第百二話
僕らはまた潮の香りの濃い船着場までやって来ていた。ミラも初めは少し青い顔をしておっかなびっくりで桟橋を渡っていたのだが、覚悟を決めたか開き直ったかもうすっかり平気そうな顔で……僕の腕にしがみついている。オックス! 分かるだろうオックス! これは! ただコイツがビビってるだけだって!
「すいませーん。船って今日はもう出ないっスか?」
僕達の二歩先を行くオックスが、背の低い、だが屈強な筋肉が服の上からも分かる男性に元気よく話しかける。やはり海の男というのは誰も彼もいかつい体つきしてやがるぜ……っ。僕はもうすっかり馴染んだ、そこそこ程度に鍛えられた細身のアギトの身体と、海の男の筋肉とを見比べて少し凹む。オックスもそうだが、皆僕よりずっと男らしいと言うか……うぬぬ。
「船ってぇ……人を乗せるような船は出とらんぞ。魚と一緒に持ってってもいいってなら話は別だけんどなあ」
「すいません。その話、詳しく聞かせて頂けませんか?」
オックスを押し退ける様に前に躍り出た少女に目を丸くしながら、男は事情を説明してくれた。彼が言うには、船は荷物を積んで海路で北へ向かうそうな。オックスの言っていた山を無視して、直接山の向こうの街——フルトという街に魚と商人を降ろしてそのまま遠洋に出かけるそうな。となれば、やはりボルツには帰れないわけだが……
「その船って今日は何時頃出るんですか?」
「おう、いい時に来たな。この後もう十分もせんうちに出るよ。今日はこれが最終だ」
漁師の朝は早いと聞くが、ここでも例外は無さそうだ。早めの昼食を済ませていた僕らがここに着いたのは正午の事だった。最終という事は、やはり明朝から出ている船も多いのだろう。
「でも、良いのかい? 人が座ってられるような部屋なんて無いし、小せえ船だぞ?」
「お願いします。どうしても急がないと行けない理由があって」
ミラのその返事に男は笑って、分かった。荷物を積み終わったら声を掛けるから。と、僕らに船着場で待つ様に言って、走って倉庫と思われる大きな建物に向かって行った。
「……船……かぁ」
ぽつりと呟いたミラの顔を見ると、すっかり血色が良くなって期待に目を輝かせているのが分かった。別にコレはミラだけじゃ無い。オックスも、僕だって高揚している。男がびしゃびしゃになった厚手の革手袋を外しながら迎えに来るまでの数分間がとても長く感じられ、船に乗り込む一瞬はきっとコレから何度も思い出すのだろう。人生初の船に、まさか異世界で乗る事になるとは。僕らが乗り込んだ船は、それからすぐに出発した。櫂で進み始めた船は次第に帆を広げ、風を受けて街を遠く小さな景色にして行く。街で浴びた心地よい潮風とは違う、水飛沫を伴う激しい海の風に僕らは揃って心を躍らせた。
「あのう、もし。御老人? 少しだけよろしいですか?」
そこはかつて馬車乗り場だった場所。今はもう使い道の無くなった箱の捨てられた、物寂しいゴミ捨て場。その日二度目の来客である男の声に、老爺は嬉しそうに振り返って黒いコートの男の話を聞く。
「すいません、お取り込み中。あの、ですねぇ……ここに女の子が来ませんでしたか? 背の低い、鮮やかな太陽の様な髪色の。向日葵みたいな可憐な少女なんですが……」
「ああ来たよ。綺麗な翠の瞳をした娘っ子だったなぁ」
老人は楽しい思い出でも語る様に少女の事を口にする。老人の前に現れた背の高い、柔和な表情をした男は、嬉しそうな老爺の姿を微笑ましそうな顔で見つめながら質問を続けた。
「どちらに向かったか、分かりますかねぇ。急いで追いかけないといけないんですが……」
「なんだぁ? あの嬢ちゃんの知り合いだったか。嬢ちゃんなら急いでるって言って船着場に向かったよぅ」
船着場ですか。と、男は意外そうな顔で呟いた。そして、ありがとうございましたと頭を下げて、くるりと踵を返す。そんな男の背中に老爺は声をかけた。
「今日はもう船はみな出ちまっただ。追いかけるにしても、明日以降になるだよ」
「……ええ、ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」
男は立ち止まって老人の方を振り返ると、また優しく笑って頭を下げた。そしてまた歩きだすと、懐から白い帽子を引っ張り出して深く被る。その後ろ姿に老人はただ、今日は随分行儀のいい奴が来るもんだ。と、呟いて掃除に戻った。
