第三百八十四話【奇跡なんて】
僕は嘘をついた。
何も覚えてないって顔で、その人を安心させようとした。
安心させたくて——怖がって欲しくなくて、後悔して欲しくなくて、自分を責めて欲しくなくて、覚えてないって嘘をついた。
「——うん、分かってる。落ち着いてる。大丈夫」
本当なら、怖くて怖くて仕方がなかった筈だ。
ミラが下で戦ってて、デンデン氏もそこに残って、ひとりぼっちになって。
魔獣がいるかもしれないって分かってて、怖くないなんてことあるわけなかった。
だけど——大丈夫だった。
凄く凄く冷静になれてる……気がする。
ここのところずっと、そう。
気がするだけで、実際は違うのかもしれない。
だけど……間違ってるとも思えない。
——獣の身体。
漆黒の魔竜。
魔蟻の大群。
魔女の力。
あの時に起こった全てを、僕は覚えている。
そして——その力がまだ中にあることも分かってる。
僕がやらなきゃって思って、焦って、暴走して、ねじ曲がってしまった。
だけど……気付いちゃったんだ。
これの使い方、これがどういう意味を持つものなのか。
そして、向こうでマーリンさんが言ってた意味。
僕が特別になってしまったって言葉の、その本当の恐ろしさを。
「——よし」
目を瞑ると、イメージがはっきりと浮かんできた。
ミラと一緒に草原を駆け抜けたあの時の感覚。
エヴァンスさんと一緒に力仕事をこなしたあの身体が。
それに——何よりも頼もしい、あの人の声が聞こえる気がするんだ。
ドアノブに手を掛けると、途端にプレッシャーみたいなものが膨れ上がった。
この先、いるんだな。
下でふたりが戦ってるのと同じか、それより強いのか。
なかなか無いだろうけど、こっちの方が弱いと助かる。
でも……何が出たって今の僕は平気だ。
だって、今の僕には——
————そうだ——親友よ————
「っ! なんでも出て来い!」
がちゃっ! と、勢いに任せてドアを開けると、その先はビルの中じゃなかった。
空があって、土と石と砂の地面があって、風が吹いてて。
まるで外……って言うか、まるっきり外の景色がそこにはあった。これ、覚えがあるぞ。
「——結界……っ。もうこんなのまで……いや、違う。そうか」
この結界魔術、多分だけど、意図的に発生させたものじゃない。
この先にいるやつは、別にこんな大掛かりな魔術は使えないままな筈だ。
なのに、これだけばっちり展開されている。
その例は以前にも見てる、繰り返しの結界だ。
「……ってなったら……あの時は……マーリンさんがなんとかしてくれたんだっけ……っ。うぐぐ、対処法は分かんない……か……」
三人で王都を目指して旅をしていた時、同じような結界に遭遇している。
マーリンさん曰く、恐怖の記憶を繰り返し続ける——絶望を映し続ける結界魔術、ということだった。
そしてそれは、意図的な術式ではなく、強過ぎる願望が偶然引き起こした奇跡の産物だった……らしい。
じゃあ、これもその筈だ。
誰かの強い感情が作用して……
「……あ……れ? ここ、来たことある……ぞ?」
「ここ……この山——この先————っ!」
ここは——まさか——
気付いたらすぐに身体が痺れた。
そうか、そうだったんだ。
これは、僕の恐怖心をもとに作られたものなんだ。
今いる場所は、マーリンさんとユーリさんが戦った場所。
一番“嫌だ”って感情が大きく膨れた場所。
ふたりが戦ってるのを見るのが嫌で、ユーリさんがマーリンさんを傷付けるのを見るのが嫌で。
マーリンさんが傷付くのを見るのが嫌で、逃げ出したいとさえ思った場所。
「だとしたら——この先に向かえばアイツが——っ」
勝機はあるだろうか。
今の僕に、果たしてアレを倒すだけの力があるだろうか。
無理だと思う……が、半分。
もう半分は、ちょっとでも可能性を感じる根拠はどこから来てるの? という、より辛辣なもの。
勝ち目は無い。うん。僕にはアレをどうにかするのは無理だ。
「——僕——には——」
————ああ——その為に己は在る————
怖い……けど、行こう。進もう。
あの時そうしたように、恐怖より強い勇気で前を向こう。
あんなに頼もしい仲間がいたから前を向けた。
なら、今回だってそうすれば良い。
ミラは下にいる。
マーリンさんも別の場所で戦っている。
ふたりはここに駆け付けられない。だけど——
「——見えた。火口湖——最期の場所——っ」
「僕が——」
——乗り越えなくちゃならない場所——っ。
何もかもが記憶の中と同じ、何度も見せつけられた悪夢と同じフィールドだ。
音が無くて、空気も冷たい。
緊張とか関係無く、ここには心を沸き立たせる材料が何ひとつとして無い。
怯えることしか許されない。
でも——っ!
