第百二十五話
朝早くに目が覚めた。理由は単純にストレスによる頻尿。最近、夜に起きることが多くありませんか? と、何処かで聞いたCMのフレーズが頭を過る。まだ……まだそんな歳じゃ……無い筈だ……っ。
この一日をどうにかしてやり過ごそうと考えている自分が居て、それを悪い事だと糾弾する自分も居る。天使と悪魔が交互に囁いて……なんて、漫画の様な面白い状態では無い。どっちも悪魔だ。こんな世界、こんなうだつの上がらない冴えない人生なんてほっとけと囁く悪魔と、窮地にも負けずに突き進めと背中を押す無責任な悪魔。天使はいないのか、天使は。それこそ…………いや、アレは違う。確かに見てくれは天使と言って差し支えない。うん……いろいろ良くもして貰っているし……うん。天使…………は、うん、言い過ぎだろう。言い過ぎだ。いいとこ天使の飼ってる躾のなってない小型犬だ、うんそうだ。
「っと、いけないいけない。今はこっちに集中……」
頭の中をバタバタ走り回ってはしゃいでいるオレンジ色の子供のことは一回忘れよう。その前に愛想の悪い少女との対決が、一方的な虐殺とも言える対決が待っている。向こうはそんな事一切考えても無いだろうけどさ。
そして時は来た。朝っぱらから元気な学生さん二人以外のお客さんも来ず、いつも通り危機感を感じつつも呑気に店長と談笑しているその時にそれはやってきた。天敵花渕さんは、今日も気だるげというかやる気なさげというか……
「おはよう花渕さん」
「……はよざいまーっす」
店長相手にもこの雑な挨拶。だが……だが臆してはならぬ。吶喊あるのみと囁く無責任悪魔に背中を蹴飛ばされた。
「お、おはよう花渕さん」
「……んー。はよーっす」
花渕さんはひらひらと手を挙げて、更衣室こと控室に入って行っ…………
「…………おっ……おおぉ……」
「……? 原口く……泣いてる?」
涙が頬を伝った。やった……やったんだ僕は……遂に……っ!
「はなっ……花渕さんが挨拶してくれた……っ」
「……ああー……えっ? アレでいいの? 本当にいいの、キミ?」
全然いいですとも! 胸を張って僕はそう言った。だって……昨日までは見向きもしなかった花渕さんが…………昨日の今日だし、舌打ちされて通り過ぎるくらいの塩対応も覚悟してたあの少女が……はよーっすって……っ! もうこれは友達と言っても過言じゃ無いじゃないか!(過言)
「おっさーん。シャツ新しいの来てないー? デカイのしか無いんだけどー」
「あ、うん来てた来てた。ロッカーの脇に箱で置いてある筈だよ」
ドア越しに呼ばれて、犬の様に駆け寄って返事をする。はい、わたくしめを犬とお呼びください、ワン。ではない。通報案件だそれは。なんだ……これはどう言った風の吹き回しだ? 相変わらずおっさんと呼ばれてはいるものの……店長に聞いたって問題ない事柄を、わざわざ名指しで僕に聞いてくるなんて! もうこれは告白と受け取っても問題ないんじゃないかっ⁉︎(大問題)
「原口くん……昨日何話したの……?」
「え……えーっと……自分でも何言ったか分かってなくて」
店長はとても訝しげな顔をしていた。それもそうだろう。側から見ればそういうプレイを楽しむおっさんだもの、お金とか渡してそうだもの。たぶん、顔も気持ち悪いことになってるんだろうな……と考えれば……店長、通報は本当に勘弁してください。何もやましいことはしておりません。
「……おっさん邪魔。ほら、さっさと仕事しろよ」
「あっ、はい。さっせん」
ドアの前でグダグダやっていた僕を蹴飛ばすでも無く優しく声をかけてくれた。(事実歪曲)もうこれはプロポーズしたって問題無いんじゃ——ッ⁉︎(違法)
その後も、店内には珍しい単語が飛び続けた。おっさん、おっさん。と、呼びかける姿は…………あれ? もしかしてだけど……僕、バカにされてない?
