第百三話
「うおぉおおっ! すっげーーーっ!」
はしゃぐオックスの声が聞こえた。うん、分かるよ。分かるとも。分かるんだよ。僕も初めは感動したし、彼と同じ様にはしゃいでいた。ビクビクしているミラをからかう余裕だってあった。だが……やはりこれは性分というか…………慣れてないというか……
「うおぇええ……」
「アギト……大丈夫……?」
出港から十分程で僕は船酔いした。青い顔でブルブルしていたミラもすっかり平気になったのか、僕に付き添ってくれていて……案外、僕がげろげろだからそれどころで無くなっただけかもしれないが。車や電車とはまるで違う揺れと、接地感の薄さに僕は参ってしまっていた。
「もー、大丈夫っスかーアギトさーん?」
「げ、元気だなぁお前……」
コイツはコイツではしゃぎすぎだろうと思わないでもないくらいテンションの高いオックスに、僕は精一杯の強がりで応える。そりゃもう! と、いい笑顔で言われたのだが……ごめん。もうそれどころじゃおろろろろ。
「……それにしても凄いわね。こんな量の水、何処から持って来たのかしら……?」
「…………うん?」
オックスはまたはしゃいで船首の方へ走って行ってしまった。そんな折、ミラが流石に看過出来ない事を言ったもんだから、上げたくない顔を上げる羽目になる。
「…………? だってそうでしょう? 深さだって相当なものだったし、何処からってのも疑問だけど、どうやってって言うのがいちばんの疑問だわ……」
「おっとぉ…………どうしよう。どうしようか、うん……そうだな。まず聞くけど……」
海については聞いたことは? と、恐る恐る尋ねると、ミラは可愛い顔して首を横に振った。なんて間抜けな顔だろう。とても真剣な顔で、ああでもないこうでもないとブツブツ言っているのが尚更……いかんいかん。彼女は海を知らないのだから、それを馬鹿にするのは良くないことだ。だが……うん。博識な彼女がこうもトンチンカンな事を言っていると思うと……申し訳無いが、凄く面白い。
「うーん……こんな大きな池を作る必要性も感じないし……」
「池って……」
どうやら彼女の中では、海というのは人工の、それこそ噴水の様なものであるという認識らしい。あくまで自然に存在する水場は河川というのが彼女の中の常識で、これはなんらかの理由で誰かが作った貯水池だとかプールの様な物だと推察しているのだろう。僕は理屈が分かっているからそれが妄想だと理解出来るているのだが、こういうファンタジックで子供っぽい考え方も深掘りしてみると案外面白いものだ。ミラの口から飛び出してくるトンデモ理論に、僕は気持ち悪いのも忘れて笑う。
「なんで笑うのよ!」
「いや、ごめん。本当に海なんて知らなかったんだな、って」
もう。と、膨れてそっぽ向いてしまったミラに、僕は海を説明することにした。まず、コレがスタート地点である事。海の水が蒸発して雲になり、風に運ばれて山にぶつかり、冷えて水に戻って雨が降り、雨は山から川として流れ、川はまた海へ戻る、と。小学生でも知っているような事を彼女が知らないというのはとても新鮮で、更に言うなら僕の説明に目を輝かせて頷いているミラが新鮮で気分が良い。まさか、コイツに勉強を教える日が来るなんてなあ。
「……そっか。じゃあ、海は作れないのね」
「そう……うん、そうだな。あれ、まだ作るつもりだったのか?」
まさか。と、彼女は嫌そうな顔で目を伏せた。流石に懲りたか。彼女は自分が海を作ると無理難題を口にした事や、荒唐無稽な事を口走った事を恥じたりはしないようだ。少しだけそれが羨ましくて、同時に誇らしい。本来、それは恥じるべき事では無いと彼女は知っているのだろう。僕なら気にして、それこそ海がトラウマになってしまいそうだ。
「まさか、俺に教えられる事があるなんてな。いつもいつもお前には色々教えて貰ってばっかで……」
「……何言ってんの。当然じゃない。私も世界の全てを知っているわけじゃないし、アンタはアーヴィンの事をろくすっぽ知らなかったんだから。これまでは私の知識の及ぶ所にしか居なかったってだけよ」