————踏み出せ——親友よ————
「——ぉおおっ! 負けるかぁあ!」
一歩目を大きく踏み出して、二歩目でちょっと躓いて、三歩目から走り出した。
マーリンさんに教わったぴょこぴょこ走りで、石がゴロゴロ転がってる地面を慎重に走る。
勇気を持て、希望を捨てるな、絶望くらいで諦めるな。
僕は——俺は——俺達は、こんな窮地をいくつもくぐり抜けてきたんだ——
「————また会ったな——魔王————っ!」
「————不届き————」
あの時立っていた場所に、僕は辿り着いた。
あの時マーリンさんが立っていた場所まで進んだ。
あの時、ミラが立っていた場所まで近付きたい。
そして——僕はコイツを——
「——不届きである——人間——」
「——っ! タネは——割れてるんだよ——っ!」
目の前——文字通り、眼球の直前に小さな火花が散って、それを合図に僕は思い切り横っ飛びをした。
バウッ! と、大きな音が聞こえると、さっきまで僕が立ってた場所に火柱が上がっている。
真っ青な、何もかもを焼き尽くしてしまう炎の束だ。
けど、それは僕を焼かなかった。焼けなかった。
「——焼かれなかった——っ! 今度はもう、守って貰わなくてもなんとかしたぞ!」
「かかってこい! 魔王! 今度は僕が——僕ひとりがお前を乗り越える番だ——っ!」
「————不届き————」
すぐに景色は変わる。
さっきまで青かった空に真っ白な雲が八つ——太くて、艶やかで、そして悍ましい龍の首が八つ。
陽の光なんて全部遮ってしまいそうな、圧倒的な大きさだった。
でも、それも僕は知っている。
「——負けない——っ。夢の中で何回負けたと思ってんだ——何回諦めたと思ってんだ——何回絶望したと思ってんだ——っ!」
「もう負けない、負けたくない! もう二度と——何も失いたくなんてない——ッ!」
龍はひとつずつ襲い掛かってくる。
これを破壊出来るだけの力は無い。
だけど、躱して躱して、逃げ惑って、時間を稼いで、ミラが来るのを待つくらいは出来る。
今の僕なら、それくらいはやってやれないこともない。だけど——
————そこだ——行け——アギトよ————
「——うぉおお——っ!」
「——っ! 不届きな——」
龍の突進を掻い潜り、そして僕は一歩だけ前に出た。
身を翻して躱した筈だったけど、龍の根は僕の頬を切り裂いた。
痛い。泣きたい。逃げたい。
もう、やめにしたい。
でも……
「——行く——っ! 全部——全部全部かかってこい!」
「その上で——俺が——僕が勝つ——っ!」
二本目の龍が迫ってくる。
ここが結界で、本物じゃなくて、僕の気持ちが——ずっとずっと怖いとだけ思ってた心が——ちょっとだけ前を向いてるから、なんだろう。
記憶の中にあるアイツの攻撃より、ずっとずっとヌルい。遅い、避けられる。これは避けられる。
避けて避けて、近付いて——
「——三——四、五——っ!」
「どうしたよ——こんなんじゃなかっただろ——っ!」
怖くない。
もう、怖くない。
もう一度マーリンさんに召喚して貰って、ミラの記憶も取り戻して、みんなの記憶も取り戻して。
もう、何も怖くなくなったから——あの悪夢も乗り越えた。
だから、この魔王は本物よりずっとずっと——ずーっと弱い。
半分なんてもんじゃない。
十分の一——いや、三十分の一にも届かない。
ミラがそうしてたみたいに、僕でも龍を掻い潜って突き進める。
そして、遂に——
「————ここで——炎が——っ!」
「これも——避けたら————お前は————ッ!」
「——不届き————ッ」
僕は魔王の元に辿り着いた。
下半身を花弁に覆われ、地面と接続されている真っ白な男の元に。
魔の王。
人間よりも魔獣の未来に希望を見出した男。
痩せ型のその男の頬目掛けて、僕は思いっ切り拳を振り抜いた。
「————そうだ——ここから——ここからが————」
魔の王はバラバラと崩れていった。
でも、まだ生きている。
ドライフラワーみたいにぼろぼろ崩れながら、それでも僕を睨んでる。
うん、分かってる。
分かってるんだ。
————信じろ——己を——
——君の起こした奇跡を————
「——分かってます、フリードさん」
「ここから————」
——音も無く、それは地面から現れる。
僕を殺した九本目——魔王の奥の手、最後の龍。
花弁の根本から飛び出して、僕目掛けて伸びてくる。
その絶望をなんとかするすべを、今の僕は手にしている。
