第百十六話
引き剥がそうとすればまた泣き出してしまう困った少女に根負けして、すっかり居座ってどれだけ経っただろうか。懐中時計はゼンマイを巻き直したらまた動いてくれたのだが、どうにも挙動が怪しくもうあてには出来なさそうだ。買ったばっかだったのに!
「……なぁ、ミラさんや。そろそろ俺もお腹が空いたんですけどね」
離れる気配は無い。お腹が空いていないと言えば嘘になるが、我慢出来ない程かと聞かれるとそれも嘘と言わざるをえない。いっそこのままでも悪く無いのでは、なんて考え始めている自分がいる事に少し腹が立った。僕は僕でやる事もある。具体的には路銀集めだ。はっきり言って、この入院は想定外の出費と言える。お腹が空いたなどと言ったものの、朝ごはんを食べるお金なんて一銭も……
「……そうだよ。報酬金! 報告に行かないと!」
「…………っ⁉︎ アンタ受け取ってなかったの⁉︎」
現金な奴め。だが僕もうっかりしていた、猛省しなくては。何の為にあんな危険を犯したと思っている。今日食べるご飯と、今日泊まる宿のお金を稼ぐためだ。幸い……いや、不幸にも昨日は僕一人が素泊まりするだけで良かったから、荷物を担保に後払いで泊めて貰えたものの……と、迂闊なことを口走ってしまった。これは内緒の話だった、てへ。
「荷物って……まさかアンタ……」
「いや、魔具はちゃんと持ってるって。お前が俺の鞄にねじ込んだ、あの気色悪いワームの血の瓶だよ。荷物見せてたら結構食いついてきて……」
僕に抱きついたまま少女は頭突きで胸を攻撃してくる。はっはっは、痛くない痛くない。今日のミラは随分と可愛らしい攻撃をするじゃないかぁ、はぁーっはっは。
「あれは……いえ、まあいいわ。アンタが野宿なんてする方が問題よね」
「え、ちょっと……そんな反応されると、すごい申し訳なくなるんですけど」
ため息ひとつついて、ミラはようやく僕の事を解放した。そして何を思ったか両手を広げて……
「……ん」
「…………ん、じゃないです。何のつもりで?」
察しが悪いわね。と、睨む少女に頭が痛くなってくる。察してはいるんだ。察して……それの意味を理解しているから僕は聞いているのだ、何のつもりだと。
「足がこんなだからおんぶは無理じゃない。だから、ほら」
「そういう事を聞いているんじゃないよ! 抱っこでもおんぶでも、そんな体でどこに連れ出せって言ってんのか、って聞きたいんだけど⁉︎」
はぁー。と、一際大きなため息をして、わざとらしく頭を抱える姿に少しだけイラっとした。こいつ……さっきまで人に泣きついていたくせに、何だその生意気な……
「報酬受け取りついでに街の様子を見に行きましょう。私のとっておきももう無いし、魔弾の補充もしたいし。買い物も情報収集も、やることはいっくらでもあるんだから」
ああ……頭が痛くなってくる。そういうやつだった、そうだった。自分の体の事を蔑ろにしていると言うんではないが、後回しに考える傾向が見られるのはいつか蛇の魔女を討伐した時からだ。だが……今はそれ以上に彼女を外に出してはならない理由がある。
「……分かった分かった。買い物なら俺がしてくるから。お前はここで大人しくしてろ」
街に出れば冒険者の少なさに勘付いてしまうだろう。いや、もしかしたらここからでも人気の少なさや活気の無さに気付いてしまうかも知れない。それは……とても嫌なものだと感じるから、僕は文句を言うミラをベッドに寝かせてシーツをかぶせた。
「買い物、必要な物があればメモしてくから言ってくれ」
「…………食料だけ、アンタが食べる分だけ買ったらすぐ戻ってきなさい」
手近にあったチリ紙と鉛筆を僕が手に取ると、ミラはそう言ってシーツを握りしめてそのまま潜ってしまった。それは僕一人を行動させる事への不安だろうか。それとも逆の理由?