男はしばらく歩いてレストランへとやって来た。中へ入るなり帽子を脱いで、店主に頭を下げる。そして、今から食事をとりたいのですがよろしいですか? と、尋ねた。ああ、そりゃあ良いさ。と、不思議そうな顔で答えた店主は、今日二度目の注文となるムニエルを作り男の元へと配膳する。
「珍しいねぇ、ムニエルなんて。内地の人かい?」
「珍しいのですか? 御察しの通り、私はボルツよりも南の農家の次男坊ですよ」
ああ珍しい。それも今日だけで二件と来たもんだ。店主はそう答えた。そして、この街では小麦やバターを入手するルートが少なくて、海路から仕入れられる様になった今でもまだ馴染みが無く、注文が入る事は稀だとも続けた。男は魚にナイフを入れるのも忘れて店主の話に耳を傾けた。
「おっといけねえ。俺が飯の邪魔してちゃ世話ねえよな、ハハハ」
「いえいえ、貴重なお話をどうもありがとうございます。そうでしたか……ここでは人気無いんですねぇ、ムニエル」
ナイフを入れるとさくりと心地よい音を立て、男は広がるバターと柑橘の香りを堪能するかの様に目を瞑って一口目を口に運ぶ。うん、こんなに美味しいのに。と、そう言って頷くと、店主は豪快に笑って、ありがとうよ。と言って厨房に引っ込んで行った。
「ああ、うん。こんなにも美味しい」
誰もいなくなって静まり返ったレストランに、パリッと焼かれたムニエルをがっつく音が響く。それは例えるなら、獰猛な獣が餌となる腐肉を貪っている様な、節操も節度も無い野生的な音だった。
「ごちそうさまでした。お代はここに」
そう言って、男はまた帽子を被りなおして店を後にした。そして、次には海を目指した。強い潮風が吹く度に帽子を抑えながら、眩い日差しに目を細める。そして辿り着いた桟橋で、何かを待つ様に海を背にして街を一望する。そして、それはすぐにやって来た。
「おやぁ。遅かったですねぇ。いえ、早かったのかもしれません。どちらにせよ遅過ぎなくて本当に良かった」
息を荒げて男の前に現れたのは、二人組の人相の悪い男だった。それはかつて、少女が鉄の街のすぐ外で怒鳴りつけた盗人であった。
「すまねえ、旦那。やたらに強い餓鬼に、せっかく譲ってもらった卵を……」
「いえいえ、お怪我はありませんでしたか? 災難でしたねえ」
二人組はなんとか男に取り入ろうと必死で弁明を繰り返す。だが男はそれに対して、大丈夫です。や、良いんですよ。と、肯定を繰り返した。まるで……そう、まるで二人に興味が無いかの様に。
「弟の隠し持ってた卵は無事でさぁ! でも、こんな小さな卵しか残ってなくて……」
「ああ、そちらが無事でしたか。運がいいですねぇ。それに……ああ、うん。やはり運がいい。もうそれは——」
ゴギ————ッ。と、弟と呼ばれた男の首が捻れる。そして次第にそれは形を保つ事を諦め、やがて一つの小さな塊となっていった。
「ひっ⁉︎ トイ! 旦那! 弟は⁉︎ 弟はどうなって……っ⁉︎」
「——言ったでしょう、運がいい——と。御覧なさい。それが貴方がたの見たがっていた————」
バクン——。それの潰える音と共に、もう一人の盗賊も膝を折った。そして体の半分を失ったその男を、塊はズルズルと飲み込んでいく。
「——おはよう。ようやく孵化たね。僕の可愛い使い魔よ」
ソレは不気味で禍々しい産声をあげた。そして次第に、その黒いモヤのようなモゾモゾとした肉体を形にして、男の指差す方へと————海へとその身を投げ出した。
「では、行きましょうか。良かった。間に合わなければ、この子を使わなければいけないところでした」
そう言って、男は海に浮かぶ鱗の敷き詰められた黒い船に乗り込んだ。それはまるで蜥蜴の様な、大きな下肢と小さな翼を持った首の長い魔獣だった。自らの腹を一度さすって、男は指笛を吹く。ゆっくりと、ゆっくりと。まるで初めて入る海に戸惑う子供の様に、慎重にソレは進み出す。
「大丈夫ですよ。彼らは海を知っているみたいでしたから。貴方も、海を知っているはずです」
男はその上に胡座をかいて、鱗だらけの背を撫でた。ソレが次第に速度を上げて向かうのは——北。船着場を眺め、街を眺め。そして大山を望んで————北へ。
「ゆっくり行きましょう。そうでしょう、折角産まれたのですから」
男は不敵に笑って、またソレの背を撫でた。ソレはまるで——の様な。大きな四肢を持ち、大翼を広げて海を往く魔獣と成る。男は大きな体を屈め、強くなる向かい風に飛ばされぬ様に帽子を押さえ付けていた。




