第百十八話
「戻ったぞー。ちゃんと大人しくしてたかー?」
ドアを開けて開口一番、不安を振り払うわけでは無いが少しだけおどけてみせた。見ればまだ真っ白なシーツを被って、大きな餅か饅頭の様な姿のままのミラがベッドの上にいた。
「まだそんなかっこして……ちゃんと寝てないと、骨、変なふうにくっつくぞ」
今はあの事は忘れよう。レヴというのは、ミラの両親が付けた可愛い娘への贈り物だ、と。そう飲み下してしまおう。出来る限り笑って、僕はシーツを引っぺがしてじとっと睨んでくるミラと対面を果たした。
「…………」
「……? おーい?」
それは本当に大怪我をしているのだろうか。思っていたより素早く動いた少女は、また僕に抱き着いてグイグイとベッドの上に引っ張り上げる。
「ちょっとちょっと……ちょっ……とぉ⁉︎ どうしたんだよ、もう」
何も言わずにひしと抱き着いたまま、胸に顔を埋めたままミラは一向に動こうとしなかった。そんなに一人で行動させるのが不安か。確かに、今のミラでは何かあってからすぐに駆けつけると言うわけにもいかないだろうし、あの男もいつまた現れるか分かったもんじゃないが……
「ほんと……心配性だなぁ、お前も。魔弾は切れちゃったけど、魔具はまだナイフがあるんだし、俺だってもう無警戒でのほほんとなんてしてないからさ」
それでもミラは離してくれない。過保護か。その過ぎる優しさを心地よいと感じてしまう自分がいる事もまた事実ではあるが……
「…………撫でて……」
「……はい?」
ようやく言葉を発したと思えば、ミラは一層抱き着く力を強く、もう手放さないと言わんばかりに腕を僕の背中に回した。
「撫でて……って。さっきみたいに……撫でて、って言ってんの」
「さっき……って…………」
今朝の事……いえ、まだお昼には全然ならないんですけど。安堵からずーっと泣いていたミラを、ちょっとでも慰めようと頭とか背中とか撫でてたっけ。子供扱いすると怒るくせに、この甘えん坊め。
「早く!」
「愛情を急かすんじゃない……」
むうと膨れて急かしてくるミラを撫でてやると、いつも通り気持ちよさそうに力を抜いて体重を預けてくる。ふと目頭が熱くなった。理由はわかっている。ああ……僕は大間抜けだ。間抜けすぎる、本当に……
「…………そりゃそうだよな…………」
いつか彼女は、溺れた時にもこんな風に甘えてきた事がある。だからもっと早く、出かける前の段階で気付いてやるべきだったんだ。こいつは僕らの安否を心配していただけじゃない。ただ……当然の事なんだ。自分が死んでしまうかもしれないなんて、そんな恐怖を乗り越えられる様な、鈍い神経をしちゃいなかったんだ。
「ごめんな……お前だって、怖かったんだよな…………」
「……なんでアンタが泣いてんのよ……」
気付けばボロボロと涙が溢れていた。悲しいのではない。寂しいのでもない。これは憤りの涙だ。一体いつになれば僕は自覚する。ミラを守ると言っておきながら、その実彼女の事など見てはいなかったのだ。守って貰えるからと、頼りになるからと。散々自分でも言ってきた事なのに、彼女がまだ小さな女の子であるという事から目を背けていたのは僕じゃないか。
「……ごめん…………ごめんな……」
何度抱き締めただろう。この細くて簡単に壊れてしまいそうな体を、僕はどうして壊れないと思っていた。何度その涙を見ただろう。誰かの為に、初めて会った相手の、それも自分に刃を向けた悪漢の為にも涙を流せる優しい心が、どうして自分の死なんてものを乗り越えられると思ったのだろう。不甲斐なさよりも、自分の視野の狭さに腹が立つ。兆候はアーヴィンにいた頃からあったじゃないか。
嗅ぎ慣れた甘い匂いに、僕の涙はすぐに引いた。ミラは、もしかしたら眠ってしまっただろうか。前にこんな事があった時はぐっすり眠ってしまって、オックスに預けたらすぐに飛び起きたりしたんだっけ。あれは……僕にだけは甘えてもいいと、彼女が自分で弱みを見せる相手を選んだんだろうか。もしそうなら、僕はそれに全力で答えなければいけない。
「……アギト。ありがと、もう大丈夫」
