第百九話
最悪はいつだって簡単にやってくる。想定を容易く超えて、経験を無遠慮に踏み砕いて。それはいつでも要らぬタイミングでばかりやってくる。少女は満身創痍。魔力は底をつき、無理が祟っておそらく平衡感覚もまだ戻っていない。蹴り込み続けた脚からは血が滲み、拳を握る力も弱々しい。だが彼女は……
「……っ! っしゃぁあ‼︎」
バチっと体を爆ぜさせ、ミラは目にも留まらぬ突き蹴りを魔熊に叩き込む。衰える事のない蹴りはとんでもない威力で熊の腹に突き刺さり、大きく重い体を数メートル吹き飛ばした。
「ミラっ! 後ろだ!」
「分かってる‼︎」
振り下ろされた太い尻尾に彼女は身を翻し、そのまま僕らの視界から消えた。それはいつか宙を舞う怪鳥を撃ち落とした時の様な、弾丸の様な音を伴う超高速移動だった。
魔猪の額から血が噴き出した。額だけではない。脚から、胴から、そしてそれは魔蛇にも伝播する。硬い鱗を、しなやかな体毛を物ともせず、彼女は魔獣の肉体を切り刻み始めた。まさしく、かまいたちの様に。
「ミラ……っ! オックス、準備しとけ。次にミラが見えたら走るぞ」
「え……それって……」
それは捨て身の特攻だ。彼女はもうじきに動けなくなる。おそらく魔蛇と魔猪だけでも仕留めるつもりだろう。何より機動力に優れたその二頭を仕留めた暁には、僕らでミラを連れて下山するんだ。
「〜〜〜〜ッ⁉︎ ぐっ……ああっ‼︎」
その時は予想よりも早く訪れた。猛攻によって魔蛇が崩れ落ちるのと共に、ミラは地面に叩きつけられる様に転がり落ちて僕らの視界に戻ってくる。しかし、飛び出そうとする僕らの前には、まだ鼻息を荒げる魔猪の姿があった。
「——くそっ! オックス行くぞ!」
岩陰から飛び出すと、猪はこちらへと振り返った。恐怖に足がすくむ。だが、それでいい。それで……僕らに注意を引き寄せられれば問題ない。僕が魔具を取り出すと、オックスも同時にナイフを脇に構えた。
『穿つ雷電』
「旋刃一線」
真空の刃と稲妻の槍に襲われて、弱った魔猪は体勢を崩した。その隙に僕はミラを抱き上げる。オックスは上手いこと魔猪の気を引いて——
「オックス——ッ‼︎」
思いもよらぬ力で僕は抱き寄せられ、僕らをかばう様に構えていたオックスもその背中を引っ張られて尻餅をついた。彼の名を叫んだのは、僕の腕の中で目を回していた筈のミラだった。
「——ッこん……のぉおおっ‼︎ 荒れ狂う雷霆——ッッ‼︎」
僕らを覆う様に太く長い影が立ち上がった。それは大きく口を開けて食い殺そうとこちらを見下ろす魔蛇の姿だった。どうして——今度こそ倒した筈——何故まだ——思考は少女の言霊に掻き消される。これは彼女にとっては偶然だったのだろうが、僕らがその中心にやって来たことで、彼女はその魔術を戸惑うことなく発動させることが出来る。吹き荒れる暴風は稲光をも巻き込み、三頭の魔獣を諸共に飲み込んで……っ⁉︎
「ミラお前……っ!」
「……っ。この……」
確かに暴風は吹いていた。電気を纏った突風に辺りは焼け焦げ、魔獣も姿勢を低くして耐え忍ぶことしか出来ていない。否、耐え忍ばれてしまっている。風は渦を巻く事なく、飛び散る様に周囲を襲っていた。それを僕は、最初は三頭を同時に攻撃する為の策だと思っていたのだが、ミラの様子を見るにそうではない様だ。もう、彼女にはその突風を制御するだけの余力が無い。もう——彼女には————
「………………こんなとこで……」
ぐったりとしてミラは青く澄んだ空を睨んでいた。そして、その空はゆっくりと侵食される。鎌首をもたげた魔蛇の影がまた僕らを覆って…………?
