第百十三話
早く——
「どうかしたかい、原口くん。随分顔色が優れないけど」
早く——
「いえ……ちょっと風邪っぽくて……」
早く——
「それじゃお疲れ様。ごめんね、花渕さん。今日はこれで」
早く————
一日が遅い。何も手につかない、何も考えられない空虚な時間が、狂ってしまいそうな程長く感じられる。まだ、あと一日ある。明日はバイトすら無い、何の予定もイベントも無い。どうしたら良い。どうしたらこの世界を一刻も早く——
「——原口くん!」
「っ! は、はい!」
ようやくピントの合った視界に、店長の不安げな顔が映った。いけない……今はこっちの事を……でも……っ。
「ごめん、原口くん。体調も悪そうだし、お客さんもいないから今日はこれで上がりにしよう。明日ゆっくり休んでね」
「あ……はい。お疲れ様でした……」
優しく濁してくれたが、要は気の入っていない僕はいらないという事だろう。なんて情けない。頑張るどころか、こっちでも気を遣われて……っ! 違うだろ、そうじゃない。向こうは今は関係ない、ただ間抜け面を晒し続けるこの僕が不要だと、頭を冷やせと言われてるんだ。だが、直談判してもう少し働かせてくれと言うだけの勇気も気合も無くて、言われるがままに控室に戻り、僕は着替えて帰宅の準備を進めた。
「原口くん。着替え終わったらちょっと話、いいかな?」
「……はい」
反省しよう。反省して、次の機会が与えられたのなら挽回しよう。どうしようもないくらい気の抜けた今の自分を、とにかく今は戒め続ける。そして、控室のドアを開けると、店長が優しい顔をして待っていた。その兄さんにも似た優しさに、申し訳なさが一層込み上げてくる。
「……今日は随分集中出来てなかったね。この間にも似たようなことがあったけど。君は真面目だし、一生懸命やってくれてる姿も見てる。たまにあるくらいなら僕も何も言わない。まだ働き始めたばかりで慣れてなかったり、疲れてたり。色々あるだろうしね」
「……すいません」
控え室に畳まれて置いてあったパイプ椅子に向かい合って座り、店長は重苦しく口を開いた。色々ある。店長には言えない色々が確かにある。だが、それはそれ。僕はもうそろそろおっさんなんだ。もういい大人なんだから、公私は分けねばならない。店長の言葉に深く反省する。
「……それで、だ。その事については別に怒ってるわけじゃない。ただ……花渕さんの事なんだけど……」
「花渕さん……ですか?」
いつかと同じ様な切り出しに、ようやく僕の顔は上がった。ああ、そういえば母さんが言っていたっけ。顔を見て話すということが出来ていない、と。こんな時にもまだ出てくる課題に嫌気がさしてくる。一体僕は、どれだけやってこなかった事を積み上げているんだ。
「……単刀直入に言うよ。彼女との関係性がこのままなら、僕は君達のどちらかを辞めさせる。これは花渕さんには言ってない。これは……これは君が大人だから伝える事なんだ」
「……僕と……花渕さんの関係性……?」
それは……どうだろうか、思い当たる節が無い。確かに友好的な関係とは言い難いが、彼女の方から嫌悪感を丸出しにしてくることも無い。もしかしたら、僕の方に苦手意識から敬遠している様子がバレているのだろうか。そうなら……改善します、と言うしかない。
「原口くん。ケンちゃん……お兄さんに言ったんだって? 変わりたい、変わる、って。確かに聞いていた話と想像していた姿から考えれば、君は変わろうとしてる。頭できちんと考えているし、体もちゃんと動いている。今まさに、確かに変わろうとしているのは間違いない」
少しだけ語気を荒げる店長に、僕は自分が少しだけ怯えているのが分かった。怒られる、というより諭されるに近いこの説教に、慣れていないからという理由で僕の体は勝手に拒否反応を起こしていた。
「でも、君の心が向いていない。変わろうって、変わりたいって思った筈の。一番最初にそれを決めた筈の心が、今はそっぽを向いているように見える。今日だけじゃない、花渕さんが来てからずっと」
