第三百八十七話【——また、始める】
「——いらっしゃいませー……ああ、翔くん! いらっしゃい!」
翌日、翔くんは約束通りにお店にやって来てくれた。
優斗くんは都合が合わなかったみたいで、今日はひとりだけ。
でも、昨日会った時よりずっとずっとキラキラした目をしている気がした。
「ん、あー、この子? 昨日言ってた、不登校少年」
「やー、ワルだねー。で、なに? この子の勉強見たらいいの?」
「うん、お願い出来るかな。いや……その……忙しいことは重々承知しておりまして……」
いいっていいって。と、キッチンから顔を出したかと思えば、すぐに翔くんをジロジロ観察し始めたのは、すっかり先生が板に付いてる花渕さん。
学校には中々すぐには戻れない……けど、だからって勉強をやらないのはマズイ。
戻った時にみんなより遅れてて、それでまた嫌になっちゃったら意味無いもんね。
「学校に戻る……のも大切だけどさ。嫌なら嫌で、やり方を変えるとか、その上で……落ち着いてからさ」
「その件については、私じゃなんもしてあげらんないけど、勉強見るくらいは任し」
「っと、はじめまして、じゃんね? 美菜でいいよ、翔」
あっ、待って、ズルい。僕が下の名前で呼んだら蹴ったのに! うぐぐ。
しかし、こう……アレだな。こう……こう、さ。あるじゃん。
その……翔くんは中学一年生で、男の子で、思春期真っ盛りなわけだよ。
それがさ……こう……美人な女子高生に特別教室みたいな……
「……こんな……こんな青春を僕も送りたかった……っ」
「うっわ、キモ。おっさん、仕事して。おっさんは仕事して。働け」
うわぁん! 三回も言わないで!
キモいって言われるのはもう覚悟してたから良しと……出来ないけど、一回スルーして。
意訳すると働けって意味の言葉を、三回連続でぶつけないで! メンタルに来る!
「いらっしゃい。君が翔くんだね、原口くんから聞いてるよ」
「ちょっと遠いかもしれないけど、いつでも遊びにおいで。バス代も原口くんが負担してくれるみたいだし」
「えっ? あ、いや……別にそのくらいは平気か」
「うん、出す出す、全然出すよ。だからいつでもおいで」
「そこの綺麗なお姉さんはいつもいるわけじゃないけど」
違うよ。セクハラじゃないよ。
綺麗なお姉さんは事実だし、褒め言葉だから許し……そういうのもセクハラになることがある……の……? そ、そんな。
翔くんはちょっとだけ緊張した様子だけど、でも楽しそうに笑ってくれてる。
良かった……って、安心するのはまだ早い。
僕達に出来ることなんて多くないけど、彼が学校に戻る……或いは、戻れなかったとしても、ちゃんと未来に繋がるように、手助けをしてあげなきゃ。
「さ、おっさんどもはほっといてサクッとやるよ。言っとくけど、私はかなりスパルタだかんね」
「シラジョ……は、どっちみち無理か、男子だし」
「でも、そのレベル行けるまでみっちりやるかんね。そこんとこ覚悟しとき」
「あはは……頑張ってね、翔くん」
うう……良いなぁ……っ。
勉強が嫌いだったとしてもご褒美だよ、これは。
うう……良いなぁ……歳上の美少女特別講師……っ。
青春の匂いが……僕には縁の無かった甘酸っぱい青春の匂いが……え? 気の所為? 頭お花畑?
