第百二十四話
体の痺れは当然無かった。節々の痛みも傷の痛みも、あのぐるぐる回る視界も今は良好。強いて言えば、とてもボケている。近眼……老眼では無い筈だ、まだ。体を起こすと、つい目がいってしまいがちなのはこの腹である。痩せたい……痩せ……たい……っ。
「はあ……まあそうなるよなあ」
窓の外はまだ白んでいて、時計は午前五時を指していた。そういえば憂鬱なイベントが控えているんだったと三日前の昨日よりもずっと冴えた頭を、昨日一昨日で多少解決した不安を振り払って今に切り替える。さぁ……なんと言ったものか。アギトの不安は解決した……訳ではないが一段落した。これからは秋人の問題を解決する時間だ。
今朝も今朝とて二人は元気そうに僕を迎えてくれた。そろそろ朝ごはんくらい作ったらどうだい、って? そんな事したら二人の一日が台無しになってしまうよ、ははは。ここ最近パンばかり食べていた気がする僕の胃袋に新鮮な刺激をもたらすそうめんを啜って、二人から少し遅れて僕も家を出る。お歳暮という文化は向こうにも持ち込みたいところだ。
「おはようございまーす」
「おはよう原口くん。今日は元気そうだね」
その節は本当に申し訳ありません。と、頭を下げて、僕はさっさと着替えて支度を済ませる。きっと今日もお客さんは多くない。というか日に日に減っている気さえ……
「今日、お昼前少し忙しくなるかも。だから花渕さんもちょっと早くから入るから。その分早めに上がるんだけどね」
「そうなんですか。ちなみに今日って何かありましたっけ……?」
店長はいつもより少しだけ張り切って見えた。地元のイベント事なんてもう全然把握していない。今日という日に何かあるのだろうか、それともこれからという時期に何か……?
「うん、そこの小学校が授業参観らしくてね。僕らの時はそんな事なかったんだけど、時代だよね。子供達も親御さんと一緒に帰るって事で、帰りにパンでも買ってこっかーなんて事に…………なったらいいなぁって」
「願望じゃないですか……」
尻すぼみにテンションの下がっていく店長が不憫でならない。頭が白くなるほど働きつめてきた会社を辞め、心機一転と始めたパン屋が閑古鳥の鳴く有様だなんて。世知辛いものだ。
それからお店は順調にお客さんを待ち続け……細かく説明するのなら、バックヤードの掃除と新商品の試案と……要はやることが無くてうだうだくっちゃべっていたのだが。十時も終わる頃に花渕さんもやってきて、そろそろお客さんが……と、そわそわしながら今こうして待っている。きっと、僕と店長とではそわそわの意味合いが違うのだろうが。
さてなんと切り出したものだろうか。花渕さんがやってきた事で、僕は少し早めの昼休憩を貰ってご飯を食べながら一人思案する。彼女に言う事は——いや、僕が言う事はもう決まっている。覚悟も決まった。だが……話しかけるにしても、これまで通りに話し掛けたんではきっと無視されてしまう。どうしたものか……
考え事をしていれば時間というのはあっという間で、僕は慌てて食器を片付けてまた店先に戻った。何も浮かんじゃいないが……ええい、当たって砕けろ! 砕けた場合、僕の首が怪しいが。とにかく、そろそろ店長の言っていた時間になる。大丈夫、この三人なら…………この三人はなぁ……
店長の読み通り子供連れは確かに来た。来たのだが……ここへ来て大切な事を忘れていた。世のお母様方は、車で学校まで行くのだ。駐車場が無ければ、一度に入って来られるお客さんの数にも限りがある。この事に気付いたのは、ピークも終わって、いっぱい来たは来たけど、思ってたよりは来なかったね。なんて呑気に話をしていた時の事だ。住宅街ということもあって、駐車場の確保は難しいし……この問題ばかりはどうしようもないのか。うーんと頭を抱えたりしているうちに、その刻限はやって来た。
「二人とも、お疲れ様。ごめんね、花渕さんも今日はここで」