「あのー……花渕さん? おっさんは……うん、おっさんなんだけどさ。そう連呼されると心に悪いっていうか……おじさん病んじゃうって言うか……」
「おっさんはおっさんでしょ。お兄さんなんて呼ばれたいの? 高いよ?」
あ、はい。幾らでしょうか? じゃない! 危うく言いかけた。お兄さん……お兄さんか……魅力的な響きだ。お兄ちゃんだとなお良いんだけど。ではなく。
「えーっと……ほら、昨日も言ったけど僕にはちゃんと名前が……」
「うるせーなぁ……おっさんでいいじゃん。言いやすいし」
いえ、それは……そろそろ向き合うかぁ。僕ももうアラサーだもんな。昨日自分で言ったことだけど、この子の倍だもんな。
「……で、そっちの仕事は終わったの? アキトさん」
「オ——ッッッッッ⁉︎」
心臓が死ぬ。それはいけない。それはもう……夫婦じゃないか‼︎(夫婦では無い)それは……それは……それも良いなぁ。うん、アキトお兄ちゃんとか、どうですか。呼んでみてくださいませんか(事案)
「いや……それで良いなら良いけど……うん。原口さんでいいよ……いや、別に良いんだけどね? 僕は? うん……でもほら、年頃の女の子がさ。おっさんを下の名前で呼ぶのとかってさ、ほら。なんだかあんまり良くない感じがしてさ……あ、べべべ別に僕は良いんだけどね? 花渕さんを見る周りの目っていうかさ? 評価っていうの? 悪いイメージがついちゃうんじゃないかなーて、思わなくもないって言うかね? 別に僕は良いんだけどさ?」
「気持ちわる。おっさん、童貞でしょ絶対」
僕の心は死んだ。悪いんか。童貞ってそんなに悪いんか。純潔の一体何が悪いって言うんじゃぁぁあああああいっ‼︎
「……ハラグチって……響きが近いし、なんか自分の事呼んでるみたいでヤだし。良いじゃん、やっぱりおっさんで」
「おっさんは本当に勘弁して……心が折れちゃうから……」
情けない嘆願の様な言葉が出た。アキトさん。秋人さん……か。うへへ。ではなくて。それ以前の疑問と問題が多々ある。舞い上がり過ぎててそれどころじゃ無かったが、ハッキリさせておきたいもの、こともある。
「えーっと……う、嬉しいんだけどさ。どうしていきなり話してくれるようになったのかな……って。思わなくもないと言うか……」
「ああ……アキトさんは他の大人と違う。って、昨日思ったから。別に、そんなに警戒しなくても良いかなって思っただけだし」
他の大人と違う。そういえば、店長が家庭の事情について心配していたっけ。もしかしたら、嫌な大人に囲まれて育ったのだろうか。それで……似た年頃の妹の世話を焼いている僕のお兄ちゃん力に惹かれて……
「アキトさんさ、もうすっごいダメ人間って感じがして。別に、この人は私に何か害を加えることも出来なさそうだなって。別に、コイツは警戒する必要も無いんじゃないか……って」
「待って、折れる折れる。心と言わず尊厳とか色んなものが粉々になっちゃう」
完全にナメられてるだけだった。うん、でも……それはすごく納得できる答えだなって……ぐすん。変にこの人は信用出来ると思ったとか言われるより安心する答えだ。なのに何故だろう、涙が出ちゃう。
「……あと、アキトさんは私の為って言わなかったし。アレ、ウザいんだよねーほんっと。分かったから、私の為に黙ってくれー、って感じだし。アギトさんは尊敬も出来ないし信用も出来ないし、信頼なんて以ての外だけど、そういうのは言わなさそうだし。別に、パシリにする分には良いかなって思って」
「後半は聞かなかったことにするね。うん、もうおじさん泣いちゃう。明日の朝刊に飛び降り自殺とか見出し出たらごめんね」
まったくもって失礼な話だが、どうやら昨日の自分勝手な言い分が彼女の何かに触れたようだ。その結果この扱いってのは……どうなんだろう。いえ、その…………べ、別にご褒美だとか思ってないし⁉︎ べっ、べべべべべ別に若い子に罵られて興奮とか……ではなくて。ともかく、これで少しは友好的な関係を結べた……んだろうか。
「それにさ……」
「……それに……?」
少しだけ照れ臭そうにもじもじしている姿に心がときめいてしまう。やだ……嘘、待って! まだあたし、心の準備がっ‼︎
「…………私の所為でおっさんニートが生まれるってのは……良い気分じゃないし」
「おぅふ……」
心をへし折りに来るボディブロウだった。もうやめて! おっさんのライフポイントはゼロよ! かくして、板山ベーカリーからあの陰鬱な空気が払拭された。おっさんの精神力を引き換えに。こんなのあんまりだ‼︎




