第三百八十八話【強く、固く、揺るぎなく】
「————また——何を企てていたのだ、マーリン————」
王都、王宮の一室。
星見の巫女の仕事部屋で、己の言葉に魔女は目を丸くした。
かつての旅の間には見せなかった、間抜けでふてぶてしい姿だ。
生娘の純朴さを失ってしまった、見るも無残な女の……
「おい、こら。なんか失礼なこと考えてるだろ」
「アギトほどじゃないにせよ、お前も大概分かりやすいんだからな。主に、僕に対する悪意は」
「……分かっているのならば早速答えろ」
「親友に何をした。いいや——彼と共に何をしていた」
問いに対して、マーリンは目を伏せる。
しかし、やましい事情があるわけではないと分かった。
物憂げな表情ではあるが、しかし後悔や不安は見られない。
不本意ではあるが、しかし満足した。その眼はそう語っていた。
「今朝は随分と長く眠っていたようだな。お前も、ミラ=ハークスも。そして、アギトに至っては昼も過ぎる頃まで起きなかったという」
「かつての己であれば見落としたであろうが、しかし今は身に覚えもある。お前は何を企んだのだ」
「企んだ……か。残念ながら、その企てはとっくの昔にしたものでね、僕も仔細は覚えてないくらいに」
「でも、断言するよ。何も悪さはしていない」
「そして、お前に出番は無かった、声を掛ける理由は無かった」
「だからそう拗ねるなよ、黄金騎士ともあろう男が」
拗ねる——か。
その言葉に驚く程納得した自分がいた。
そうか——己はそういう感情を抱いているのだな。
親友の身に何かが起こっていた。
それをこの女は、己抜きで解決しようとした、そして成した。
それが悔しい、不甲斐ないと感じているのだ。
「少しね、やり残しがあったんだ」
「普通の人間を普通に戻す戦い、お前が絡んだらどうやっても解決しない問題だ。ううん、それだと語弊がある」
「お前がいたらすぐにでも解決しただろうが、しかしそれじゃ意味の無い問題だった」
「……それにも覚えがある」
「そうだな、己はいささか大きくなり過ぎた。花を愛でるには強くなり過ぎた」
「彼の起こした奇跡の代行として、己は既に人間の枠を飛び出して……ああ、いや」
「その枠には、そもそも収まってなどいなかったな」
フリード。と、彼女は珍しく冷たい声を発した。
己を咎める意図の言葉だった。
すまない。と、頭を下げれば、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまう。まるで幼児のように。
「——それで——お前はどれだけの未来を——時間を消費した——」
「己にばかり文句を付けていられる立場でもないだろう」
「マーリン。お前には、あとどれだけの時間が残されている」
「——っ。なんだ、困ったな。お見通し……いいや、知ってしまったのか」
「まったく、万能もそこまで行くと迷惑だよ」
マーリンは小さくため息をついて、そして眼を細めて窓の外を睨んだ。
悔いている……わけではないのだろう。
だがしかし、己にはその感情が分からなかった。
満足げに見えるその横顔の奥にある、ため息の理由が。
「……お前と変わらないよ。フリード——人造魔術人形、フリードリッヒ」
「かつては人のそれとは比較にならない時間を持っていた僕だが、しかしデンスケを呼ぶ為に人のそれと変わらぬほどまで切り捨てた」
「そして、自身を三度、アギトを八度、ミラちゃんを六度」
「流石にやり過ぎた……なんて後悔は無いよ。まだ、お前と同じくらいは残っている」
「……それを、彼らは知っているのか。いや、愚問だったな。お前がそんな真似をする筈がない」
「まったく、なんと不義理な女だ」
言わないでおくれよ、自覚はあるんだ。そう言ってマーリンは笑った。
皮肉などひとかけも含まず、純粋に笑みを浮かべた。嬉しそうに、自らの不幸を受け入れた。
「それで、今日はどういった用件かな?」
「お前のことだ、アギトとミラちゃんの心配だけ……なんて筈もない。それについては自分なりに答えも出してただろうしね。となると……」
「……ああ、そうだ。本題はこの後——」
——覚悟は決めてきた。
必要だから——というのもある。
己には超えねばならない壁があって、それにはどうあっても避けられない儀式がある。
許してくれ——と、彼に乞う必要があるかもしれないな——
「——魔女——あのワイン色の瞳をした魔女。己はアレを超える、抑え込む力を手にする必要がある」
「いいや——その力を完全なものにする必要がある」
「っ! 僕にはもう克服したように——魔女さえも超越したように見えたけど、お前にはまだ先が見えてるのか」
「出来損ないとは言え、僕も魔女の端くれだ。それは……やや、遺憾と言わざるを得ないな」
なんと嘘の下手な女だ。
その眼には期待や希望ばかりが映っていた。
魔女ではなく人間として生きる道を選んだのだから、当然そこに未練などある筈も無し。
あるのは人間の可能性の最大値——彼が見たかった、平和をもたらす人間の底力だ。
