第百十二話
命令を。少女はもう何度目かもわからないその言葉を口にした。キラキラと輝いていた筈の瞳はまるで作り物の様に光を失い、ただ指示を待つだけの人形の様にも見えた。
「命令って……お前……ミラ……なんだよな…………?」
「はい、私はミラ=ハークス=レヴ。貴方の兵器です」
また……また彼女は自分の事を兵器と呼んだ。そして、三度目となるその名前。“レヴ”という余計な単語が付いた彼女の名前。僕をからかう為にふざけている様子も無く、本当に別人になってしまったかの様な少女と、少女が発する不可思議な言葉に理解が追いつかない。
「……えと……とりあえずこっちに来い。脚……怪我してるんだろ……?」
「了解、主人。損傷具合の報告……左大腿骨の粉砕骨折、右手甲の裂傷及び小指基節骨骨折。打撲複数箇所、炎症、擦過傷も同様。こちらは補修の必要性の薄いものとなっています」
足を引きずりながら、少女はつらつらとそう述べる。まるで人ごとの様な態度に、僕の困惑はより深くドツボにハマっていく。ミラは一体どうなって……いや、この少女は一体どうなっている。いつものミラとの差異よりも、このミラの異常性に僕の思考容量は既にいっぱいいっぱいだ。
「……っ⁉︎ お、おいっ⁉︎」
どうしたものだろうか、いやどうしようもないのだけれど。と、一人葛藤していると、レヴと名乗るミラは僕に寄りかかる様に抱きついて、そのまま顔だけを上に向けて……笑った。
「……不思議なものです。やはり、貴方はハークスの人間では無い。私の主たるだけの資格を一切持たない、平凡な一般人です。ですが……いえ。その事実よりも優先すべき点として、貴方に触れているとこの体が悦んでいる、と言う事実を私は不思議に思います」
「よろ……っ⁉︎ ちょっ! ちょっとおい! 一体どう……わ、分かって言ってないだろ、それ絶対‼︎」
はて。と、少女は首をかしげる。ああ……どうなっている。彼女とは全く似ても似つかないと感じる時もあれば、こうして不思議そうに僕を見つめる姿など完全にミラ=ハークスそのものじゃないか。二重人格? それにあの魔術……彼女の最大威力をも凌駕する特大の一撃はどうだ。枯れ果てて間もないミラに、あんな魔術を行使するだけの魔力なんて……っ⁉︎
「ちょっ……とぉ⁉︎ ミラさん⁉︎ ちょっとミラさん何して……らっしゃるッ⁉︎」
「……すみません、出過ぎたマネでした。主人は怪我をしている様子でしたので」
シャツを捲って体に手を這わせようとする少女を、僕は慌てて静止する。これは本当に一体どうした事だ⁉︎ 恥じらいが無いのは……いや、彼女にもそれなりの恥じらいというか……男の裸を見るのは恥ずかしいとか、裸を見られるのは恥ずかしいとか! その程度は備わっていたじゃないか! だがこの……今のミラは、それすらもとっぱらている様に見えて……って、そうじゃなくて!
「怪我って、そんなのお前の方が酷いじゃないか! 人の心配してる場合かよ‼︎」
「…………?」
キョトンとした顔で僕を見つめる。わぁかわいい。じゃない! 小首を傾げるんじゃない! さっき自分で申告したばかりだろう、骨が折れてそこら中傷だらけになってるって! 怒鳴りつけたい気持ちを飲み込んで、僕はなんとか彼女の真意……というよりも、正体を探ろうと思案する。
「……すみません、主人。どうやら活動限界です」
「活動限界……? それって……っ」
そう言って少女はまた僕に抱きついて、さっきまでとは随分違う、情感たっぷりな顔で気持ちよさそうに僕の胸にほおを擦り付けた。なんだ……なんだなんだなんなんだ! いつも以上に僕の事を誑かせやがって‼︎
「……また会いましょう。その時は、今回以上の働きをお約束いたします」
「今回以上って……おまっ⁉︎ おまままおまえ何言っ⁉︎」
それだけ言って、ミラはまたグッタリと僕にもたれかかった。呼んでも揺すっても返事は無く、苦しそうな顔で弱々しく息をするだけの姿は間違いなくいつものミラのものに思えた。そう……あまりにも弱々しいその姿を。
「……っ! ミラ! ああ、馬鹿! 何浮かれてんだ! ミラ、もうちょっとだけ待ってろ!」
だらりとぶら下がった手を胸の前に持ってきて、少女を仰向けに寝かせる。そしてもう一人、大事な仲間の元へと駆け寄った。
「オックス! オックス‼︎ ダメか……」
