第百十四話
目が覚めたのは何時だろう。布団の中でひたすら蹲って、もうどれだけ経ったかも分からない。外はもう明るいだろうか。まだ、暗いだろうか。とっくに暗くなってくれてなどいないだろうか。
「……四時……か」
手だけを布団から出して拾い上げたスマホの画面に小さく表示される4:13という数字に、一層気分が重くなる。今日はどうしてもやらなくてはいけないという事柄すら無い。何も手に付かず、かといって何かを強要して貰うことも出来ず。ただ時間が過ぎるのを、布団の中で待ち続けるだけの一日。それだけは避けなければいけないと使命感に駆られるものの、どうやっても体は動かない。少し前まではこれが普通だったのだと思うと、頭が痛くなる。
流石に空腹に耐えかねたのは、昼過ぎになってからだった。嘔吐を繰り返した昨日は、ロクにご飯も食べていなかったのだから仕方ない。だが……母さんが作っていってくれた麻婆茄子は、今の僕の胃にはあまり優しくない。少しだけ食べてからラップをかけて冷蔵庫にしまうと、いつまでこんな事を……と、自分を責める声が聞こえた気がした。
何も思い出せない。昨日、何をやっただろうか。今朝、どうやって時間を消費してしまっただろうか。何も……何も思い出せない。僕はこの長い間一体何を——
「……ああ、バカだな僕は……っ!」
僕はもう一度だけ。これで最後だと、誰もいない部屋で約束を呟いて布団に潜った。きっとこれで眠りにつけたとしても、起きた時はまだまだ日も昇らぬ深夜だろう。どうせ時間が過ぎるのをひたすら待つ事になるのだろう。だから、これはただの逃避だと、違う事無く自覚を持って僕それを選ぶ。僕が僕の為に頑張れないのなら、せめて彼女の為に心配出来る場所へ。だから……目を瞑ったのだからさっさと眠ってくれと、呪いながら僕は歯を食いしばった。
「…………四時か」
玄関の開く音がした。母さんが帰ってきたのだろうか、だとすればもう夕方か。スマホを覗き込めば16:09と表示され、僕は一向に逃げることも出来ない現実に向き合う事を強要される。分かっている、母さんを不安にさせてはならない。それも僕がやらなければならない事なんだ。頑張る量を増やす事を選んだのは僕だ。
「ああ、ただいまアキちゃん。ご飯……食べてないの……」
「おかえり。うん……どうにもお腹が悪くてね。最近少し涼しくなったから、風邪でも引いたのかな」
心配そうに僕を見る母さんに少女の姿を重ねる。薄々感じてはいた事だが、どうにも僕は向こう贔屓になっている様だ。刺激が強くて、毎日がワクワクに満ちている、子供の頃夢に描いた様なあの世界に心を置いてきてしまっているのだろう。ああ……そういえば、店長にそんな事を言われたっけ。僕の心が、どこか別の方を向いてしまっている、と。
「晩御飯はうどんにする? 冷やし中華もあるけど……」
「ううん。茄子、食べるよ。ありがとう、母さん」
それだけ伝えて、僕はまた部屋へと戻った。これが終わったら……二人が無事目を覚ましたなら気を入れ替えよう。アギトとしてばかりじゃない、秋人としても僕と向き合う為に。スマホはもう触らない。その後僕は、少し遅くに帰ってきた兄さんも合わせた三人で食卓を囲んでまた布団に入った。時間は覚えていないが、きっと早かったのだろう。なにせ……
まだ空は暗かった。ばらばらと何か、石を打つ小さな物の音がする。すき間風に乗って臭いが入ってきた。雨だ。日の射さぬ部屋の中、ようやく帰ってきた僕は生憎の空模様にざわつく心を掻き乱される。嫌な時に降る雨だ。と、つい毒突いてしまうくらいに余裕が無かった。
中々昇らない朝日とあがらない雨にやきもきして、僕は懐中時計を引っ張り出した。指し示す時刻は二時。そんなバカな。と、二度見すれば、どうやら動いていないらしい。あの時壊れたか、しばらく巻いていなかったゼンマイが止まってしまったか。どちらにしても、もう用を成さなくなってしまったガラクタを仕方なくポーチにしまい込んで、また空とにらめっこをする。
「……行くか」
空はやっと白んできたところだ。雨は上がって間もないが、雲はもう切れて銀に輝く空が顔を覗かせている。宿から飛び出せば、ぬかるんだ地面に一歩めからズッコケそうになるも、傷だらけでボロボロになった僕の無事な両脚は持ち堪えてくれた。昨日、彼女が——レヴと名乗る少女が口にした損傷具合の報告というのを思い出すと、どうにも立ち竦んでしまう。どうして僕はこんなに元気でいるんだろうか、と。
病院はもちろん開いていなかった。病院といっても、別に大きなビルでも無い。内装も白壁と言うんでは無い、他と変わらぬ赤煉瓦造り。ただ、他よりもベッドが多くて、部屋が多くて、消毒液の匂いが立ち込めていて。そして、一層清潔であるというだけ。立て付けの悪い木製のドアが開いたのは、肌寒さに鳥肌をさすり始めた頃。受付に置いてあった時計を見ると、午前六時を指し示していた。