「これって……アギトさん!」
「……ああ……流石にもう……っ。ミラ! しっかりしろ! まだなんとかなる!」
ドスン——と、大きな音を立てて、魔蛇と魔猪は倒れた。だらしなく開けぱなしになった口や開ききった瞳孔に、それがもう最後なのだと確信する。後はすっかり弱った熊だけ……とは簡単に行くまい。やはりそれも、見え辛いが目を赤くギラつかせて僕らの前に立ち塞がった。もう、警戒や威嚇などでは無い。距離をジリジリ詰めながら、確実に僕らを殺してしまおうと息を荒げていた。
「……ミラ、しっかり掴まってろ。走って一気に山を……」
「ダメ! それじゃ……街に被害が出る……」
ふらふらと僕に掴まりながら、ミラは立ち上がった。街に逃げればきっと、憲兵や待機していた冒険者がいる。彼らに任せればいいじゃ無いか。僕はその言葉を飲み込んで少女の体を支える。分かっていた事だ……いつだって。彼女は見ず知らずの、悪人にすら手を差し伸べる。全てを一人で背負い込んで戦おうとする。もう止めまい。真っ赤になった目で訴えかけるミラを、僕は頷いて送り出した。
「————揺蕩う雷霆ッ! せやぁああッ‼︎」
そして、彼女は三頭の魔獣を討伐した。ボロボロになって、もう一人で立つ事もままならないくらい疲れ果てても。彼女は成し遂げたのだ。ズンと膝をつき仄暗い眼孔から光が失われたのと同時に、僕は倒れる彼女を抱きとめた。
「…………えへへ……ただいま……」
「まったく……えへへじゃないよ。おかえり」
帰ろう。僕はそれだけ言って少女を抱き上げる。オックスもやっと訪れた終幕に安堵の表情を浮かべ、ヘロヘロになった体で飛び上がった。さて、この急斜面。今のガタきてる膝に耐えられるだろうか。落としたらごめんと先に謝っておこうか。そんな事を考えていた時のことだった。
「——おやおやぁ。これは大変ですねぇ。薬、必要ですか?」
振り返れば、そこには黒コートの男が立っていた。魔獣討伐に来ていたにしては随分と汚れていない綺麗な服装で、随分余裕の表情を浮かべて。
「……っ。その様子じゃ商売はうまくいったのかしら? でも、あんた程度の錬金術で作ったポーションなんて飲むくらいなら自分で作るわ。材料もあることだしね」
「いやぁ耳が痛い。でも、今の貴女にぴったりの秘薬もあるんですよぉ。ええ、ええ。例えば……」
男は懐から白い何か、布の様な革の様な物を取り出した。そしてニヤリと舌を出して笑うと、それが帽子であると見せつける様に被ってみせた。
「——精神を興奮させて、痛みを麻痺させる薬——とかですねぇ」
突如、突風が吹き荒れた。土煙に細めた目で、僕は男が帽子を飛ばされぬ様に手で押さえているのを見——っ‼︎
「初めまして。お探し物は——私ですか——?」
「…………っ!」
それは魔獣だろうか。魔獣と言うには……そうだ。魔獣とは、あくまでも歪んだ獣。醜く変異していたり、複数の生物の特徴をツギハギで兼ね備えていたり。ただ一つ。ただ一つの例外を除いて、不完全な外見をしていた。ただ一つ——人の様に二足で歩くトカゲとして完成していた、蛇の魔女を除いては。
「おやぁ……? 良い反応ですね。美しいでしょう……黒く輝く鱗。逞しい四肢。ありえぬ造形でしょう……それがこんなにも自然に馴染んで……」
バサバサとそれは大きな翼をはためかせる。その度に吹き荒れるつむじ風に、僕は腰を抜かしてしまいそうになる。それは、間違いなく竜。トカゲに鳥の翼を与えたのではない。まるでそうある事が自然であると主張する様な、幻想上の魔獣。黒鱗に覆われた、災いの象徴がそこに————
「……あぁ…………っ! ああぁ——ッ‼︎」
「おや。おやおや、おやおやおやぁ! そうでしょうそうでしょう! お気付きになられましたか! お気付き頂けるでしょうとも‼︎ そうです! これなるは私の最高傑作——ッ‼︎」
彼女が警戒していたのはこの事だったのだろうか。長身で帽子を被った男。そんなありふれた特徴など関係無い。邪悪な笑みを浮かべるこの男こそが、僕らの探していた魔獣の卵を売る男——
「——ッ‼︎ ああ————ぁああッッ‼︎」
「ッ! ミラ!」
錯乱した様にミラは叫び声をあげて、男の方へ走り出した。だが、すぐに蹴躓いて地面に倒れこむ。そして、涙を流しながら怒りを露わにした。
「ッ! 外道っ‼︎ 人の——生命をなんだと思って——ッ‼︎」
「おや、おやぁ? これは奇異な事を。私は錬金術使い。当然——」
それは聞くに耐えない男のエゴの様な答えだった。ミラはふらふらと立ち上がりながら走り出し、また言霊を唱えた。
「揺蕩う————」
——何かが砕ける音がした。そしてミラはまた地面に叩きつけられる。痛みに顔を歪める少女を笑って見下ろす男に、僕は今まで感じたことのない邪悪さを嫌という程に感じていた。