「…………なら手放せよ。大丈夫じゃないんだろ」
顔を上げずに小さく頷いた少女を、僕はまた優しく撫でる。彼女が求めるなら、今日一日中でも慰め続ける。暑苦しいと言われたら……それはまあ離れるけど。今日は何も、不安については考えない様にしよう。さっき自分達で言った事だ。僕らはなんとか、全員生きて帰って来られたのだから。
「アギト。このままでいいから、話聞いて」
さっきまでの猫撫で声とは違う、不意にかけられた真剣な声色に嫌が応にも背筋が伸びる。それが嫌だったのか、ミラは上目遣いに僕を睨んでさっきの姿勢に戻そうと僕の体を引っ張った。
「……ん。結論から、予定から言うと、私達は明日にはこの街を出る。いいえ、出ないといけない」
「明日……って、そんな急に……」
抱き着く腕にまた力が入るのがわかった。何か、彼女は自分にとって嫌なことを思い浮かべながらこの話をしているのだろう。このままでというのは、不安を少しでも取り除きたいという意味なのか。
「……ゴートマン。アイツは間違いなく私を狙ってまたやってくる。昨日まで、私達は顔も知らないあの男を追いかけていた。でも、今は逆。お互い顔を知って、今度はアイツが私達を追いかけてくる番よ」
「お前を狙って……? なんだってそんな……アイツの目的は魔獣の卵を…………どうするんだろう?」
また睨まれてしまった。そういえば、卵を売っている事以外に情報は無く、またその目的も分かっていない。術師が実験ついでに面白半分で卵を売って回っていると言うんでもなさそうだし……
「アイツは……あの外道は、魔術師を食い物にして魔獣を育てようとしている。アレは間違いなく次の……いえ。もっと高位で最低な蛇の魔女を造ろうとしているのよ」
蛇の魔女という単語に背筋が凍る。あの男はそれを作品と呼んだ。彼女はその事について詳しく語ろうとはしないが、恐らくビビアンという名はアレの元となった魔術師の名だろう。
「アレが欲しているのは、卵を孵すに足る魔力を持った人間。術師を探している。あの魔竜から生き延びたとなれば、私達の事を……その中でも、術師である私を追ってくるのは必然でしょう」
「ミラを…………魔獣に…………っ」
あの魔竜も元は……っ。ミラはそれに気付いて、あの時動く筈のない体に鞭を打って男に激昂したのだろう。僕だって頭に来るけど、もっと正義感の強いコイツには、尚更許し難い悪に見えた筈だ。
「でも、逃げ回るわけじゃないわ。私達は私達で、またあの男を追い掛ける。いつ襲われるか分からないのが怖いなら、いつでも襲い掛かれる様にすればいいのよ」
「物騒な発想だな……おい……」
やっと笑顔を見せたミラの頬を撫でる。あの……頬ずりとかやめてください、その気になってしまうんで。彼女の言い分は分かった。だが、肝心の問題がクリア出来ていない。明日出発するとして、僕らはどこへ向かって、そしてどうやって移動する? 言いたくは無いが、ミラはとても動ける状態じゃない。当然、オックスも動かしたくない。何度でも言うが、二人は重症、重体なのだ。
「……ふーん。なるほど、アンタにしては考えてるみたいね」
「俺にしては、ってなんだよ。あと心を読むな」
口に出していただろうか? いや、出してはおるまい。彼女はまるで僕の考えを全て見通しているかの様にそう言って、また僕を引っ張ってベッドに寝かせようとする。
「まあ、それは明日になってからのお楽しみよ。ほら。アンタがちゃんと寝てなさいって言ったんだから、早く早く」
「ああもう……肝心なとこはぐらかしやがって。分かったからあんまり暴れんな」
まったく。と、ため息をついて、嬉しそうにしている少女の頭を撫で回す。はて……なにか……………………
「……ぐぅ……」
「………………ぐぅ?」
ああ、それはまずい。何がまずいかって言うと……
「ちょ……ちょっとお嬢さん⁈ ねえ、お外見て⁉︎ ねえ⁉︎」
まだ一日は始まったばかりだと言うのに、僕は行動権を全て取り上げられてしまった。こんなに早く……真昼間から眠れるわけないだろっ‼︎