面会謝絶と言われたらどうしようかとも思ったが、ミラにもオックスにも無事面会を許された。果たしてそんなものがあるのかと問われると、おそらくは無いのかもしれない。王都まで行けば、或いはあるのかもしれないけど。と、フンワリした回答しか出来ないのだが。まだ眠っているかもしれない。今日はまだ起きないかもしれない。明日起きる保証も無い。僕は、昨日も会った眉間にシワの刻まれたお医者に念を押される様に説明を受け、他に入院患者の来なかったもの寂しい病院を奥へと進んだ。この事を彼女にどう説明しようか。そのまま伝えれば、きっと彼女は自分を責めるのだろう。
案内された部屋のドアの前で、僕はまた立ち竦んだ。起きていたら嬉しい。僕の一声で起きてくれればもっと嬉しい。いつもの様に、いつまでも寝ぼけてくれていても良い。無事であってくれれば、それだけで。上がる心拍数に視界が揺れる。中々ドアを開けない僕を、急かすでも見離すでもなく看護師さんは待っていてくれた。ようやくドアノブに手をかけたのは、そんな看護師さんが職務に戻った後のことだ。
さぁっと気持ちのいい朝の風が頬を撫でた。ドアを開けると、揺らめいて朝日に照らされたカーテンが見えた。そして……
「…………ミラ……っ」
オレンジの髪が揺れる。窓から遠くを見つめている様子だった少女が、僕の声に目を丸くして振り返った。さっきとは違う理由で心拍数が跳ね上がる。堪らずにベッドに駆け寄った。
「ミラ……良かった……」
彼女は何も言ってはくれなかった。ただ、無心に僕の顔を見つめて……珍しいものでも見る様な、感情の見えない表情で僕を見ていた。ふと、背中を蹴っ飛ばされる。この少女はどっちだ——と、そんな疑念に。昨日会った、別の彼女の姿がチラつく。不安と疑問に、僕の背筋は凍りついた。だが——その答えはすぐに出た。
「……ミラ?」
彼女は無言で僕の顔に両手で触れた。そして僕の抱いた疑問の答えをくれる。ぐしゃぐしゃと顔を歪めて、大粒の涙をボロボロとこぼし始めたのだった。
「……アギト……っ。アギト……生きてる…………っ!」
言葉と同じくらい弱々しい力で僕は抱き寄せられた。僕の胸で泣き噦るミラに、さっきまで色々考えていた不安や懸念は全部吹き飛んだ。全部、全部だ。
「バカ……それはこっちのセリフだって……」
「……ぐすっ……生きて……生きてたぁ……っ」
いつまでも泣き止む様子の無い少女を抱きしめて頭を撫でる。遺憾なことだが、この少女は僕の安否を気にしていたらしい。怒ってやろうか、叱ってやろうか。それとも、一緒に泣いてやろうか。別に、このままでも良いだろうか。彼女の為にしてやれる事はなんだろうか、ああ……やはり僕は、この少女を随分贔屓してしまっているみたいだ。ふと浮かんだ家族の顔に、申し訳ないと笑顔が引きつりそうになる。
それからずっと泣き続けた少女を慰めることも出来ず、かと言って一緒になって泣くことも出来ず。はて……どれくらい時間が経ったろうか。別に困る事でも無いのだが……ミラが僕を放してくれるのはいつの事になるのだろう。すっかり泣き止んでしまった筈の少女の体でも、無理に引き剥がすわけにもいかない。微妙に苦しい体勢を保ったまま、時間の経過を射し込んでくる日の明るさに感じて、かれこれ……だから、その時間が分かんないって言ってるんだ。
「……お熱いっスねぇ、こんな朝っぱらから。寂しいじゃ無いっスか、オレにはお見舞いも無いのに」
「どっっ——おおおぉおう⁉︎」
ひたすらミラの頭を撫でくり回しにやけ続けていると、背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。顔を作り直して急いで振り返ると、そこには包帯でグルグル巻きにされたオックスがドアにもたれかかる様に立っていた。
「オックス……っ! 良かった……お前も無事だったんだな……」
「はい。お陰様っス」
歯を見せて笑う少年に僕の心拍はまた高まる。そして、それは僕だけじゃなくて……
「おっ……おっぐずぅ……生きてる……オックスも生きてる……うぇええん」
「……こらこら、ジッとしてなさい」
僕の肩口から身を乗り出して、ミラはまた泣き出してそう言った。そして何かを求める様に伸ばされた両手を、僕は無意識に引っ込めさせる。ち、違うし⁉︎ 僕以外のやつに抱き付くなとか、そんなんじゃ無いし⁉︎ 怪我ひどいから大人しくしてろって意味であってッ‼︎
「……みんな無事、帰って来ましたね」
「そう……だな。そうだよ」
また涙で濡れるシャツに、オックスの言葉を実感する。不安は現実にはならなかった。僕らは生きてまた帰ってきたのだ。




