第百二十二話
「行くわよアギトっ! 歯ぁ食い縛んなさいっ‼︎」
まだ朝日の眩しい街中で、小さな木の杖を振って物騒な事を言っているのはうちの妹。およそ魔術的な動きでは無い、杖を力任せにブンブン振り回す姿は、もうまたたび嗅いでしまった猫が猫じゃらしを咥えて暴れ狂っているが如く。などと、呑気なことを言っている暇も無さそうだ。
「ちょっ⁉︎ ちょっと待て、まだ心の準備が——」
「——揺蕩う雷霆っ‼︎」
はて、何があっただろうか。何が……何を…………どこで間違えた……?
朝が来るまで僕は何度も目を覚ました。と言うよりは、眠っているのか起きているのか分からない、二度寝寸前のふわふわした感覚で夜を過ごした。一日中眠るくらい訳はないと思っていたのだが、若い体のバイタリティではそうもいかない様で。結局ミラが起きるその時まで、目を瞑り続けていた。
「……んん……んんーっ。ん……ぐぅ……」
「寝るなー。起きたなら寝るんじゃありません。こら、起きなさいって」
もぞもぞ動き始めたかと思えば手を前に突き出して伸びをした少女が、すぐに二度寝の構えをとったので慌てて声をかける。おかしい。かつて、僕はこいつのモーニングコールで起きていた筈だが……
「ん……おきた……おきたわよ…………おき……ぐぅ」
「起きてー。ミラちゃーん。おーきーてー。起きなさい」
ラチがあかない。なんだか毎朝やっている気がするこんなやりとりも、今朝は都合が悪い。いや、むしろ都合が良いのか? 今日は早くから出発して、あの男を——ゴートマンを追うのだ。だから、本当は今すぐに起きないといけないのだが……僕としては、少しでも二人に休んで欲しい。疲れがあるならいっそ今日一日ぐっすり過ごして貰う方が……なんて考えていると、よじよじと身を乗り出して肩口から顔を覗かせたミラと目があった。
「……アンタ……臭うわね……」
「臭ッ‼︎」
僕の心と優しさは死んだ。こいつにはもう一切の情けはかけない。そう誓った、まだ加齢臭のしない筈の方の僕は力尽くでその小さな無礼者を引き剥がした。
「…………お風呂入りたいわ……お風呂……おふろ…………」
こくりこくりと船を漕ぎながら頑張って睡魔と戦うミラを他所に、僕は急いでシャツを着替える。彼女の言う通り、風呂には入りたい。あっつい湯船に浸かって足を伸ばしたい。出来れば風呂上がりにコーヒー牛乳があると良い。そんな叶いもしない夢を見ていると部屋のドアが開いた。
「おはようっス。あれ、まだ寝てたっスか?」
「おはよう。さっき起きたとこだ、コイツ以外は」
顔を見せたのはオックスだった。若さの力だろうか、医学の力だろうか。すっかり顔色も良くなった少年は、まだひょこひょこと脇腹を気にしながら、それでもなんの苦もなく歩いてみせる。
「おっくす……? おっくすが…………うん……おきた……おきたから…………ぐぅ」
「起きてないっス。それは起きてないんスよ、ミラさん」
僕なんかよりよっぽどしっかりはっきりミラを注意する歳下の少年に少しだけ……いや、そこそこの劣等感を感じる。そうなんだ……厳しくしないといけないのは分かってるんだが……つい甘やかしてしまって……
「……そうだ。おーいミラ、そういえばまだ聞いてないぞ。今日出発するにしても、どうやって行くんだ? 秘策がある風だったけど? おーい、起きてー」
明日のお楽しみとはぐらかされてしまった移動手段について、結局僕は想像がつかなかった。車椅子くらいもう少し大きな街に行けばありそうなものだが、その車椅子を手に入れるまでの道のりに車椅子が欲しいジレンマ。義足を作ったくらいだから、材料と設備さえあればコイツなら作ってのけるのだろうか? とも考えたが、この街には粘土や石は多くあれど鉄の類がそう多くない様に見える。もっとも、それはガラガダやボルツと比べての話だが。
「……ん……んんーーっ。アギトー、タオルとって。濡れたタオル」
はいはい。と、綺麗に畳まれたタオルを金だらいの冷たい水で湿らせてミラに手渡す。居酒屋のおっさんよろしく顔を拭き始める姿につい笑ってしまいそうになったが、よくよく考えると蛇口をひねれば綺麗な水が出ると言うわけでは無い此処で、顔を洗う手段はこんなものくらいだろう。
「…………さて、じゃあ場所を移しましょうか。アギト」
「はいはい」
もう何の躊躇もなく手を伸ばすミラを抱きかかえて僕らは病院を後にした。出来れば広くて障害物の無い、柔らかい草地なんかあると良い。と、彼女は僕らに無理難題を課す。こんな街中にそんなものがあるか。草は生えていないし障害物も無いわけではないが、とりあえず広場は見つかった。
「しょうがない……此処で我慢しましょう」
空き地だろうか、公園だろうか。ともかく広場の中央で今度はオックスに支えてくれと言い出すミラになんだか嫌な予感が……とか考えている側から……
「それ……杖か?」
「ふふーん。いいでしょ、クリフィアで一本くすねておいたのよ」
なんてやつだ。悪ガキすぎる発言には一度目を瞑って、僕はそれで何をするのかと問うべきだった。さっさと問うべきだったんだ。事件が起きる前に。
「オックス、私の側から離れない様に。アギトは……頑張んなさい」
「頑張れって……一体何を……?」
ミラはいつかぶりに天に向かってお祈りを捧げた。そして指揮棒みたいな杖をブンブン振り回して、目を爛々と輝かせる。ちょっと……? 一体何を……?