「はい、お疲れ様でした」
午後三時。本当は花渕さんだけ残す予定だったのだろうが、僕が彼女に話をする時間を設けてくれたのだろう。変に気を回さなくても、僕は花渕さんの上がる時間くらいまでなら残っていられたのに。だが、うん。ちゃんと向き合わないとなと気を引き締めなおす。さあ、なんと話しかけようか。
「お、お疲れ様、花渕さん。もう仕事はすっかり慣れちゃったね」
返事は無い。もう彼女は、僕と私的な理由で会話するつもりは無いと言わんばかりの投げやりな返事を返され、初手で心が折れかける。というか折れる。折れちゃう。どういう事だ本当に……こんな……こんなに無愛想なことがあるだろうか。同い年でもあっちのちびすけはもっとこう…………いや、よそう。すぐ他人と比べるのは失礼だ。
「……そ、そうだ。今日店長と新作の話をしてたんだけど、花渕さんからもアイデア無い? 僕はもっと惣菜パンとか増やしたら学生が来るんじゃないかなーって考えたんだけど……」
そう。と、素っ気ない相槌なのか返事なのかも分からない対応を取られる。折れる折れる、ポッキリ折れちゃう! おじさんのクソザコメンタルが! 茹でる前のそうめんみたいな脆いメンタルが折れちゃうから! だが、こうも取り付く島がないとは……どうしたら……
「…………前にも言ったけどさぁ。無理に話しかけなくていいよ。話だって合わないし、仕事中は最低限の事くらいは話すし、それで良いじゃん。おっさんだって嫌でしょ、こんな生意気なガキの相手なんて」
折れた。ポッキリと、それはもうポキポキと、バッキバキに束ごとへし折られた。ああ……そうか、向こうでの経験は、こっちでこんな風に反映されていたのだな。へし折られた心とは裏腹に、僕の口は勝手に動き出した。
「……おっさんじゃないよ。原口秋人、ってちゃんと名前がある」
意外な事に、だからなんだと彼女が睨む事は無かった。意外というのは……うん、僕の先入観があったからだろう。本当に失礼な男だ。驚いて目を丸くしてはいるものの、彼女は威嚇でも忌避でも無い表情で僕の方を見た。うん、ようやく。ようやく、ちゃんと見てくれた。
「僕はそりゃあ尊敬出来る人間じゃ無い。見ての通り、この歳でやっとバイト始めて、運動なんてしてないのもすぐ分かる。学歴だって無いし、なんだったら最近は枕が臭いよ。涙が出そうな程。でも、でもね。こんなしょうがないおっさんでも、君の倍近く生きてるし、数日だけでも君の先輩なんだ」
威張り散らすつもりも上から抑え付けるつもりも無いが……その意図が伝わる様に、ちゃんと言葉を選べているだろうか。どうにもその辺は……経験値が足りてない。ともかく動き出してくれた口を、折角彼女が僕にキチンと向き合ってくれたこの機会を、みすみす逃すわけにはいかない。
「だから敬語使えとか、そんな事は言わないよ。口が裂けても言えない、だって、どうしようも無いおっさんだもの。でも、これから先出会う人が、みんなどうしようも無いおっさんなわけじゃ無いんだ」
「……だから、店長にはちゃんと敬語使ってるじゃん。別におっさんと話する必要も無いし」
それは本当に。だけどね。花渕さんの姿を、いつかあっちの少女に比べて大人びている評したこともあったが、どうだろう。この子も、アイツと同じくらい子供っぽいところがあるようだ。僕に張り合ってか、少しだけ口調が荒くなる姿に——昔なら怯えていただろうその姿に、少しだけ安心した。彼女もまた——
「うん、別に僕と話をする必要は無い。だけど、それじゃいつか困る。店長から見たら僕らは仲が悪い様に見えるし、店の雰囲気を悪くする様にも見えるかもしれない。そうしたら……極論、どっちかが辞めさられちゃうかもしれない」
だからね。と、諭す風につい間に挟んでしまう。これはきっと印象良く無いだろうなぁ……と考えつつも、一度自分の中で定着してしまったワードは簡単には剥がれない。こんな説教くさい口癖は嫌だ!
