第百二十三話
太陽はてっぺんを通り過ぎて、次第に僕らの影を伸ばす。あれから僕は、ずっとミラの指導のもと訓練を積んでいた。なんの訓練だったろうか。さっきから目が回って、胃の中もしっちゃかめっちゃかに掻き回されて、とてもものを考える余裕など……
「ッ! っとぉぉお——ッ‼︎ おろろろろろ……」
「なーにやってんのよ! もっとこう……ガッ! と! グイッと一気にテンションあげてバババーッと!」
わかるかそんな説明で! などと突っ込む余裕すらない。これはどうしたものか。昨日はあんなに心配してくれたミラが、今日はとてもスパルタ教官になってしまっている。そして確信する。こいつはインテリ風の馬鹿だ。うすうす感じてはいたが、もう間違いない、頭は良いけど馬鹿なんだ。ノリと勢いで生きている。
「ほらもー一回! 早く立ちなさい!」
「み、ミラさん。アギトさん死んじゃうっスよ。一回休憩にしましょ? ね?」
そう言って肩を叩くオックスをひと睨みして、ミラはまた僕の方へ視線を戻した。休憩は欲しい。だが、休憩した所で気持ち悪いのも体が痛いのも治るわけじゃない。もう今日はここで切り上げ、としても良いのではないか、するべきではないか、いやしよう。オックスの言う通り、このままでは僕が死んでしまう!
「……アギト。立ちなさい」
「…………ぐっ、鬼教官め」
分かっている。それを理解出来ない程コイツが馬鹿なわけじゃないことも。コレはコイツなりの精一杯の指導なのだろう。ちょっと要領が悪過ぎるのと、ちょっとスパルタが過ぎるのと、ちょっと内容が過激なだけだ。馬鹿野郎だ、やっぱり。だが僕はなんとか立ち上がって、そのもう一度を何度も繰り返す。
「………………っ!」
僕はこの半日で、たった一歩すら踏み出せなかった。不甲斐ない話だ。目の前で辛そうな顔をしているあの少女がいつもこんな状態で僕の為に戦っていたのかと思えば、胃から別のものを吐き出しそうになる。コレは彼女が課した試練ではない。僕が望んだ試練なんだ。
「アギトさん……やっぱりこんなの無理っスよ! もう日も暮れるし、今日は休みましょうよ!」
オックスはそう言ってミラの体を優しく揺すった。まだ彼は、彼女が僕に無理難題を強いていると思っているのだろうか。まったくそれは困った勘違いだ。どいつもこいつも僕に甘過ぎる。誰も彼も……そう、僕も含めて甘過ぎるんだ。
「……いいんだよオックス。俺はコレでいい。コレで……コレを越えたらきっと……」
コレは僕が望んだ試練だ。ミラがいなければ、ミラに強化魔術を掛けて貰わなければ意味の無い特訓かもしれない。でもコレで、コレを乗り越えればアイツと一緒に戦える。もう、あの小さな背中を見送るだけじゃない。並んで彼女を守ることが出来る。コレを……たった一歩だけでも、コツさえ掴めたなら————
僕はオックスに背負われて病院へと戻った。ミラは足を引きずって、辛そうな顔で歩いていた。オックスだって楽になったわけじゃない。空はすっかり真っ赤になってしまっていた。僕は結局、たった一歩すら踏み出せずに今日を終えた。
「大丈夫っスか、アギトさん。ご飯食べられそうっスか?」
「……ああ、うん。悪いなオックス。お前だってまだ完治してないのに」
視界はまだ捻じ曲がったまま。ミラの助言通り、目を瞑って体の力を抜いて、全て二人に任せっきりにして僕はベッドに横たわった。
「……じゃあ、何か買ってくるっス。果物なら多少大丈夫っスよね」
そう言って、オックスは病室から出たのだろう。ドアの閉まる音がして、足音が遠くに離れていくのが分かった。
「…………お前は凄いな。いつもあんな事やってたのか……」
「別に……慣れてるだけだもの」
側にいることは分かる。だが、いつものようにしがみついてくる気配はない。彼女は今、どんな顔をしているだろうか。目を開けても歪みに歪んだ天井しか映らない。
「……明日も頼む。今度こそ……もうちょっとで何か……」
それは虚勢だったかもしれない。今度こそと意気込んだのは確かだが、何かが掴めそうだなんてことは全く無い。暗中模索どころか、もう座礁しているのかもしれない。僕がアレを制御するイメージが全く浮かんでこなかった。
「……ごめんね。でも……もう私一人じゃアンタを守りきれないって。思い知らされちゃって、焦ってるのかもしれない。せめて走る事が出来るようになれば……」