「————不届き————」
声が聞こえた。
魔王の、男の声だ。
不届き——と、それしか言わないアイツの声。
それと、フリードさんの声。
己を信じろ。
君には奇跡の力がある。
奇跡を起こす力がある。
そう励まして背中を押してくれる声。
そして——いろんな世界で出会った、大勢の友達の声。
——思い描くのは獣の身体。
今まで生きてきた中で一番強かった瞬間。
思い出すのはその身体の使い方。
でも、それだけじゃ足りない。
この弱った魔王の攻撃でも、まともに食らったらどんなに強くなってもきっと耐えられない。
だから——思い出すべきは五回目の召喚、機械の世界での戦い。
奇跡を起こす、その力が僕にはある。
全ての力を失ったフリードさんを、僕がまたカッコ良くて強いあの人に戻したんだ。
魔女に襲われた時にも、僕の思いであの人は部屋の中に現れてくれた。
そういう奇跡の力が、今の僕にはある。
だから——
「——これで、良かったんですよね。フリードさん——」
————ああ、それでこそ、だ。
君はやはり——あらゆる英雄よりも気高い————
ちょっと遅れて爆音が響いて、そして土煙が上がる。
ビリビリと耳の奥が痺れる、身体が凄く冷たく感じる。
手足にはちゃんと感覚がある。意識もちゃんとしてる。
さあ、目を開こう。
僕が起こした最高の奇跡を、この目で確かめるんだ。
「————なんて——なんてブサイクな————っ」
そこはもう、火口湖では無かった。
土埃も消えて、窓ガラスが目の前にある。
ううん、目の前じゃない。思いっ切り顔を背けた、その先に。
暗い部屋の中、黒いガラスの向こう。
映っているのは、へっぴりごしで両手を前に突き出して、顔を背けて目を瞑っていた情けない中年の姿だった。
なんて……なんてブサイク……っ。
「——でも、生きてる。生きてるぞ、今回は」
「——不届きである、人間よ」
魔の王の姿は無い。
だけど、声と気配はまだある。
崩れてしまったけど、まだ残っているんだ。
結界の——この場にあった、本当の奇跡の残骸が。
「——お前は僕だったんだな——」
「ミラと出会わなかった場合の僕、もうちょっと頭が良くて色々マシになった僕だったんだ」
「だから、奇跡の力をちゃんと使おうとした」
「魔王。お前は、僕と同じだったんだな」
まだ、いる。
なら声を掛けよう。
好きになったわけじゃない。
当然嫌いなまま。
というか、好きも嫌いもあるかってくらいの恨みがある。
だけど……ちゃんと話をしなくちゃ。
「僕は——いらない」
「僕には大き過ぎる。僕には重た過ぎる」
「僕が持っていい力の総量を、遥かに超えてしまっている」
「だから——僕はもう、こんな奇跡の力なんていらない」
「——不届き——」
そうだよ。僕はそこには届かない。
声が消えた。
フリードさんの声が、ずっとずっと励ましてくれてた声が消えた。
獣の身体の、その感覚も。
僕の中にある奇跡は全部、もうどこにも存在しやしない。
もったいない……かな?
けど、いらなかったからしょうがない。
「——でも、ちゃんと乗り越えたぞ。ちゃんと今度は生きてる、ざまーみろ」
「お前がアテにした奇跡の力は、そんな大したものじゃなかったんだ」
「そんなの無くても、僕はちゃんと約束を守れた」
「だから……お前もきっと、どっかでそれを下ろせばよかったんだよ」
「————不届きである」
「その願いは、既に————」
もう、届かないものだけど。
でも、後悔くらいはしていいだろう?
だって……だって、涙が出るんだ。
お前のことは嫌いだったけど、他人事だとは思えなくなったから。
だから……っ。
「……っ。僕は前に進むぞ」
「重たい荷物は下ろしたから、もう杖なんて必要ない」
「僕が——奇跡なんて関係ない僕が、全部終わらせてやる」
部屋の中には何も無かった。
魔王の残骸も、あの山の景色も、声も。
家具も無くて、道具も無くて、何も無くて。
次の部屋があることを知らせるドアだけがあるから、僕はその先へ行く。
堂々と胸を張って、もう何にも怯えずに。
「——君だね。魔獣を召喚してたのは——」
ノブを捻って、丁寧にそのドアを開ける。
意外とも思わなかった。
残念とも、悔しいとも、悲しいとも思わなかった。
もちろん、安堵もしなかった。
ただ、その光景を受け止めた。
最後の部屋にいたのは、まだ中学生くらいの少年だった。




