第百十九話
目が醒める感覚に、自分が眠っていた事を自覚した。こんな朝っぱらから眠れるわけない、なんて思っていたのだが……やはり疲れが溜まっていたのだろうか。息をする度に腕の中で小さく上下するオレンジ色の頭を撫でて、時間を確かめようと僕は時計を探しに目を部屋の方へと向けた。
「…………こ、これは……違うんです……」
「ふふ、仲良いんですね」
見れば看護婦さんがカーテンを取り替えていた。他にも水の入ったタライとタオルを新しくしてくれていたり……とかは別にどうでもいい。どうでもはよくない、ありがとうございます。ではなくて。
「い、妹がお世話になってます……」
顔から火が出そうだ。これからもう一晩は厄介になりそうだと言うのに、どんな顔していればいいんだ。ふふふと笑って、看護婦さんは片付けたカーテンやらシーツやらを持ってそそくさと退散してしまった。ち、違うんです!
「誰が妹よ、誰が」
「っおおぉうッ⁉︎ お、おま……お前起きて……っ⁉︎」
寝ぼけ眼ではない、クリクリとした大きな目を向けるミラの姿がすぐそばにあった。これはアレか……? 看護婦さんには、このちっちゃいのを抱きしめて熟睡している間抜けな兄に見えていたのか? それも妹の方はとっくに起きていて……まったく困ったお兄ちゃんね、みたいなそんな感想を……っ!
「起きたなら丁度いいわ。オックスのとこまで連れてってくれない?」
「……オックスの?」
余計な事を考えていた事もあり、ミラの意外な言葉に対する反応が遅れる。連れて行くって言っても……車椅子もないし……
「オックスを呼んでくるんじゃダメか?」
「だーめ。いいから早く」
そう言ってミラは急かすように僕を布団から追い出した。自分で引き摺り込んでおいて……と、文句の一つでも言いたかったが、両手を伸ばす甘えた様な姿を見たらそんな気も失せた。
「あざとくなったなぁ、お前も……」
「あざ……っ⁉︎ それどういう意味よ‼︎」
はいはい可愛い可愛い。お兄ちゃんはね、妹を可愛がるもんなんだよ。それはそれとして、やはり足がうまく動かせないというのは難儀なもので、おぶる事も出来ないし、抱きかかえるにしてもあまり股関節に負担をかけられないし。持ち運ぶ手段はこれしかないか……
「じゃあ持ち上げるぞ。痛かったら言えよ」
「ん、わかった……こ、こら! どこ触ってっ‼︎」
ち、違うやい! ギプスが! ギプスが邪魔でうまく持ち上がんないんだ! いわゆるお姫様抱っこで軽い体を持ち上げて、僕はオックスの病室に向かう。軽い割りに暴れたりギプスが滑ったりで意外と……こら、暴れると落っことすって。
「オックスー、起きてるかー?」
ミラにノブを捻らせて、僕らは本なんて読んでいたオックスの部屋にやってきた。似合わんぞー、お前に本なんて。とかからかう間も無く、訝しげな顔で、どういう見世物っスか……? と言われてしまった。見世物ちゃうやい!
