡翠色の瞳を睨んだ。オックスにもひと睨み入れて、そして——
「——山には三人で登る。でも、戦うのは俺だけだ! 俺だけで……二人はもう、これ以上傷付くな‼︎」
「アギト……」
ミラの小さな手が僕の頰に触れた。ああ、泣いてしまったのか。大声を出すことに慣れていなくて、自分の涙腺が先に決壊してしまった。今もそれを情けないなんて考えている余裕も無いのだから当然か。
「っ! と、とにかく俺一人で戦う! 怪我人は遠くで見てろ! 他にも冒険者が居るんだ。あの時のデカイのが相手ならいざ知らず、今回は子供が相手なんだ。こんな時くらい、ちょっとは体を休めないと……」
ああ、言葉が尻すぼみに。決意は揺らいでいないと信じるが、どうしても強い言葉を使い慣れていない。僕がやる。僕なら大丈夫。二人に休んで欲しい。二人に怪我して欲しく無い。断定や命令は、次第に願望へと変わってしまう。だが……うん。それも僕らしいと開き直ってしまえ。僕はまだ、色んな事を望む立場にいるのだ。
「…………ダメよ。って、言ったらまた怒るのよね。うん、分かった。その代わり、危ないと思ったらすぐに介入します。アギト。無茶だけはしないように」
「……わかった」
オックスは不思議そうな顔をしていた。てっきり泣いてでも止めると思った。と、彼は目を丸くしたまま口にした。それについては……うん。僕も同意だ。
「茶化さないの! もう。そりゃ、私だってアギトを戦わせるのは本意じゃないけど……」
「過保護め」
最後まで聞きなさい。と、睨まれてしまった。だが彼女の顔は次第に暗く雲をかけ、目を伏せたまましばらく黙ってしまった。そして次に口を開く時、彼女は顔を両手で叩いて何かを吹っ切る様な仕草をしてみせた。
「もう、アンタを私が守らなくちゃいけない、弱い人間だとは思わない。自信を持って送り出すわ。アギト。アンタはいくつもの窮地を経験してきた。アンタは強くなった。ううん、もしかしたら最初から。だから……絶対に生きて帰るわよ!」
「……っ! おう!」
そう言って、ミラはまた腕を広げて僕にしがみついた。おい、オックス。笑うな、こら。しょうがないじゃないか! だって…………しょうがないじゃんか! そんなの!
「……ばーか。何ニヤけてんのよ……ふふ」
「う、うるさいな!」
ほら気付かれた! くそっ! だから笑うなって念を送ったのに! しょうがないだろ! だって! だって‼︎
「いいからもう行くぞ! ちゃんと捕まってないと落ちるから、ほら!」
「はいはい。じゃ、頼んだわよ」
ああ、もう。そうやって。しょうがないだろう。だってそれは。それを——僕はお前が頼ってくれるのを、ずっと、ずっと心待ちにしてたんだから。