エルゥさんのとこにずっと居候してたから、感染ったかも……
「でも良かったの? 原口くんに任せるわけにもいかないし、ほっとくのも嫌だけどさ。花渕さんだって自分の勉強があるだろうに」
ちょっと。聞き捨てならない。
聞き捨てならなさ過ぎることを口走ったのは店長で、そして……それに対して、花渕さんは僕の知ってる顔で、知ってる言葉を返した。
「私は全然良いよ。気分転換……は必要なほど縛られた生活送ってないけど」
「ずっと机の前じゃモチベーションも下がるし。それに、見ちゃったら放って置けないでしょ」
「……うん、そうだよね。花渕さんならそう答えると思ってた」
なに、どゆこと。と、ちょっとだけ訝しまれてしまった……けど。でも……分かってた。
だって僕はそれを一度目にしてるし、聞いてもいる。
だから……彼女がそれを忘れていようと、僕はそれを知っているんだ。
「にしても、アキトさんも災難だよね」
「やっと目が覚めて退院したと思ったら、事故ってまた入院だもんね」
「翔、気を付けな。この人、割と厄を呼び寄せるから、あんま深く関わるとアンタも怪我すんよ」
「ひ、ひどいなぁ……」
花渕さんは……ううん。翔くんも。
兄さんも母さんも。店長も。
きっと、デンデン氏も。
誰も彼も——文字通り世界中の誰も彼も、SNS上に残っているべきログでさえも、昨日までの事件の全てを覚えていなかった。
“魔獣なんて現れなかった”。
これが、今のこの世界の結論だ。
翔くんが帰って、花渕さんも帰って、お店の営業時間が終わって、そして僕は家路に就く。
でも、そこは原口家じゃない。
もうひとつの僕の家。まだ築半年も経ってない、新しいマンション。その一室だ。
「——ただいま。帰ったぞ」
返事は——無い。
もう寝てる? それとも、まだ寝てる?
その答えはどちらもノー。
じゃあ、出掛けてる? 遊びに行ってる……望月さんに連れて行って貰ってるとか。
それもノー。
「……はあ。流石にひとりじゃ広過ぎるっての」
————もう、この世界に未来と真鈴という少女達は存在しない————
何もかもが無かったことになった、それが最終的な結果だ。
もちろん、時間が巻き戻ったりはしていない。
僕はしっかりサボった後だし、怪我もした後。
地下駐輪場には爆発事故の爪痕が残ってて、電車の遅延に対する愚痴ツイートは調べれば山ほど出てくる。
でも……この世界は、あのふたりと魔獣の戦いを全て忘れてしまった。
「……今まで行った世界も、こうだったのかな。だったら……」
さみしい? それとも、変な爪痕残さなくて済んで良かった?
その答えも、やっぱりノー。
僕の中にあるのは、うっすら明るい希望と、あとは……なんかよく分かんなくなったなぁっていう情けない答え。
いやだって、考え出したらキリが無いし。
アイリーンは僕のことを忘れたのかな。
だとしても、この感じなら怪物はしっかり退治されたんだろう。
方舟に刻まれた文字はきっと残ってる。
でなきゃ僕も答えに至れなかったし、あの世界は一生あのままだ。
だけど……エヴァンスさんが亡くなったという事実も消えないんだろう。
僕達と一緒にいたっていう過去だけが綺麗に忘れられてしまって。
キルケーさんとヘカーテさんは、僕達のことを忘れても、あっちのマーリンさんと仲良くなれた筈だ。
そう信じたんだから、ミラが。じゃあ、そうだよ。
神様は……神様なら覚えてたりしないかな。
ちょっとだけ期待しちゃうけど……無理だろうな。
だって、世界から無かったことにされたんだ。
じゃあ、神様でも無理だろう。
だけど、まだ諦めずにあの村を守ってくれる。それは確実だ。
それまでのどこよりも大勢と仲良くなったけど、アルコさん達も全部忘れちゃったんだな。
機械であるモノドロイドの記録媒体にすら残せないのだろう。
でも、フリードさんという奇跡があったこと——人間の可能性の極地については、彼が自分で想像して辿り着いた……みたいな形で残ってると思う。
「……はあ。さて、やることやらないとな」
記憶と記録は残らない。
でも、あの件に関わらない事実は残る。
たとえば……この部屋の契約者。
真鈴から僕に名義を変えたんだよ……変えちゃったんだよ……っ。
だから、ここは僕の部屋。これからは、ここが僕の家だ。
