第百八話
僕らは蛇と猪、そして熊の三頭の魔獣に囲まれてしまった。文字通り絶体絶命というやつか。さっきの一撃にミラを警戒しているのか、こちらの様子を窺ってジリジリと距離を保つ熊を一瞥して、ミラは僕らに指示を出す。
「……撤退はヤメ。もしコイツらが冒険者を待っていたんなら、下手に逃げても街の方まで追って来る可能性があるわ。そうなれば、麓の足場の緩いところで絶対に逃げ切れなくなる。少し登ったところに岩場があったわ。そこまで誘き寄せて一気に決める」
「……了解」
ミラの作戦に僕らは頷いて、熊からゆっくり離れる。だが……やはり付かず離れずの距離を保ちながらソレは僕らから視線を外さない。もしこの状態で蛇か猪に襲われようものなら……
「アギトさん! 膝を柔らかく、腰を落として!」
いけないいけない、また緊張で足が動かなくなっていたかも。オックスの言葉に顔を叩いてもう一度熊と向き合う。どこを向いているのかも分からない、窪んで毛に覆われた目に、嫌が応にも恐怖を覚える。ダメだ……やはり膝が震えて……
「ヘソを隠して! 体重は後ろ……もダメっスから、とにかく遠くに逃がせる様に。胸と腹を敵から見えない様に!」
「……それって…………」
オックスは苦い顔で頷いた。ああそうだ、そうだった。僕にも一つだけ教えて貰った戦い方がある。それは……
「恥じらう乙女の構え……」
「アギト、アンタ……こんな時に何言ってんのよ……」
ち、違うやい! コレはそういう名前で……文句はゲンさんに言ってくれ! コレはあの時……そう、脱衣所であられもない姿になったミラを参考に……では無くて!
「……行くわよ!」
ボケたことを考えている余裕は無い。ミラの合図で、僕らは全速力で山を登り始めた。振り返れば、前脚を地面について四足で走って追って来る魔熊の姿もある。振り返らずとも、冒険者を撥ね飛ばす魔猪と打ち払う魔蛇が待っている。いくらミラでも、僕らを抱えて三頭から逃げて山を登るということは出来ない。彼女が一足で蛇の頭上を飛び越えられる所までは、自力で登らなければならない。
「穿つ雷電!」
ミラの唱えた言霊が稲妻の槍を放つ。そして槍は魔猪の片目、僕らの方を睨んでいた左目を貫き煙をあげる。ピンポイントで眼球を焼いたのかと思うと少しゾッとするが、こんな化け物相手に躊躇する余裕なんて無い。死角になった猪の右側から、その巨体に隠れる様に蛇からの攻撃を避けて僕らは走る。ただでさえ緊張で速くなっている鼓動が、急斜面に更に酷使される。息が苦しい。どれだけ吸っても酸素が送られてこないみたいだ。
「……二人とも掴まって!」
そう言って、ミラはオックスの手と、掴まる余力すら無い僕の腕を掴んで大きく跳び上がった。ダンっと力強く地面を踏みつけるミラの足音通り、さっきまでよりもずっと硬い、木々も生えていない開けた場所に出た。遠目に見た感じでは、登れば登るほど木の生えていない禿げた場所がある筈だが、ここもそんな一つだろうか。人の手が加わっていない様子に、採掘場などでは無いと確信する。となると……
「ここならいくらでも撃ち込めるわ! アギト、オックス連れて離れてなさい」
それは忠告なのだろう。巻き添えが嫌なら端でジッとしていなさいと要約出来る言葉に僕らは頷いて、頼もしいその背中を見上げた。そして急いで立ち上がり、岩壁の方へ身を隠す。情けない話だが、コレが今の僕に出来る彼女への最大の支援だ。
「……お出ましね」
まず現れたのは登り坂など意に介さぬ魔蛇だった。その巨体を這わせ、大きな顎を持つその頭を揺らしながらやって来たソレに、やはり僕は違和感を抱く。もちろんオックスも、さっきまで戦っていたミラなど、とっくに気づいているのだろう。
「……目が……正気じゃ無いっスよ、あいつ……っ!」
本気でミラに怒りを覚えたとか、警戒心を露わにしたとかでは無い。間違いなく何らかの理由で変貌している。少なくとも、ここまで獰猛に他者を攻撃する魔獣は見たことがない。どこまでいっても獣、強者や危険からは逃げようとする。ただ例外があるとすれば……
「……罠張ったり、逃げるそぶりを見せなかったり……まるであの時の……」
——蛇の魔女。あの醜い姿を思い浮かべていると、開戦の合図が鳴った。空に青白く光った一筋の亀裂が入る。ソレは晴れた空に似つかわしくない、凶悪な稲妻だった。
「——伏せなさい! 九頭の柳雷ッ‼︎」
閃光の先——落ちた雷ではなく、登っていったその光の先で、少女は新たに九つの雷弾を構える。そして——
「うっっ……でぇええ⁉︎」
相も変わらずなんて威力だ。隠れていたというのに、僕もオックスもその衝撃に吹き飛ばされる。神話の蛇の様な雷撃に見舞われて、魔蛇は流石に動かなくなった。なったのはいいのだが何か忘れているような……っ!
