第百二十話
優しい匂いがした。ああ、これは夢だ。遠く彼方まで広がる真っ白な世界に、私はそれを確信する。
「——ミラ————」
優しい声がした。ああ……これは悪夢だ。振り返った先、遠くに小さく見える栗毛の少女の姿にそれを覚悟する。
「……お姉ちゃん……っ」
私の意思とは無関係に、私はそれに向かって歩き始めた。その姿を、あの人の姿を忘れてしまわぬ様にと焦がれ求める。
「——お姉ちゃんっ! 待って……待ってっ‼︎」
背中を向けてどこか遠くへ行ってしまうそれに、情けない声を上げながら置いて行かれまいと懸命に走った。ああ……間違いない。これは悪夢だ。あの人は……あの人は私が……
「お姉ちゃん!」
優しい、懐かしい匂いがした。ようやく追いついてあの人に抱き着いた私は、私が望んだ姿なのだろうか。猫撫で声で、あの人の裾を掴んで甘える姿を、私は遠くから見ているだけだった。
「えへへ……お姉ちゃん」
あの人は……いいや、あれは誰だ。あの人ではない。あの人はもういない。あの人を思い浮かべる事は——もう私には————
「——っ⁉︎ おねえ……ちゃん……?」
突然、私は首を絞められた。振り向きざまにその小さな両手を私の喉にかけ、ギリギリと万力のように絞め始めたあれは————私だった。忌々しい、栗毛の少女。あの人の未来を食い取った呪われし子。私は……私に首を絞め上げられているのか。
「……お……ねえ……——っ」
私はぐったりと腕を垂らして動かなくなった。ああ……ああ、ああ! 違う……違う……違うのだ……っ! そんなつもりじゃなかった。そんな……そんな大ごとを望む筈では無かった。私は——
「……お姉ちゃん……」
私の手の中で手折られたのは、あの人の首だった。これは悪夢だ。あの時の再現だ。分かっている。分かっているんだ。だから私は——
「————ミ……ラ…………——」
「…………アギト……?」
身体が跳ねた。最後に見た光景を、彼の首に手をかける夢を振り払う様に私は目を見開いた。じっとりと嫌な汗をかいているのが分かる。緊張し続けたからだろうか、身体がこわばって折れた足がシクシクと痛む。だが、その痛みで私はようやく悪夢から解放されたのだった。
「はっ……はっ…………はぁ……はぁ…………っ」
優しい匂いがした。私はこれから、どれだけこの背中を欺き続けるのだろう。これから何度甘えた声で彼の名を呼ぶのだろう。優しい、甘い夢と分かっているのならいっそ……
「………………アギト……っ」
許しを求める様に、私は彼の背中にしがみついて名前を呼んだ。優しい、懐かしい匂いがした。私は一体いつまで——
不意に目が覚めた。外は……もうそろそろ夕暮れだろうか。いつもより少しだけ高い体温を背中に感じる。息苦しそうな感じも見られない。抱き着いている手で脈を測っても異常は無い。体調が悪いなんて事はなさそうだ。まだ夢の中だろうか。楽しい夢を見ているだろうか。やる事も出来る事もなく僕はくだらない事を真剣に考える。果たしてどんな夢を見ているだろうか。
「……夜……眠れないよなぁ、絶対……」
起こせる範囲で首を起こして辺りを確認すると、新しいタオルやシーツの替えが綺麗に畳まれて積んであるのが見えた。つまり、つまりだ。つまり……この姿もまた、看護婦さんに見られてしまったという事だ。殺してくれ!
「どうしてこんな目に……お前のせいだぞ、こいつめ」
自分の肩越しに背中にいる少女の額をつつく。うんともすんとも言わず、嫌がるそぶりも見せずミラは眠りこけていた。
「……っ」
悪い考えが過ぎる。ミラの事、ミラ=ハークス=レヴと名乗ったあの時の少女の事。彼女は一体なんなのだろう。一人になってしまって、僕は余計な事ばかりを考え始める。彼女はそれを自覚していない。自身を兵器と呼んだあの少女の事を、僕しか知らないあの姿を。
「神官様は知ってるのかな……」
いつか睨み合ったアーヴィンの偉い人の顔が思い浮かんだ。隣に地母神様の姿も浮かんでくる。地母神様……美人だったなぁ……ではなくて。地母神様についても疑問は尽きない。まだ二十歳になったかどうかというくらいにしても、その行動や仕草はあまりに子供っぽすぎる。ミラの幼さとは違う、本当に無知で無垢な幼子の様な振る舞いを思い返す。だが、そのギャップもいい。ではなくて。
「…………スタイルも良かったよなぁ……」
無意識に溢れた言葉に、僕は慌てて口を両手で塞ぐ。地母神様相手にやましい事を考えれば、間違いなくミラの鉄拳が飛んでくる。まだ……よし、寝てるな! セーフセーフ! ではなくて。
「……ミラと……地母神様か……」
いつか街の錬金術師に聞いた話だ。何かある、何か……因縁があると氏は言っていた。もしかしたら、地母神様もハークスと関係しているのだろうか。今までに得てきた突飛な情報が飛び交って、イマイチ整理しきれない。ええとなんだっけ? 地母神様はボンキュッボンでミラが幼児体型だから、それを妬んでるんだっけ? いいじゃないか、ぺったんこでも。僕は助かってるぞ。もし今背中に貼り付いてるのが地母神様だったら……いかんいかん、何を考えておるのだリトルアギトよ。ではなくて!
