第百二十六話
「アキトさん早く。トレーに水跡残っちゃう」
「は、はいっ」
はて。
「アキトさーん、はーやーくー。お客さん来た時本当に大丈夫?」
「す、すいませんっ」
これは……
「ちっ。トロいってアキトさん。おーい、はやく……おっさん、キビキビ動け」
「はっ、はいぃいい!」
一体…………
「あー疲れた。おっさん肩揉んで」
「はいぃぃ……」
これは一体、どういう事だ。
確かに昨日の今日で、どういう風の吹き回しか彼女との間にあった壁は取り払われた。だが……倍以上生きてるおっさんに、その扱いはどうなのかね? え? なんで本人にそれを言わないかって? だって怖いじゃない……
「えーと……二人とも随分打ち解けたねぇ」
「そっすか? まあ……おっさ…………あー……アキトさんは気楽に相手出来るし」
ねえ、今ちょっとおじさんの名前忘れなかった? 随分間があったけど……ねえ⁈ しかし、気楽な相手というのは悪くないな。そうだ、今はうだつの上がらないおっさんでも、そのうちに評価を上げていって……
「なんていうか……歳上な感じしないし。タメか後輩と話してる感じ。まあ見た目はおっさんなんだけど。風格っていうの? 経験値を全く感じないし」
「うわぁああん! 店長ぉう‼︎」
僕はみっともなく店長に泣きついた。もうやだ! あっちでもこっちでも歳下の小娘に振り回される運命にあるのか僕は! こんなの……こんなの…………ご褒美です! じゃない! いかん、本能に飲まれる!
「……まあ、当人が良いなら良いんだけどさ」
「良くない! 全然良くないって顔してるじゃないですかっ! 現実から目を背けないで下さいよ‼︎」
ケラケラ笑う姿は、どことなくあっちの少女を思わせる悪餓鬼さで……どうしようか。本当にこのまま僕は彼女の使いっ走りになってしまうのだろうか。
「冗談だし、おっさん……ああ、アキトさん。悪い意味でなく、大人っぽくないって言いたいんじゃん。分からん?」
「うう……どう取っても悪い意味にしか聞こえない……」
この……なんというか、若者言葉と地元の方言が混ざったような言葉遣い。それをちょっといいなと思ってしまっている自分がいて悔しい。くそう……アーヴィン弁とか、訛りとかは無いものか。ではなくて。ただ、彼女が僕との間にあった壁を取っ払ってくれたのは喜ばしい事実なのだから、今は何よりそれを喜ぼう。うん、現実逃避じゃ無いぞ。
「花渕さん……出来ればもう少しだけ手心を……」
「ヤだし。つーか、おっさん普通に使えないじゃん。今まで何してたの」
僕の心に風穴が空いた。店長、大丈夫です。大丈夫ですよ。そんなに青い顔をしなさんな、大丈夫だって。俺に任せとけ、心配はいらねえ。
「…………ごふぅ……」
僕はそのまま膝をついて胸を押さえた。死ぬ。死んでしまう。心臓と胃が弾け飛んで死んじゃう。息が苦しい……ああ、そういえばアイツに初めて出会った時にもこんな感じになったんだっけ。てことは……もしかしたら花渕さんに慰められて、そのまままた向こうへ……
「おっさん、仕事中だしあんまふざけてないでよ。さっさと手洗って来な」
「わーん分かってたよ! すぐ戻ります!」
はい。床に手をついたらばっちいもんね。容赦というものはないのか。慈悲とはどこにある。僕の心はいつになれば救われる。
そうして、なんやかんやある度に十五の少女に罵声を浴びせられながら、今日の僕の勤務時間は終了した。帰りたい。早く帰ってゲームしたい。デンデン氏ぃ。
「あ、店長。ちょっと時間イイっすか? おっさ……アキトさんに話しときたい事があって」
「へ? 僕?」
そうだよ。と、語気を荒げて睨む姿から、お説教されることを確信する。店長もニコニコ笑いながら頷いて……ああ、もう僕のライフポイントは……がくっ。
「……で、おっさん。話ってなにか分かる?」