「ミラっ! お前今の——」
「動くなっていってんでしょうが!」
飛び起きてミラの方を見れば、ふらふらと膝をついてポーチに手を突っ込んだ姿が見えた。そして片手で掴み出した薬瓶の中身を一息に飲み込んで、もう一度雷を纏う。やはりそうだ。あの術はミラの最大火力であり、同時に最大消費なのだ。枯れた魔力を補う禁薬を飲み干して、彼女は動かせない筈の体に鞭を打った。
「揺蕩う……雷霆——ッ!」
力強く発せられた言霊と同時に、顔を現したばかりの魔猪に無慈悲な膝蹴りが襲う。猪らしく飛び出した鼻に叩きつけられた一撃に面食らってくれればいいものを、魔猪は容赦なくそのままミラのことを撥ね飛ばそうと地面を蹴った。
「っ! この……っ」
ばちっとまたミラの体がスパークする。一際強くなった発光にミラが魔術の出力を上げた事が窺える。だがソレは……
「ミラさんっ!」
突進する魔猪を回し蹴りで蹴飛ばしてそのままミラは膝をついた。すぐに立ち上がりはしたものの、やはりフラついて……限界を超えた速さで回った所為で、平衡感覚が麻痺しているのか。見れば鼻血も流して……
「ミラ…………クソっ……俺は何で……」
何でこんな所にいる。ボロボロになって戦う少女を、どうしてこんな安全圏で眺めている。決まっている、力が無いからだ。もう分かった、分かったんだ。これ以上何を思えばいい。無力は痛みも分からなくなる程感じたんだ。僕への試練なんていらないから……もし見ているのなら、散々祈って貰ってんだから、彼女を無事助けてくれ。名も知らぬ、アーヴィンの大いなる父よ。
「アギトさん……ミラさんが飲んでるのって……」
飲んでる、という単語に伏せた目をすぐに上げた。カランと投げ捨てられた小さな瓶は、間違いなく霊薬の入っていたものだ。二本目——っ。グッと握りしめた拳を構えてのしのしと登ってきた熊を睨むその姿に、いつかのお医者の言葉を思い出す。
「次は無い……って……っ。大丈夫なんだよな……ミラ……?」
魔力の枯渇した状態での魔術の使用は危険が伴う。彼女がそれを理解していないわけが無い。この状態は、状況は、彼女の想定外のものという事だ。少女の頭上に現れた巨大な火球に、ミラの限界を悟る。
「——っ! 爆ぜ散る春蘭!」
明らかに初めて見た時より威力が落ちている。そもそもアレは連戦が予想されると、魔力消費を抑える必要がある時に放たれた魔術だ。それでも途方も無い威力ではあったのだが、彼女が敵を仕留める際に多用する雷魔術では無い。雷属性は魔力消費が激しいとか、そんな事を知っているわけでは無いが、明らかに消耗して打てる手が減って来ている証拠だ。現に魔熊を仕留めきれずに……っ⁉︎
「————ミラッ‼︎ 後ろだ——ッ‼︎」
「えっ——なっ⁉︎」
ミラは、避ける間も無く太い尻尾を叩き付けられた。嘘だ……と呟くオックスの目には、さっき倒した筈の魔蛇が……いや。
「どうして……だって、さっきどっちも……」
恐怖に声が震える。膝をついてようやく立ち上がったミラの前には、焼けた鱗と蹴折られた牙が————討伐した筈の魔蛇と魔猪が、さっき以上に目をギラつかせて立ち塞がっていた。