「……んん……アギト……?」
「おっっっっぅうう⁉︎ お、おはよう⁉︎」
急にかけられる呼び声に、僕は急いで体を丸めた。だが、くっ付いているのだから当然、それに引きずられてミラの体も丸くなる。なんだかそれが無性に面白くて、寝ぼけたままのミラを置いてけぼりにして一人笑いをこらえていた。
「…………?」
「いや……なんでもない。ぷふっ……」
何がそんなに面白いかと言われると……よく分からない。ただ僕の動きに合わせて一緒に動いている間抜け面が面白かったのかもしれない。それは今はよくて。起きたのならそろそろご飯にしよう。魔力が満タンだと言っても、どうせ腹ペコ属性は変わらんのだろう。オックスの分も合わせて、何か買ってこよう。
「……んんー……いたたた……変な姿勢で寝てたから身体が凝っちゃって……」
「俺は毎晩だよ!」
なんで? と、伸びをしながらとぼけた顔で覗き込んでくる少女を見て、やっぱりぺったんこで良かったと認識を強めた。まだ夢の世界と現実を行ったり来たりしてそうな呆けた顔をひとしきり撫で回して、僕は病室を出た。後ろ髪は凄い勢いで引かれたが、心を鬼にして。彼女の為、二人の為。あと、僕も腹は減っているからと、それを振り払ってまた街へ出た。しかし何を買おうか。ピザとかパスタとか食べたいけど……テイクアウトやってなさそうだしなあ。
「あのう……もし。よろしいですか?」
病院を出ると、背後から声をかけられた。ドアのところで誰か出てくるのを待っていたのだろうか。返事をして僕はゆっくりと振り返った。
「……っ! お前!」
「お元気そうで何よりですぅ……ええ、本当に。本当に遺憾な事です」
咄嗟に背中に手を伸ばした。だが、ポーチは病室に忘れてきていた。このザマでよく警戒はしてるなんてミラに言えたものだ。最悪だ。この状況は最悪過ぎる。ミラが警戒して、無理をしてでも早く出発しようと言った原因——
「——ゴートマン……っ!」
「覚えて頂いていて光栄です。ええ、ええ。心よりの感謝を」
帽子を深く被り、僕を見下ろしているこの男こそ……これから追いかけて奇襲をかけようと計っていた、魔獣を操る男。明確に悪として認識した最初の敵。
「……ですが、その態度は頂けませんねぇ。何も取って食おうと言うわけではありませんよ、ええ。いえ、食わせてしまう予定ではあるのですが……」
まずい——っ! 今魔獣を呼ばれでもしたら街にも被害が出る。そもそも魔獣無しのこの男に——僕よりも体格で勝り、錬金術をも修めているこの男に、僕は太刀打ち出来るのか? まずいまずい……どうする。叫んでミラにこの事を伝えるか? ダメだ……アイツはとても戦える状態じゃない。オックスだってそうだ。いや——この街がそうなんだ。冒険者の殆どはあのクエストに赴いていた。この街には今、戦える人間がいない——っ!
「……いえ、いえいえ。そう警戒なさらず。本日はご挨拶に伺ったまで。何卒、その心の刃をしまって頂きたく、ええ」
「挨拶……?」
両手をひらひらと上げて、男は笑ってそう言った。そしてその手を頭の上で叩くと、手品のように封筒が……既に封蝋のされた手紙が現れた。
「では、これをあの少女に。私はこれで。ご機嫌よう、名も知らぬ勇敢な少年」
それだけを地面に置いて、男は本当に立ち去ってしまった。姿が見えなくなるまでその背中を睨み続け、そして僕は手紙を拾って急いでミラの元へと走った。