————覚悟は——決めてきた————
「——マーリン——己のものになれ——」
「己と共に生き、己の子を成せ——」
「その短くなった命の全てを、己の隣に預けてくれ————」
「————へぅぇ——っ⁈」
呆れたものだ。
この女は娘のような顔をして、鼻先も耳も真っ赤にして己から目を背けた。
なんとだらしない、情けない話だろう。
かつての旅より今まで、己はこの女から一度も心を離せなかった。
ただ、それだけだったのだ。
「——ふ——ふふふフリード⁉︎ こら、バカ! 何をいきなり言い出すんだお前は!」
「魔女を超えるとかなんとか——僕は何も関係無いだろ!」
「——いいや、大いに関係する」
「マーリン、お前もあの力の根底は知っているだろう」
「精神への干渉——強い魅了、誘惑」
「それはしかし、絆されぬだけの強い心があれば乗り越えられる」
「魔女の力に対抗出来るだけの、強い引力が他にあれば」
己の言葉に、マーリンは真面目な表情を取り戻した。
そして、まだどこか赤らんだ顔をこちらに向けて、真剣に考え込み始める。
その手があったか、などと呟きながら。
ああ——まったく、情けないことこの上ない。
こんな建前を準備しなければ、愛のひとつも伝えられなくなってしまったとは。
「——な、なるほど……そうだね、僕も出来損ないなりには魔女だ」
「その……あの……あぅ。お、お前と……その……こ……子供を……っ。か、家庭を持てば、もしかしたら……っ」
「詰まるところ、魔女の魅了能力は、優れた雄の奪い合いの為のもの」
「僕に魅了の力がさして備わってなくても、フリードが……その……僕を……あの……」
「ええい、見苦しい。歳を考えろ、そんな生娘のような顔をするな」
「腹にばかり駄肉を蓄えおって。そのなりでいつまで乙女を気取るつもり——」
その反撃も——分かっていた——
マーリンは手近にあったフクロウの止まり木を掴むと、そのまま己の股座に叩き付けた。
ああ——それも分かっていた。
分かっていた上で、甘んじて受けよう。
痛みや苦しみなど、この愛の前にはなんの障害にもならぬと証明する為に——
「————っ……ぐ……ぁ……っ。マーリン、もう一度言うぞ。己のものになれ」
「お前が何度殴ろうと、己の性は潰えぬ。己はお前の内に種を吐き、子を宿す」
「お前が何度己を拒もうと、己はお前の肉の全てを——」
「——お前はさっきから何を言ってるんだよ——っ! バカ! この大バカが!」
「そりゃ……その……ぐ……うん、その……筋の通った理屈だとは思う」
「けど……その……こ、子供とか……っ。そ、それに! それにだぞ! デリカシーってものはないのか! お前には!」
強敵を倒す為に自分のものになれとか! 失礼にも程があるだろ! と、そう言われてしまえば、なんとも切り返しようのない事実を突き付けられる。
そうだな。伝えるべきを伝えるには、やはり建前は必要無かった。
後悔し、反省しよう。
だがそれは、後の話だ。
「——それは関係無い」
「己はお前が欲しい。あの魔女など関係無く、お前を手に入れたいのだ」
「お前と共に歩み、幸せを見届けたい」
「それこそが、このフリードの内にある、人間としての最後の望みだ」
「っ……お……前は……や、やめろ……ばか……っ。僕の性格知ってて言ってるだろ……」
ああ、全て知っている。どれだけの間そばで見ていたと思っている。
情に絆されやすいのも、流されやすいのも、惚れっぽいのも。何もかも知っている。
知った上で——それを利用してでも——
「——己はお前が——私は君が欲しいのだ、マーリン——っ!」
「君の中に、まだデンスケとイルモッド卿の輝きが残っているのは知っている。ならば、その代替でも構わない」
「君の寂しさを紛らわす為でいい。だから——」
「——バカ! バカかお前は! そんなこと出来るわけないだろ!」
「そんなの——っ。出来ないよ……そんなこと……」
マーリンは少しだけ目を伏せた。
拳を震わせて、そして悔しそうに私を睨み付ける。
今の言葉には強く遺憾の意を唱えたい。そう訴えるように。
「……デンスケのことも、ユーリのことも、大好きだったよ。ううん、今でも大好きだ。心の底から」
「だけど……っ。だけど、それは君だってそうだよ。君だってかけがえのない相手だ」
「十六年もふたりだけで戦ってたんだ、大切じゃないわけないよ」
でも……。と、マーリンは私から目を背けた。
ああ、そうか。相変わらず、君は優しいな。
弱くて、脆くて、儚い。
だから君は、どれだけ年を経ても美しいのだな。
「君をデンスケやユーリの代わりだなんて、あり得ない。君は君だよ、フリード」
「最高の相棒、共犯者。僕は……ずっとそう思ってる……」
「……そうか」
ぱちん。と、乾いた音が部屋に響いた。マーリンが両掌で自らの頬を打ったのだ。
そして、さっきまでとは違う赤らみをもった顔で、真っ直ぐに私を——いいや。己の眼を見つめた。
空のように美しい瞳には、金色の己の姿が映っていた。
「まだ——まだだよ、フリード」