「分かったよ。すぐ戻ってくるから」
目だけ覗かせてミラはシーツの中で頷いた。紙と鉛筆を置いて、僕は少し痺れた脚で病院を後にした。まずは何よりもお金を貰わない事には……
少しだけ急ぎ足で役所に向かうと、昨日とは打って変わって人気の無い寂しい光景が待っていた。これを彼女に見せたくなくて……と、色々考えていたのだが、僕の胸にもズシリと重くのしかかる。昨日はあんなに……みんな……と、悪いことばかり考えるネガティブ思考の脳みそをどこかへ蹴っ飛ばしてやりたい。
「おはようございまーす。ああ……昨日の……っ。はい、お待ちしておりました」
受付に行くと、若い女性が対応してくれた。少し別の緊張に襲われたが、僕が依頼書を見せると表情を暗くして、それでも一生懸命明るく振舞って奥の部屋に入っていった。奥に金庫か何かあるのだろう。大きな、硬貨が入っているにしてはとても大きな、手のひらに収まりきらない麻袋を手にしてお姉さんは戻ってきた。
「……本当は、もっと大勢の冒険者さんが分け合って受け取るところを見る筈だったんですけど。貴方達だけでも戻ってきてくれて、本当に良かったです」
「…………すいません、僕らが不甲斐ない所為で。ありがとうございます」
つい謝ってしまった僕に、お姉さんは大慌てで、そんなつもりは無かったんです! と、泡食っていた。背は低くないが、華奢で可愛らしい容姿に少し癒される。お姉さんにも役所にも頭を下げて、僕は真っ直ぐ商店街へと向かった。サンドウィッチか何か、いらないと言ってはいたが、見れば食べたいと言い出すだろうから、ちゃんとミラの分も買って行ってやろう。もちろんオックスにも。あいつはいっぱい食べそうだ。と、呑気に考えていると、僕は背後から声をかけられた。
「あのぅ、すいません」
「——ッ!」
咄嗟のことだった。僕は何の躊躇も無くナイフを抜いて、声の主から飛び退いて距離を取っていた。振り返った先にいた小柄な老夫婦は、そんな僕を見て顔を青くして怯えてしまっていた。
「あ……っ! す、すいません!」
「い、いやいや、ごめんなさいね。突然声をかけたりしてしまって」
胸が痛んだ。老夫婦の言葉にもだが、何よりミラがいないと言うだけでこんなにも……逆だ。ミラがいると言うだけで、あんなにも間抜けに無防備に——警戒心のかけらも持たずにいたのか、と。どれだけ頼り切っていたのかと考えると、彼女を守るだなどと宣った自分を責めたくなる。
「あの……貴方、冒険者の方でしょう? 小さい、蜜柑みたいな色の髪の女の子と一緒に居た」
「ああ……はい、そうですけど……」
そう言うと、老婆は持っていた小さな木製の壺の様な、コルクで栓のされた容器を手渡してきた。
「あの子と、大きな男の子と。二人は無事だったのですかね? これ……なんの足しにもならんかもしれんですけどね、うちで作っている香水です。少しでも気を紛らわせられればと思って。今時の小さな女の子が好きな匂いか分からんですけど」
「……っ。あ……ありがとうございます!」
不意にやってきた優しさに目頭が熱くなる。深く頭を下げて受け取ったその小さな入れ物からは仄かに甘い花の蜜のような香りが漂って来た。きっと気にいると思います。と、涙を堪えて笑うと、二人も優しく微笑んでくれた。
「この街の若いもんは皆、王都に行ってしまったからねぇ。あんたらみたいな冒険者が来てくれんと、街もずいぶん静かで。でも、あんなちんまい子も危ない目に遭わにゃいかんだなんてねぇ……」
「それは……はい、すいません。俺の力が足りないばっかりに……」
今度は二人だけじゃ無い、色んな人に頭を下げる。そしてまたお礼と別れの言葉を言って、病院へと走った。早く戻ってやんないと、またぐずるかもしれない。と、簡単に目に浮かぶ光景に頬を緩めながら。
「ミラ、起きてるか?」
ガチャりとノブをひねり、病室へと飛び込んだ。そこには、もぞもぞと蠢くシーツのお化けみたいになった少女の姿があった。隙間から顔を覗かせるその姿は…………
「穴熊みたいなやつだな、お前は。いや、穴熊見たこと無いけど」
流石に穴熊は見たこと無いから分からないが、どう見ても地面に穴を掘ったり木のウロに巣を作る動物の類だ。リスとか山猫とか……ネズミとか蛇については言わないでおこう、逆鱗に触れかねない。
「……遅いのよ」
「ええぇぇ……お前どんだけ…………いや、それ以上言うまい」
寂しがりか。飲み込んだ言葉を僕は目一杯頭を撫でて発散させる。さて、オックスにもご飯を渡してこよう。ひとしきり撫で回して部屋を後にする僕に、ミラはまた声をかける。
「……ありがとう」
「おう。こんな事しか出来ないから、精一杯やるよ」
早く戻ってこいと寂しそうな顔で訴えるミラに背を向けて、僕はオックスの病室に向かった。朝ごはん買ってこなくても、二人には病院食があったんじゃないか? なんて考えながら。