そう言ってミラは恐る恐る船から身を乗り出した。煌めく水面と飛び散る飛沫に、なびいた彼女の髪がよく映える。これでへっぴり腰じゃなかったら絵になるんだがなぁ。しょうがない。僕は立ち上がって……はダメな気がしたので、座ったままミラの手を握る。すると彼女は僕の手を強く握り返して、さっきまでよりずっと遠く——太陽でも目指す様に体を船から投げ出して海風を堪能した。
「おーい、二人ともーっ! 港が見え……お邪魔しましたっス」
「オォーーックス! だから違うって言ってんだろぉおう⁉︎」
冗談っスよ。と、笑ってオックスは僕を担ぎ上げる様に立ち上がらせた。流石に彼もミラの距離感に慣れてきたか、或いはもう完全にそういう事だとして諦めてしまったのかは分からないが、その心が遠くに感じることは無かった。オックスが指差す方には、確かに多くの船と煉瓦造りの赤っぽい建物が多く見られた。ボーロヌイの港を出港して凡そ二時間ほど。海と山に挟まれた赤土の街、フルトに辿り着いた。赤土の街、と言うのは……
「なんっ……だあの山……?」
僕の第一印象の話だ。海から見ていた時は気にならなかったのだが、こちら側……フルトの街から見えるトグの大山と呼ばれる山は、炎の様に真っ赤に染まって見えた。勿論、岩山というわけでは無いので、木々も生えていてどちらかと言えば緑の方が占める面積は多いのだが……その隙間から見える山肌の赤さ、その主張の強さに僕は驚いた。
「トグの大山は南は険しいんスけど、こっち側はそうでもないんスよ。で、上質な粘土が取れるってんで、ここの建物は山の土と同じ真っ赤な煉瓦で作られてるんっス」
真っ赤なと言っても、パステルカラーな赤では無くあくまで赤味がかった土色。というのは見たら分かるのだが……遠くに聳える大山の赤さはまるで紅葉を感じさせるほど鮮やかで、こんな感想は果たして如何なものかと自分でも思うのだが、赤に緑でとてもクリスマスカラーだ。年末イベントの準備をしなくては。
「トグ。ってのは海の向こう、外国で信じられている火の神様の事らしいっス。変な話っスよね、他所の神様の名前で呼ばれるなんて」
「火の神様……か。確かに山火事に見えなくも無いな……」
縁起が悪いわよ。と、ミラに脇腹を突かれる。やめろ、僕はこそばゆいの苦手なんだ。この際白状すると、首元でもぞもぞされるととても……背中がゾワゾワっとするんだぞう。だが、オックスの手前そんな事を言うわけにもいかず、僕らは恒例の寝床探しをすることになった。もう諦めてはいるが、そろそろ一人で眠りたい所だ。
「ありがとう! お気を付けて!」
ミラはそう言って、また帆を貼り直す船に手を振った。僕らを乗せてくれたあの男性も、船で良くしてくれた海の男達も、愛くるしいうちのマスコットに笑顔で手を振り返して……睨まないで⁉︎ 嘘でしょ⁉︎ 心を読んだの⁉︎
「アンタ、なんか今失礼なこと考えてない?」
「な……ナンノコトデショー……」
あまりに感度が良すぎるミラの第六感に驚いていると、あっという間に船は小さくなった。あんなに速かったんだなと思うと、ここまでの距離にふとホームシックにもなる。ここからアーヴィンまでは一体どれだけ離れているのだろう。もしかしたら彼女はとっくにこの寂しさを感じていて、それを埋めるために僕に甘えて……いや、それは無い。どうあがいても僕は使い慣れた抱き枕一号だ。下手な期待などするんじゃない。
「さ、早く宿を探しましょ。寝床が決まったら早速聞き込みよ」
「了解っス」
そう言って、ミラは名残惜しげもなく海に背を向ける。僕は少し後ろ髪を引かれてしまって、二人に急かされながら走って後を追った。海から離れると、潮の匂いでは無い、この街の匂いが段々と立ち込めてくる。土を焼いた匂いと、きっと釜を使ってピザでも焼いているんだろうか、香ばしい美味しそうな匂いに食欲をそそられる。急がねば、ミラが駄々をこねかねない。僕らは観光客向けの安い宿に一度腰を下ろして、そしてまた街へと繰り出した。