「……まあ、その。花渕さんの将来に、そういう事について厳しい人が現れるかもしれないし。良い事じゃ無いんだから、今のうちに直しておこうね、って。何もしてないおっさんだけど、若い時の過ちで苦労するのは嫌という程理解したからさ」
話の着地点を見失って、僕はタラタラと色んな、それでいて内容はたった一つという最低の話し方で彼女の時間を奪い続けた。ち、違うんです! 本当はスパッと言ってスパッと解決したいんだけど……対人会話能力が…………っ。
「……それで? おっさんは私に説教して、私の為に有り難いお話を聞かせて下さってどうもありがとう。って、そう言って欲しいわけ?」
「ああ……えっと、それは違くて……」
ああん、やっぱり怒ってる。ごめんね、ごめんね。と、情けなくぺこぺこするおっさんと、それを見下す女子高生。あれ……犯罪の匂いが……?
「じゃあなんだよ! さっきから聞いてりゃ同じ事ばっか言いやがって。気分が悪いからちゃんと敬語使えって、はっきり言ったら良いじゃん!」
「ええとね……ええと……その、違くて……」
詰め寄られると、もう流石に折れた心では太刀打ち出来ない。心臓が止まってしまう。緊張と恐怖に体が支配されてしまう。きっと少し前ならもう泣き出していただろう。
「えっと……ごめん。そうだよね、花渕さんの為に話をするべきだったんだけど……本当にごめん。これは、僕の為に話をしてるんだ」
「……おっさんの……?」
花渕さんの声が小さくなった。怖くて顔なんて上げられないが、きっと呆れ果てているのだろう。うじうじと、モジモジとしているおっさんなんて、彼女はさっさと話を切り上げて金輪際関わりたくも無いのかもしれない。だけど……
「さっきも言ったけど、このままじゃどっちかが辞めたり、割りを食わなくちゃいけない。そしたら、それはきっと僕だ。君より仕事が出来ない、君より見た目も悪い、君より若くない。選ばれるとしたら、僕なんかより絶対花渕さんだからさ。ちょっとでも仲良くなっとかないと、悪い雰囲気を出す仲じゃないよってアピールしとかないと僕のクビが……」
「…………なんだよそれ。なんで……私に世間を教えてやるって。威張り散らして説教してんじゃなかったのかよ……」
彼女の声が震えている気がした。だがそれは、きっと怒りによるものだろうと、僕は肩を竦めて目を伏せ続けた。しょうがない、だって僕はそんなに立派じゃない。花渕さんに何かを教えられる程立派な大人じゃないから。
「……だって、君はそんな事言われなくちゃ分かんない子じゃないでしょ?」
ああ……やばいやばい。収拾がつかなくなってきた。なんだそれは、煽りか。煽りスキルしか磨いてこなかったもんな。それでも動く口は、好き勝手に言い訳を述べ始める。
「ほほほほら。さっき言ってた通り、店長にはちゃんと話をするし、この先だってめんどくさそうな人とも上手く付き合ってくだろうし……」
花渕さんは完全に黙り込んでしまった。さよなら……僕のアルバイト生活。ただいま、バイト募集に応募するだけ応募して満足しちゃうダメ人間生活……
「だから……花渕さんの事なんて一々心配してないよ。心配出来る立場でもないし……って何言ってんだろうね。ごめんね…………うん……ごめん……」
花渕さんは何も言わずに控室から出て行ってしまった。明日もシフト被ってるんだけど……どうしたものだろう。どうしたものだろうか…………
僕は結局そのことを後悔しながら一日を終えた。明日は明日だ。もう一日をなんとかして過ごせばまた……ああ、また。また僕はこっちの生活を消費しようと考えている……