ミラは口を噤んだ。きっと続けようとしたその言葉は、アンタだけでも逃げられる。だろうか。僕がその望み通りには動かない事を、いい加減に理解したのだろう。ようやく背中に暖かいものがくっついた。
「……まったく、下手くそすぎるのよアンタ。力任せに動こうとしすぎ。もっと体の隅々まで、それこそ毛先まで神経尖らせなさい」
「…………毛先に神経は通ってねえよ」
誤解される様な言い方やめなさい。という文句を飲み込んだ。どうせコイツはそんな事意識していないのだから。下手に墓穴を掘るのは止そう。だが……もしかしたら、それは意外と大切なことかもしれない。いかがわしい話では無い。髪の毛の話だ。彼女も年頃の女の子で、いつかドレスに袖を通した時はとても上機嫌だった事もある。髪型だって自分じゃ上手くできないってだけで、色々弄ってみたいのだろう。
だが何かの折に結ったり縛ったりすることはあれど、それを戦闘に持ち込まない。より正確に言えば、あの強化魔術を使用するときには絶対にいつも通りの髪型にしている。もしかしたら、髪型が変わっただけで、少しの変化で繊細な調整が必要になるのではないだろうか。服装だって、似た様な服が多いのもそれが理由とか……
「…………こんなに焦げ臭くなっちゃって。よしよし」
「焦げ臭いって……あっ、こら頭を撫でるな」
少女の小さな手に撫でられる度に頭が小さくビリビリ鳴って、髪がまだ帯電している事がわかる。撫でるんじゃないと言ったものの……もうちょっと撫でてもいいのよ? なるほど、いつもミラがどんな気分でいるのかよく分かった。今日は職業体験で市長の半日を体験したのだろうと思えば…………どこの世界に空中でシャゲダンかましてゲロぶちまける市長がいるかよ!
「明日はもう少し楽な訓練からやりましょうか。アンタが思ってた以上にポンコツだったから、出発ももう少し無理そうだしね」
「ぽん……悪かったな。でもいいのか? お前……早く出発する事に随分こだわってた様に見えたけど……」
僕の問いにミラは押し黙ってしまった。そしてまた僕の頭を撫で……ああ、すぐにやめないで。もうちょっと撫でても……はっ⁉︎ ち、違うんです!
「…………そうね。本当は早く出発したい。アイツを、ゴートマンを放ってはおけない。アイツの注意を出来る限り私に向けさせたい……んだけど……」
「注意を……? 敵わないかもって言っときながら、それはどういう……」
僕からすればそれは率直な疑問だったのだが、ミラはそれに答えるのを躊躇した。しばらくの間を開けてからようやく出てきたのは、重苦しい答えだった。
「……っ。私に目が向いてるうちは、他の魔術師に手を出す余裕もないでしょ。さっさと追いついて、他の術師に気を向ける暇を与えないってのが最初考えた理想。でも……こんな状態なのがバレてる以上、もう手遅れでしょうね」
辛そうに絞り出したのがよく分かる。痺れも殆ど抜けて敏感になった首筋で、ミラの体が震えているのを感知したからだった。嫌な事を言わせてしまった。と、謝ろうとすると、彼女はまたその小さな手を僕の頭に伸ばす。
「追いつけない以上、私達が取るべき行動は被害を最小限に抑える事。業腹だけど、今無理に動いても簡単にあしらわれて余計に傷が広がるだけだものね。今日出発なんて言ったけど、それが不可能な事も分かってた。そう出来れば、ってだけの話よ」
「……そっか」
それはきっと嘘だろう。多分、彼女は本当に今日ここを出る予定だったんだ。秘策とやらも、僕に強化をかけて運ばせるなんてものじゃない、何か他に準備があった筈だ。ただ……ただ僕が予想以上にポンコツで、逃げる事もままならなさそうだからと期限を伸ばしたのだろう。言葉通り、傷を広げぬよう万全の状態で確実にあの男を倒すために。
それから少ししてオックスは帰ってきた。遅めの昼食だろうか、早めの夕食だろうか。ともかく僕らは彼の買ってきたピザソースとチーズのかかったポテトのサンドウィッチを食べて眠りについた。いえ……僕は食べてません、流石に無理、吐いちゃう。グレープフルーツみたいな酸っぱい果物をひとつ食べて終わり。流石に今日はヘトヘトだ。瞼を閉じると、まるで瞬間接着剤でも仕込んであったかの様に開かなくなってしまった。