「オックス、調子はどう?」
「ぼちぼちっス。派手に血を流したからまだふらつくっスけど、骨とか神経には異常は無いって。体力さえ戻ればもう万全っスよ」
僕もミラも、その言葉にホッと胸をなでおろす。彼については半ば無理矢理連れてきた様な所があるので、大怪我をさせてしまった事に申し訳無さを感じざるを得ない。あの時、ゲンさんのところへ帰っていればこんな目には……と、つい考えてしまう。
「……オックス。調子が出ないと言うんなら、今度は無理強いしないわ。今からでもご老人のところへ……」
「何言ってんスか、ここまで来て。帰れなんて言われたってついていきますよ」
無邪気に笑って、オックスは言った。多少恨んでくれても良いんだが……彼には毒気というものが無いんだろうか。だが、ミラは浮かない表情でその事実を告げるのだろう。この旅が、もう王都を目指す物見遊山では無くなってしまった事を。
「…………聞いて、オックス。私達はまたあの男に襲われる可能性が高い。より正確に言えば、私が、ね。もしそうなれば……次もこうして三人揃って帰って来られるとも限らない」
襟元を引っ張られて、僕は近くにあった椅子にミラを座らせる……のは無理そうだったので、僕が座って後ろから抱きかかえる様にミラを膝の上に乗せた。ミラは不服そうに僕の方を振り返って睨んだ後、またオックスの方を向き直してそう話を切り出す。オックスも、もう今の姿をからかうでもなく真剣に耳を傾けていた。
「あの魔竜と同じくらい……いえ、もっと強力な魔獣を引き連れて。もしかしたら、蛇の魔女みたいな魔獣の枠を超えた個体かもしれない。とにかく、今の私じゃ太刀打ち出来ない様な危険な敵として、あのゴートマンとかいう男はまた現れる。だから……」
私達は先手を打ってあの男を追いかけ、奇襲をかける。ミラはそう言って黙り込んだ。オックスも最初は突飛な事と目を丸くしていたが、次第に目を伏せて考え始める。オックスとは一緒に旅をしたい。だが彼に危険な目に遭って貰いたくない。僕もミラもその点は共通の認識でいる。
「…………先手を打つ、ってのはわかったんスけど……一体どうするんスか? 鉢合わせちゃった時点で、アイツの側に魔獣がいたらもう……」
「それは……」
出し掛けた言葉を飲み込んで、ミラは一度顔を伏せてからはっきりとその作戦を口にする。
「私が目視出来る限界の遠距離から、逃げる事も耐える事も出来ない特大魔術の一撃で灼き殺す。早い話が闇討ちね」
「「…………ひぇええ……」」
多分、オックスも同じなのだろう。背筋が凍りつく思いだ。なによその反応! と、ミラは憤慨したが……ええ……? 言ってることがおっかなさ過ぎる。だが……直接やり合うよりはずっといい。いいのだが……
「街中にいたらどうするんだ? というか、人一人なんて見つけられるのか? てかそもそも言ってることが物騒過ぎるよ……」
「う……まあ、シチュエーションに応じてやり方は工夫するから……大丈夫よ、多分」
その作戦には穴が多過ぎる。多過ぎるっていうか……小さな一点の成功以外は全部穴っていうか……。ともかく一度頭を冷やさせないと……
「言っとくけど、他に選択肢は無いわ。現状、私達があの男に対して有利に立ち回る手段は無い。大した事ない魔獣しか連れていなかった……なんて、敵任せのラッキー以外に戦闘での勝機は無い。不意打ちでもなんでも、手持ちの魔獣を灼いてしまえなければ、どうあってもね」
「……そう……だろうけどさぁ」
あの魔竜単体で、ミラも全快だったのなら勝負はどうなっていただろう。そう考えなくも無い。だが、ミラが言っているのはそういうことでは無いのだろう。あの男には何があるか分からない。少なくとも、山にいた三頭の魔獣に何か細工をしていたのは間違いないのだ。もしかしたら、まだとっておきのバケモノを控えさせているのかも……と、そう考えれば彼女の警戒は過剰と言い切れないものだろう。
「だから……オックス。私達は明日には出発する。その体で……っ。その体は、こんな無謀で馬鹿げた旅の為に投げ打って良いものじゃない。だから……よく考えておいて」
「……っス……」
二人共、最後の最後で歯切れが悪い。当然だ。ミラとしては一人でも多く戦力が欲しい。反面、大怪我をしているオックスに無理をさせたくない、自分のわがままで彼を巻き込みたくない。オックスもオックスで、自分が足を引っ張るんじゃないかとか、多分自分の心配以上に僕らの心配をしてくれている。と思う。僕は……もうよく分からなくなってきた。二人も同じなのだろうか……?
体に障るといけない。と、僕はミラを持ち上げて、また部屋まで戻ってミラを寝かしつけた。去り際に、約束は果たすっス。と、オックスはなにか決意を秘めた目で僕に告げた。約束——ゲンさんの指導を僕にも教えてくれと頼んだことだろう。ミラはイマイチ分かってない様子だったが……言うとなんだか……かっこ悪いというか…………決意は胸に秘めておいた方がかっこいいっていうか……
「……じゃ、おやすみ。ほら、もっと寄って」
「はいはい……おやすみ」
さっき寝てたじゃないですか。なんて、正午を過ぎたばかりの時計が責めているみたいにも見えた。だが、ミラが寝ると言うなら……僕も寝ざるを得ないのであって。たった一日。たった一日ぶりに背中にミラの体温を感じることが、とても心を落ち着かせて。眠くもない筈の瞼がどんどん重たくなっていった。