「行くわよアギトっ! 歯ぁ食い縛んなさいっ‼︎」
歯を、食いしばれと言ったか。と言うことは……あれか? 僕は今から……殺られるのかっ⁉︎
「ちょっ⁉︎ ちょっと待て、まだ心の準備が——」
「——揺蕩う雷霆っ‼︎」
それはあまりにも聞き慣れすぎた言霊だった。僕が一体何をした。日頃から何か、口には出さずに溜め込んでいたのだろうか。言ってくれれば直すから、謝るから初手暴力は勘弁して。と、目を瞑って走馬灯みたいな懺悔を頭の中で繰り返す。体が痺れて感覚が薄らいでいく。びりびりと……じりじりと……はて? 随分長い間痺れるのだな、魔術込みの一撃は。かつておぶられて魔獣の住処を脱出した時の事を思い出させる様な、長く長く続く体の痺れに、僕は自分の体が無事なことに気がついた。
「何やってんの。目なんて瞑って」
「……あれ……?」
手が、足が、全身が痺れているのは確かだ。だが……なんだろうか、この……? いまいち感覚の戻らない体に首を傾げてミラの方を見ると、随分としたり顔でオックスにもたれかかっていた。モヤモヤするのは……あれだ。妹が彼氏を連れてきた様な感覚がしてだな。
「わかんない? 自分の体の変化だもの、わかるわよね。今、私はアンタに、アンタの体に強化魔術を掛けたわ。いつも見てたんだから、どういうものかなんて説明する必要無いわよね」
「強化魔術……って。あれって他人にも掛けられたのか⁉︎」
そうよ! 魔具と原理は似たよなもんね! と、随分嬉しそうに説明する少女に、じゃあ最初からそれ掛けてくれよ。僕ももうちょっと戦えたはずじゃないか。とは言わないでおいた。きっと彼女なりの配慮なのだろう。
「……でも、そっか。これで俺も……っ!」
僕もこれで戦える。彼女の様に、憧れ続けたその背中に近付ける。ぴょんとその場で跳ねると、体はバチバチと火花をあげながら高く舞った。視界が一気に広がる。街の全貌ももう少し思い切って跳べば見えるんじゃないかと思った。着地は……痺れた足で思い切り踏みしめるのだからとても痛かったが。
「じゃあこっちまで来て…………歩いてよ! 歩いてこっちまで来なさい」
「……? おう……?」
ついはしゃぎすぎただろうか。痺れる足を押さえていると、ミラが心配そうに眉をひそめながらそう言った。歩いて。と、随分念を押されたがそれは一体————
「——ッ⁉︎」
世界が回った。いや、まず僕が回ったのだが。大きく一歩生み出そうとした僕の体は……と言うよりも、脚は。言う事を聞かず、てんで明後日の方向に思い切り跳ねた。ソレに釣られる様に、バランスを保とうとしたもう一方の足が、強く——強過ぎる力で地面を蹴った。その結果、僕の体はよく分からないバグみたいな挙動で宙を舞った。まずこれが一回目の回転だ。次に、僕ではなく世界の方が回り始めた。
「……っててて…………っ? なん〜〜〜〜〜〜〜ッ⁉︎ うぐっ‼︎」
そうか、これがミラの味わっている世界か。僕は何も食べていないアピールをする胃から、苦酸っぱい液体を吐き散らした。世界が定まらない。回るイスに嬉しくなって、座ったまま思い切り回り続けた後の比にならないくらい目を回してしまった。出力に人間の体が耐えられないと言っていたのはこういうことか。僕とミラとでは慣れや鍛え方の差もある。僕にはたった一歩歩くことすら困難なのだ。
「アギト! 大丈夫⁈ アギト⁉︎」
心配して駆けつける二人には申し訳無いが……もしこれが秘策だと言うのなら。
「…………ミラ。悪いがこの案は……却下うおええええ」
死んでしまう。本当に死んでしまう。僕が満足に動ける様になったのは、それから一時間経った後のことだった。