脇腹からの出血が酷い。額からも血を流してグッタリしているオックスを、僕は懸命に背負った。重たいとか、そんな事を言ってはいられない。ポーチとホルスターの付いたベルトで手を縛り、急いでミラの元へ戻る。そして、軽くて不安になる少女の体を抱き上げて僕は歩き始めた。急いで二人を病院へ連れていく為に。
「足引きずったらごめんな、オックス。ミラ、もうちょっとだけ我慢してくれ……」
よろよろとフラつきながら、ようやく岩場から斜面を下り始める。誰か……あれだけいた屈強な冒険者の、誰でもいいから手を貸してくれ。そう祈りながら、僕は出かかった言葉を飲み込んだ。そこにはもう——誰もいなかった。
「……こんな……あの魔竜が……っ!」
人の形跡はいくらでも見つかった。折れた剣、貫かれた鎧。千切れた鞄に片方だけの靴。そして……食い残された末端。込み上げてくる胃液を飲み込んで、僕は慎重に、それでも出来るだけ急いで山を下る。
それから一時間近くかけて、僕はようやく街へ辿り着いた。雷轟に不安を覚えたのであろう街の人々が真っ青な顔で出迎えて、僕を含めた三人を急いで病院へと運んでくれた。病院に他の冒険者の姿は見当たらなかった。
僕の怪我は、大したことは無かった。当然だろう。ずっと隠れていただけなのだから。ミラとオックスはまだ意識が戻らない。医者の先生は、意図的にミラの話題に触れない様にしている風にも見えた。彼は体も大きく、体力もあるから大丈夫。怪我は酷いけど、彼の場合は運が良い。後遺症も残ら無さそうだ。彼は、彼が、彼なら。きっと、僕が酷い顔をしていたのだろう。もう暮れる日に、僕は病院を後にして宿に戻った。そして、念願だった筈の一人で眠れる夜を迎えた。
「……今日は冷えるな。寒くないか……?」
ボロボロと溢れる涙をシーツで拭って、僕は必死に目を瞑る。背中で感じられない少女の体温に不安も孤独感も増して、布団に入ってから意識が消えるまでの長い間……長い長い間、震えて朝を待ち続けた。浮かび続ける嫌な映像を振り払いながら……
久しぶりにアラームで目を覚ました。午前十時。ああ……そうか。そういえば二日目だったんだ。ゆっくり起こした体の重さに、僕は現実を思い出す。見慣れた部屋、嗅ぎ慣れた臭い、聞き慣れた電子音。そして——
「……〜〜〜っ!」
僕はトイレに駆け込んだ。朝っぱらから何も入っていない胃の中身を吐き出す。気持ち悪い。胸焼けにも似たムカムカした苦しみが絶えず続く。そして、合間を縫う様に酷い吐き気も度々襲った。いくらなんでも神経細すぎやしないか。と、トイレに篭り、他に何も出来ない朝に考える。だが……そうだ。行かなくては。此方には大怪我をした二人はいない。それは今は関係無いのだ。関係無いのだから……
「……っ! うぅ……ぉえぇっ……げほっ……おえっ……」
——関係無いわけが無い! こんな事をしている間にも二人は……二人が……っ! どうして……どうしてこうも悪いタイミングで切り替わる! たった一日、たった一日だけだ! それだけあれば、せめて二人の経過を知った上で、気持ちの整理くらいは付けられたのだ! よりにもよってこんな……こんな大事な時に!
「……ミラ……っ! うぷっ……」
思い出せばまた苦しくなった。だが、もう行かなくては。二人はとっくに出かけた頃だろう。今日はお昼からで良いと言われて、遅くにタイマーをかけたのだから。せっかく踏み出した一歩なのだから。ようやく……ようやく彼女に自慢できる男に——
それから落ち着いたのは、家を出る時間の三十分前だった。最低限の水分補給とシャワーだけ済ませて、僕は家を出た。
今ここで心配しても仕方がない。
こうしている間にもあの少女は。
今出来ることは次戻った時、起き上がっている筈の彼女に笑って話しかけられるようにする事だ。
今すぐにでも戻って、彼女の隣にいたい。
今はあの少女の事を考えるのは——
「…………くそ……」
今すぐに帰りたい。この二日間を一足飛びにして彼女の元へ駆けつけたい。いつ目覚めるか、目覚めなくなるかも分からない大切な恩人の元へ——
「……らっしゃいませー……ちっ」
「いらっしゃいませ。ああ、原口くん。おはよう……て時間でもないか」
僕は今、どんな顔をしているだろうか。笑顔を取り繕っている? 真っ青な顔で憂いている? 答えはどちらでも無いのかもしれない。消化してはいけない、ただ見過ごしているだけではいけない。僕の大切なもう一つの生活が、最悪のタイミングで再開した。