「——もしもし、兄さん? いや、その……突然でごめん。僕さ、ひとり暮らし始めるんだ」
やけに起動が遅くて、挙動が怪しくて、若干画面が……なんか……くすんだなぁ。はあ。
ボロボロになってしまったスマホで兄さんに電話を掛けると、その小さな不思議箱越しに怒鳴り声が聞こえた。
うう……想定内だけどさ……
「……うん、ごめん。でも、決めちゃった。もう部屋も契約してる」
「うん。ううん、違うよ。嫌になったなんて、あるわけない」
「僕はいつまでも母さんっ子だし、兄さんっ子だ。気持ち悪がらないでよ、ちょっと」
冷蔵庫の中は、ひとり暮らしにはあまりに多過ぎる食料が入ってる。
エアコンは多分かなり新しいやつで、僕の部屋——元の部屋のよりめちゃめちゃ冷えるのが早い。
カーテンは……端っこのとこ、ちょっとだけ巻きグセがついてる。誰かがあそこに隠れてたんだな。
そして……小さなちゃぶ台の上には、この世界の言葉と、そうじゃない言葉で綴られた手紙が残されていた。
「……うん……うん……うん、そう」
「だけど、ふたりに内緒でやりたかったんだ。ふたりに頼らずに、ひとりでやっていけるって証明したかった」
「ほんと、急でごめん。だけど……え? カレー? うっ……でも、食材いっぱいあるから……っ」
「うん、今日は……でも、ちゃんと帰るよ。割と近いし、しょっちゅう帰る」
「パンとケーキ持って週五で帰る……帰り過ぎ……? それじゃひとり暮らしの意味無い……?」
「に、兄さんがちゃんと帰れって言ったのに!」
リビングから寝室に入れば、誰かが包まって寝てたみたいにシーツがぐちゃぐちゃになったベッドがある。
僕がずっと寝てたのよりも遥かに良いやつ。
寝心地最高、マジで。
で……だ。
その枕元に、やたらゴテゴテしてて、押すと光って音が鳴るボタンが沢山付いたゴーグルが置いてある。
能面スイマーEX変身ゴーグル。ほぼ見たことない特撮の変身アイテムだ。
「……うん。じゃあ、明日案内するよ。うん、またね。おやすみ」
「はあ……しっかし、これなぁ。持って帰れ……は、無理だもんな」
もう、ここには未来も真鈴もいない。
だけど、思い出が——僕の中にだけは思い出が残ってる。それで十分だ。
さて、と。
昨日走り回ったからさ……もう、どっと疲れが……
いや……キツい、マジで。
翔くんのこともあったし、久々の出勤だったから張り切ったけど……マジでキツかっ……
もすもす。と、鼻のあたりに柔らかいものが当たってた。
さらさらしてて、もこもこしてて、まるでシルク……が、めっちゃ細く切り裂かれたもののよう。
で、すんすんと鼻をヒクつかせる音がする。
んで……首のあたりがめっちゃ生暖かい、あと微妙に痛い。
「むぐ……起きたわね。んふふ、おはよ、バカアギト」
「……ミラ……お前なぁ……」
知ってる匂いがあって、久しぶりな天井がある。
自分の声がちょっと違って、体力的な余裕があるのも分かった。
んで……バカミラがひっさしぶりに首に噛み付いて起こしてきたのも分かった。こいつ——
「——甘えん坊が——っ! 反抗期は終わりか! こいつ! この! かわいいやつめ! よーしよしよし!」
「んふふ……えへへ。言ったでしょ、こき使うって。だから、早く起きないと毎朝でも噛むわよ」
毎朝は無理だろ! だっていつもお前が寝坊するんだから!
って、ちょっとからかっても、ミラは笑って僕に抱き着いてきた。
わぁい! 反抗期が終わった! かわいいかわいいお兄ちゃんっ子のミラが帰ってきたよ!
抱き締めるとぐりぐり頭を擦り付けてくるし、撫で回すとニコニコ笑ってもっとねだってくる。
ずーっと一緒に旅をして勇者になった、甘えん坊ミラちゃんがここに帰ってき——
「——うっとうしい。いつまでやってんのよ、早く起きなさい」
「っ⁉︎」
反抗期————っっ!
うわぁん! ミラがまだ反抗期のままだった!
でもちょっと久しぶりに撫で撫で出来て嬉しかった!
うわぁん! もっとぎゅーってさせてよぅ!
秋人と未来の戦いは終わった。
それで……アギトとミラの日常が戻ってきたんだ。
どうやらお昼まで寝てたみたいで、部屋の外からは元気なエルゥさんの声も——みんなの声も聞こえる。
平和も安全も随分減っちゃったけど、活気だけは百倍になった王都に僕は帰ってきた。




