第百二十一話
病院を出てすぐの所からミラの病室まで走って、大体四十秒。途中お医者さんに注意されることも無く、僕はありえないくらい息を切らして部屋の中へ飛び込んだ。
「アギト……? どうしたの、もう買ってきたの?」
「これ……っ! げほっ……アイツが……ゴートマンが……っ‼︎」
そう言って差し出した手紙に、ミラは表情を険しくした。完全に見下されていると思っていい。あの男は僕らなどいつでも殺せると、容易い相手だと見逃してこれを渡しにだけやって来た。そうミラに伝えようと必死で口を動かすのだが、どうにもこうにもあったもんじゃ無い。混乱と憤慨とでとても平静でいられない。
「落ち着きなさい、とりあえず。早くこっちへ」
早くこの手紙の中を。急いでミラのそばまで寄って手紙の封に指をかけた。その時だった。
「落ち着きなさいっての! 一回それ置いて!」
「置いてって……落ち着けるかよ! アイツ……俺達の居場所も状態も分かってて……」
忌々しい。と、手紙の封蝋を睨みつける。まるで眼の様な……そうだ、あの竜や蛇の魔女の瞳の様な縦長の鋭い楕円が刻まれた封に、恐怖と不安と、それを振り払う為に必死で沸かせた怒りがこみ上げる。そんな僕の手を引いて、ミラは……
「……ちょっ……おい、ミラ。どうし——」
「——バカアギトっ! なんで私を呼ばなかったのよ‼︎ アンタ……今度こそ死んじゃうかもしれなかったのよ‼︎ 今度こそ……っ!」
ぐいとさっきまでとは少しだけ違う、力のこもった手に引かれた僕は、その小さな手に頬を叩かれた。見れば瞳を潤ませて、眉を顰める少女の顔があった。結局のところ、そういう事だ。こいつは確かに自分の死に対して恐怖を感じていたが、やはりそれは別として僕の心配もきちんとする様になっている。その選択肢は僕が自ら取りやめにしたものであったから、つい頭から抜けていた。この小さな少女はきっと、大声で助けを呼べば動かぬ体も無理矢理動かして駆け付けたのだろう。
「……それは……うん、ごめん。心配かけた」
「バカ……ほんとバカ……」
ああ、また……またそうやって……と、うんざりするわけでは無い。何度目かも分からないが、ミラはまた僕に抱きついてメソメソと泣き出した。心配して貰えるのは嬉しいのだが……お兄ちゃんは僕だからな? なんだか無鉄砲な弟を心配するお姉ちゃんみたいになってるけど、お兄ちゃんだからな! 僕が!
「ほら……もう。悪かったって。よしよし」
「んーっ! よしよしじゃない! もうっ!」
口では嫌がりながらもしっかり頭を撫でられ続けるミラに、はていつになったら本題に入って貰えます? などと言うわけにもいかない。別にいいのだ。可愛いから、愛らしいから、妹だからいくらでも撫でてはやるのだが。それどころじゃない案件が今は手元にあるのだ。
「……ぐす。ほら、手紙開けなさい。あ、念のため一回視ときましょうか」
「見る? 見る為にも開けるのが先だろう?」
まるでとんちのような問答になってしまっただろうか。僕が今度こそと封蝋に爪を立てると、ミラはそれを遮るように手紙をひったくった。そして穴でも開けるつもりなのかと思うくらい入念にそれを見つめて、結局何事も無かったように僕の元へと返す。
「……ん、大丈夫そうね。魔力痕は見られ無いし、特に細工もなさそうね」
「ああ、そっか。アイツ、錬金術師なんだっけ」
術師なんて呼ばないで。と、睨まれてしまった。あの男は自らを錬金術使いと呼んでいたし、彼女もあの男を錬金術師と呼ぶのを嫌がっている。一体なんの違いがあるのだろうか。当事者にしか分からない、何か術師の間での決まり事の様な、暗黙の了解というか……拘りがあるのだろう。ふんと鼻を鳴らすミラをあやしながら、僕はようやく手紙を開いた。
「ええと、なになに……拝啓、アーヴィンの小さな魔術師殿へ。この度は……」
『この度はご案内の連絡を差し上げたく、こうして手紙という形をとらせて頂いております。さて、これからの季節は少しずつではあるものの涼しくもなり、一層過ごしやすくなることでしょう。そこで私共魔人の集いとしましては、高名なる術師殿に納涼の催し物を堪能して頂きたく——』
なんだ……これは……? 読み上げていて頭が痛くなってくる。ミラもいつこの手紙を斬りつけようかと言わん鋭い目つきで見ていたのが、今はなんだか困惑に困惑を重ねてもう点になった眼で首を傾げている。ええい、本題はなんだ。納涼? 納涼ってなんだよ、こっちにもそんな文化あんのかよ。っていうか魔人の集いとか、さらっと新しい単語も出てきてるって言うのに……ああもう! 掴み所が無いくせにツッコミどころが多すぎる! なんだ、本当にただの残暑見舞いかこれは! 良いハムを寄越せ、お歳暮に!