「僕達の戦いはまだ終わってない。まだ、デンスケの望みを叶えてない」
「この世界を平和にする。その為にはまだ、やることがいっぱいあるんだ」
「手を貸してくれ、相棒」
「——そうか。ああ、己の力ならば好きに使え」
「ただし——途中で逃げることはもう許さない」
「己も、お前も。彼の意思を継ぐのならば」
マーリンは何も言わず、拳を握って己の前に突き出した。
それも、彼との約束の形だったな——
己も拳を握り、その小さな拳に優しく触れる。
そうだな。己が望む関係でなくとも、己達はずっと——
「……で、だ。おい、バカフリード」
「ちょっと流されかけたけど、さっきのは酷かったぞ。もうちょっと誘い方を考えろ」
「いつものこととはいえ、あまりにもあまりだ」
「お前はもっと乙女心を学べ、でないとあの魔女に出し抜かれるぞ」
「……そうだな。ああ、しかし——それは少し、己には複雑過ぎる。やはり己には、あのやり方しかないのだ」
マーリンは己を凄く睨んだが、しかしそれだけだった。
困った話があったものだ。
よもや、これまでに伝えた愛が裏目に出るなどとは。
まったく、その乙女心とやらは度し難い。
己の短い時間では到底理解出来なさそうだ。
「では、失礼する。あまり長居をして仕事をサボらせるなと言われているのでな」
「だ、誰にだよ。おい、誰にだ。誰に言われた! そんなこと!」
「バカ王か! それともまさか、バカアギトじゃないだろうね!」
何やら騒がしくしていたが、しかし己が見たいのは彼女のその姿ではない。
それに、用件は済んだのだ、早々に立ち去ろう。
仕事をさせなければならないのは事実なのだから。
「——フリードさん、こんにちは」
「あれ、マーリンさんのとこに行ってたんですか? 珍しい……わけじゃない気もするけど……」
「こんにちは、フリード様。こら、バカアギト。失礼なこと言わないの」
「フリード様はそもそも王宮にお勤めなんだし、マーリン様とはお仕事での話も多いに決まってるでしょ」
部屋を後にして、そして廊下の段を一段下がると、ふたりに声を掛けられた。
今朝まで別の世界に行っていたのだろう、ふたり組の勇者に。
「君達もマーリンに用事か?」
「アレは何かにつけて仕事をサボろうとする、君達も見張ってやってくれ。そして、キツく言ってやって欲しい」
「あ、あはは……フリードさんから見てもサボり魔なんですね……」
己から見ても……か。
あの女、親友やミラ=ハークスからも怠惰な腑抜けの烙印を捺されているのだな……
情けない、なんと情けない。
どうやら急ぎの用があるらしく、ミラ=ハークスは少し申し訳無さそうに己に頭を下げて、廊下の段を一段上がった。
そしてアギトもそれに続いて……
「……ミラ、ちょっと先行っててくれ。その、やることあるの思い出して……」
「はあ? マーリン様の呼び出しより優先されることって何よ」
「アンタまさか、変なことやらかしてないでしょうね?」
違うよ! と、彼は憤慨するが、しかし少女は訝しんだ眼を向ける。
このふたりの関係もなかなか特殊だが、しかし良好なものには違いない。
故に、己の仲裁や助言は必要無いだろう。
ミラ=ハークスは予想通りすぐに納得し、不満げながらも先に廊下の奥へと向かった。
「……それで、親友よ。用事とは何か」
「己に手伝えるのであればいくらでも手を貸そう。己は君の奇跡の代行だからな」
「あ、えっと……その……あのー……ごほん」
「勘違いかもしれないし、そうでなくても失礼かもしれないんですが…………」
「フリードさん、何かありましたか? その……ちょっとだけ……寂しそうと言うか……」
————っ。
そう……か。
己もまだ未熟——分かっていたつもりだったが、随分と幼いところにいるらしいな。
よもや、悲恋の話をこんな少年に嗅ぎ付けられるとは。
「……そうだな。少し、マーリンと話をしてな」
「ユリエラ=イルモッド卿について、君の知ることを聞かせて欲しい」
「かの最期は君も知るところ。同じ騎士道を歩むものとして、あの高貴さには是非見習いたいと思ってな」
「ユーリさんですか? だったら、うってつけの場所があります! それに、俺よりもっと相応しい語り手も!」
少年は楽しそうに笑って己の前を歩いた。
嬉しいのだろうな。
かの騎士を愛したのは、何もマーリンだけではない。
彼もまた、その生き方に惚れ込んだのだ。
己もまた、あの死に様に憧憬を抱いたのだ。
ああ——そうか——
「——敵う道理など無かったのだな——」
「己はいつも、誰かの後ろを歩くばかりだった——」
「……? フリードさん……? はっ⁈ ご、ごめんなさい! そうですね、俺がフリードさんの前歩いて案内してるの、変ですよね⁉︎」
ああ、いや。君のことではなくて——いいや、君にも、だな。
親友は大慌てで己の半歩後ろに下がったが、しかしそれに意味があるなどとは己は考えない。
彼は己のずっとずっと前にいる。
何故なら、己は彼の奇跡なのだから。
彼の歩んだ軌跡こそが己なのだから。