「……心……ですか?」
それは精神論では無いのか。と、反論する自分がどこかにいる。他人に反発し続けた、都合の悪い事に蓋をしてきた弱い自分が遠巻きに吠えているのがわかる。ああ……なんて情けない。
「花渕さん、あれでいいと思う? 店長の僕にはそれなりに話をするけど、君とは一切口を利くそぶりも見せない。そんなんでこの先社会に出ていけると思う?」
「それは……難しいのかな、とは思います」
だが彼女は僕よりも優秀だ。出勤時間がいつもギリギリだとか、僕とのコミュニケーションが取れないとか、欠点がまるで無いわけじゃ無い。だが、それでも僕なんかよりずっと若くて、ずっと欠点が少ない。店長は……そんな劣等種みたいな僕に、彼女を叱れって言っているんだろうか。
「君は大人なんだ。彼女はまだ子供、まだまだ未熟。数日でも君はここの先輩で、彼女は後輩。もし君が変わりたいって言うんなら、歳下の指導はどうしたって避けては通れないよ。気後れすることもあるだろうけど、こればかりは今までのツケなんだから」
「……そう……ですよね」
店長の言うことはもっともだ。店長か僕が言わなければ彼女は変わらないかもしれない。このまま他の……厳しい上司や先輩のいる職場に行けば苦労するかもしれない。だが、彼女ならそんなもの自分でなんとか出来るのでは? とか、場に応じた対応をするくらいはやってのけるのでは? とか。色々……色々と言い訳が浮かんでくる。
「……僕でいいんでしょうか……? 数日先輩だって言っても、もう彼女の方が出来ることも多いし。大人だって言ったって、彼女より経験を積んでるわけでも無い。こんな僕が花渕さんに何か教えるなんて……」
「それは君が決めることじゃない。後から分かることだよ」
とても厳しい事を言われた気がした。どうなるかは分からないが、お前に決定権はないと。店長はそんなつもりは毛頭ないのだろうが、ひねくれた僕の頭は勝手にそう解釈する。また、僕は俯いてしまった。
「……出来る人しか指摘や指導をしてはいけない、なんて事は無いんだ。もしそうなら、それは責任を押し付けているだけ。君には君の。花渕さんには花渕さんの。出来る事と教えるべき事は関係無い。人それぞれに、出来る事とやるべき事が別々にあるんだよ」
僕は結局、その後も顔を上げなかった。店長は話を終えたのだろう。もしかしたら、そんな僕の態度に愛想をつかしたのかもしれない。或いは憤慨して匙を投げてしまっただろうか。立ち上がってパイプ椅子を畳み始めてしまったのを見て、僕も慌てて立ち上がった。
「……今晩、花渕さんの事ちゃんと考えてみてあげて。明日はゆっくり休んで、明後日それを纏めたら彼女にちゃんと伝えてあげるんだよ」
「…………はい」
店長はまたお客さんの入らないフロアへと戻っていった。僕は……まだ地に足のつかない僕は、今日の事を精一杯反省しようと、一日を思い出そうともがいていた。だがどうしても……こちらでの今日の一日を何も思い出せない。
せめて元気よく挨拶できればいいものを、辛気臭い顔でお疲れ様でしたと言って僕は帰途に就いた。ゲームなどする気分では無い。ご飯も……喉を通らない。ただもう今日は眠ってしまいたい。今日も明日も、早くこの平和な世界を……
「……だから……それじゃダメなんだって……」
誰もいないリビングに帰ってきていた僕は、一人奥歯を噛みながら呟いた。そして誰とも顔を合わせる事無く眠りに就く。まだ、日も暮れていない時のことだった。そして朝を迎える。まだ日も上らぬ深夜とも言える時間に、まだ来ぬ切り替わりを急かす様にまた布団に潜った。何かをする気力など湧かない。誰かと話をする余裕など無い。ただ布団の中で、早く、早く。と、念仏の様に唱えるしか出来なかった。
一日の半分を布団の中で過ごした辺りで、僕はまたトイレに駆け込んだ。それを何度も何度も繰り返しているうちに、僕の意識は薄らいでいった。僕が望んだ通りに。僕が忌避していた通りに——