「ちょ、ちょっと貸しなさい……えっと、拝啓……この度はご案内の……うわ、本当に書いてある。何考えてんのよアイツ……」
「おい、お前もしかして僕がふざけてるとか思ってたのか? 失礼なやっちゃな。いくらなんでもこんな時にふざける奴なんているかよ、あの羊男以外に」
眉間にしわを寄せながら、何度も頭を抱えながらミラは手紙を読み終えた。書いてあったことは単純明快。季節の挨拶のようなものから始まり……
「……私の魔獣は現在手元に一頭のみ。ですがこれは先の魔竜の比ではなく、またビビアン嬢のように優れた知性を兼ねた現時点での最高傑作です……ですって」
「…………現時点で貴女にコレを打倒する手段はありません。不意打ち、闇討ち、遠距離からの魔術による狙撃。コレはありとあらゆる敵意を跳ね返す私の頼もしい盾でもあるのです……とはな」
これは……どういうことだ。本当にどうした事だ。あの男は一体何を考えている。企みがあってコレを渡したのだろう。だが、その中に書いてあったのは現時点でのあの男の戦力と、それとミラが戦った場合の予測。それから謎の単語、魔人の集い。納涼の催しというのはどこにも詳細が記されていない。もしかしたら旅の途中に襲い掛かるつもりで、それを覚悟してビクビクしながら進んでこいと言いたいのだろうか。
「……もしコレがハッタリだとして。もし、今アイツに戦う力が無いとして、私達はその確率にかけて追うべきか否か。もしコレが真実で、その確率を恐れて一度足を止めるべきか否か」
ミラは深く考え込んでいる様子だった。無理もない。そもそもこの手紙の意図も意味も全く分からない。そして何より、信じられるものでは無い。ここは当初の予定通り進むべきだろう、とも言い切れない。なにせ、相手はこちらの事を把握している。迂闊なことは出来ない。慎重に……やはり一度しっかり休んで……
「……変更は無いわ。予定通り明日、明朝には出発する。怪我はあるけど……魔力に問題が無い以上、あの男を討てるかもしれないこの機会を逃す手は無いわ。この手紙は一度忘れましょう。ああ……頭が痛くなってきた……」
「…………おう」
彼女がそう決めたのなら止めるまい。いや、本当は止めるべきだ。それは分かっている。だが、彼女の言い分にも理がある。この手紙が苦肉の策で、戦える状態で無いのが向こうも同じで、ブラフでこの窮地をやり過ごそうとしているのかもしれない。もしそうなら、この機を逃して、それこそ手紙に書いてある様な特注の魔獣が間に合って仕舞えば本当に勝ち目が無くなってしまう。
「……ごめん、魔弾の補充はもう少しだけ待って。今はそれに割く魔力すら惜しいわ」
「分かってる。結局使いこなせてないしな。もっと精進するから、今度こそ」
ミラは手紙を魔術では無く、棚の上にあったランタンで焼いた。男からの手紙など無かった。と、念を押す様に僕に言ってミラはまたシーツに包まる。ご飯は? と、こんな状況で聞くのは野暮だろう。早くこいと言わんばかりに手を伸ばして催促してくる姿は、どうにも頼りない、不安そうな顔色だ。しょうがない……しょうがない奴だ……
「……いい? オックスには手紙のこと、それからアイツが病院にまで来た事は伏せておいて。それで怖気付いて逃げてくれる様な性格じゃないのはガラガダの時に知ってるし、変に不安を煽るくらいなら黙っている方がいい」
「わかった。ていうか……やっぱりお前も付いて来ると思うか。多分付いて来るよなあ……いや、付いて来て欲しいんだけどさ」
願望半分、予想半分に僕はそう言った。ミラも笑って、黙って夜中に出発出来る状態なら良かったんだけどね。と言った。それもきっと僕と同じ、楽しいから一緒に来て欲しいというのと、心配だからゲンさんの元へ帰らせたいというのが半分ずつなのだろう。男の真意も分からぬ今、オックスを危険に巻き込みたくないのも本音だが、オックスの手を借りなければならないというのもまた真実なのだ。困った事に。
「……じゃ、おやすみ…………って思ってたんだけど。流石に眠れないわよね」
「別にいいよ、ゆっくり休め。俺も昨日あんまり眠れ無かったから丁度いい」
申し訳なさそうにミラはそう言って、緩めていた腕をしっかり僕の肩から回して抱きつき直した。全然眠れる気はしないのだが、ミラには休んで欲しい。休むのに必要ならいくらでも枕になりたいと僕は背中を貸す。それにしても……うん。やはりこの暖かさが落ち着く。すぐに寝息を立て始めたミラの手を撫でて、僕も瞼を閉じた。