「お……お説教でしょうか……?」
花渕さんは大きく頷いた。どうしてだろう、涙が出る。おかしいなあ、可愛い女の子と二人っきりでお話するだけなんだけどなぁ。
「まず、おっさんは考えるのと手動かすのを同時に出来てない。出来てないのに無理にやろうとするから、結局考えられてないし作業も進んでない。無駄じゃん、その時間」
「うぐぅ……お、おっしゃる通り」
ああ、本当にお説教始まっちゃった。照れ隠しでそう言っただけで実は、は、話しかけてくれてありがとう。本当はもっと仲良くしたかったんだ、お兄ちゃんと。みたいな甘いイベントを一瞬でも期待した僕がバカだった。
「それから作業効率悪過ぎ。これはまあ、頭使えて無いんだからしょうがないんだけど、いい歳なんだからしょうがないなんて言ってる場合じゃないし」
「ごほっ…………め、面目次第もございません……」
死因は……ストレス性の心臓爆発かな。さっきから自分の心臓の音しか聞こえない。もう、どうしよう……泣いちゃう。本当に泣いちゃう。女の子に怒られてガチ泣きしちゃう。
「……あと、俯き過ぎ。もうちょっと胸張るじゃん、普通。お客さんはさ、おっさんを頼んなきゃ買い物出来ないんだから。もっとしっかりして。そんなんじゃお客さんが不安だし」
「……はい。すいません……」
目頭が熱い。泣いちゃう……本当に……と、考える頭とは正反対に口は勝手に動いた。余計な事を喋る為だけに。
「あはは……花渕さん、優しいよね。もうお客さんの為にそれだけ……」
床ばかり見ていた僕では、彼女が黙ってしまった事に気づくのも遅れてしまう。ようやく顔を上げると、暗い顔をしている少女の姿があった。
「…………頼られる事には慣れてるつもりだし。頼られる事しか教わってこなかったんだもん。頼りにして貰わないと……」
「……花渕さん?」
声を掛けると、手元にあったマジックを僕に投げつけて少しだけ苛立った声で怒鳴り始める。地雷を……地雷を踏みつけたか……?
「おっさんはお客さんの事考えて無さ過ぎだし! 痩せろデブ! 幅取り過ぎだし! 店狭かったらどうするつもりじゃん‼︎」
「おっほぉお…………死んじゃう……これ以上はほんとに死んじゃう……」
ギブアップ宣言をした無様なおっさんに、花渕さんは怒りを納めて笑ってくれた。呆れ返って笑うしかなかったとも言えるかもしれない。が、彼女は本当に怒っていたわけでは無さそうだ。いえ、お説教のことはガチのマジだと理解しております。
「……ぷぷ、別にマジで言ってるわけないじゃん。まあ暑苦しいとは思ってるけど」
「マジのやつじゃん! マジのガチのやつじゃん! それ!」
花渕さんは笑いながら僕を退かして仕事に戻っていった。ああ……ダメだ。店長くらいの歳上のおじさんには恵まれるが、歳下はどいつもこいつもわがままなやつばっかだ。くそう、どうしてこんな目に!
「アキトさん、また相談するからそんときはヨロシク! 精進するし!」
「はい……頑張り…………相談?」
なにやら不穏な響きが最後に聞こえたような……とか考える間も無く、彼女はヒマな店に戻っていった。そう……だん……相談? 一体何を。それを聞く事を許さんと言わんばかりに、さっさと帰れと店先で追い払われる様に僕は帰途に就いた。まあ……相談くらいは…………乗れるものなら、いくらでも乗るけど。慣れたしさ。
「ただいまー、って……まだ誰もいないか」
まだ誰もいない家に帰り、僕はまた明日の事を考える。バイトは休み、一日中ゲームをするくらいに何も予定は無い一日。だからこそ、彼女の言っていた精進とやらをするべき日なのかもしれない。布団に転がって色々と考えを巡らせる。ああ……くそ。確かにこうしてないと考え事もままならないや。よく見てるよなあ、あの歳で……
そして僕は、晩御飯も食べずにそのまま眠りについた。