第三百八十三話【恐れと悔い】
その人を見るのは初めてだった。
その人に会うのも初めてだった。
言葉を交わすのも、目を合わせるのも、同じ空気を吸うのも、何もかも。
けれど——私はその人を知っていた。
「——これで、良かったんですかな」
「……はい。ありがとうございます」
やれやれ。と、その人は肩をすくめた。
きっと心配なのだ。
アギトが——アキトが、この人にとっての友達が、たった今、危険地帯でひとりきりになったのだから。
心配で……そして、同時に安堵もしている。
そういうのが全部、手に取るように分かる。
「……ミラちゃん、でしたな。はじめましての挨拶は……一応しておきましょう。もう拙者も大人ですので、弁えるべきは弁えねば」
「というわけで。はじめまして、ですぞ」
「はじめまして——勇者様——」
私の言葉にその人は眉をしかめた。
けれど、嫌がっているわけでも怒っているわけでもないらしい。
ただ……少し、寂しそうだった。
つらい……わけじゃない。
寂しいのに、つらくはない。
そんな、ちょっとだけ難しい感情が、私の中にも流れ込んでくる。
「そんな呼び方はノンノン、拙者のことはデンデンとお呼びくだされ」
「田原の田と伝助の伝で……と、音読み訓読みを口頭で言っても、伝わらなかったでしたかな?」
「いえ、ある程度は学びましたので大丈夫です。ですが……その……やはり、そう馴れ馴れしくは……」
私の態度を咎めるでも悲しむでもなく、その人は優しく笑っていてくれた。
勇者と呼ばれるのが好ましくない……わけじゃない。
勇者と呼ばれるのが誇らしい……わけでもない。
だから、私がそう呼ぶのをどう言ってやめさせたらいいのかが分からない。
そんな考えが筒抜けになっていることも、その人は承知の上で私に笑い掛けている。
「……君だったんですなぁ。奇遇なことに……いえ、そうではないのでござろう」
「アイツの繋いだ縁が、もう一度この世界に糸を垂らした」
「であれば、当然その力と繋がるに決まっている」
「しかし……まさかアギト氏とは」
「ああ……全て、全て全てが繋がるものなんですなぁ」
さて。と、その人は笑顔をやめて、そしてちょっとだけ真面目な顔でドアを睨んだ。
その横顔は間違いなく、あの箱の中で戦うヒーローのものだった。
「この先、何が出ると思いますかな」
「拙者の予想では……どろんこの大群、でしょうか」
「或いは、拙者の知らない——アギト氏に襲いかかった脅威、でしょうか」
「……っ。どう……でしょうか。私にはとても……」
勿体付けずに教えてくだされ。と、その人はおどけた。
けれど——顔はこちらを向いていたけれど——意識はずっとドアの奥に向けられたままだった。
この人は違う。
アキトとは違う、ゆるくなんてない。
こんなにも平和な世界で、こんなにも長閑な世界で、こんなにも幸せな世界なのに————
「——行きますぞ、ミラちゃん」
「っ! は、はい!」
がちゃり。と、その人は躊躇無くドアを開けた。
その先にあるものを、私は知っていた。
だから、その人も当然知っていた。
なのに——それを全く恐れなかった。
それを私は、悍ましいと思ってしまった。
——かつて勇者は、絶望を前に命を投げ出した——
聞かされた話だ。
かつて勇者様は、第一階層の魔獣を前に——
——無限とも言える数の、無敵とも言える回復能力を持った、無慈悲とも言える頑強さの魔獣の群れを前に——
——心を砕かれて自決した。
そうすることで仲間を守ろうとした。
そうすることでしか希望を繋げられないと思った。
そうすることで——救われると信じてしまった——
「————久しぶりですな」
「ああ——良かった、覚えているままの姿だ」
「覚えているまま——諦めた時のままの壁が、もう一度俺の前に立っている——」
ドアの向こう——建物の一角だった筈のそこは、既に結界の中だった。
平らだった床は消え、ゴツゴツとした岩がいくつも転がっている。
背後に退路は無く、進む先に希望は無い。
あるのはただ、ごうごうとうねる魔獣の大群だけ。
土を練り固め、岩を飲み下し、泥を纏って爬行する魔術人形。
その人の夢も希望も、何もかもを踏み潰してしまった最悪の悪夢——
「——っ。退がってください! コイツらは私が! 私なら——今の私なら、ひとりでもきっと——」
「——いえいえ、それはダメですぞ。こんな小さな女の子を戦わせるわけにはいきませぬ。アギト氏に申し訳が立ちませんしな」
その人は笑っていた——
私の手を掴み、首を振って、その役目を自分に返してくれと言った。
けれど……っ。
そんなことをして、果たしてどうして生き残れるだろうか。
この人はただの人間だ。
人造神性でもない、魔女でもない、魔術師ですらない。
なのに、そんなこの人がどうやって……
「……頑張って、と。応援してくだされ。それと、出来ればいつものやつをお願いしたいんですな」
「君にとっても拙者にとっても、それより強いおまじないはありませんから」
「っ。ですが……それをしたとしても、こいつらは……こいつらには……」
お願いしますな。
その人は遂に私に頭を下げた。
私に、だ。
おかしな話があったものだ。
だって、私は貴方なのに。
貴方が残した希望なのに。
貴方が託してくださったから、こうして生まれることが出来たのに。
命令すらも必要無しに、私の力を好き勝手出来た筈なのに。
「——っ。すう……【Lightning————」
「ああ、いえ。大丈夫ですぞ。君のよく知る言葉で、君のよく知る希望で」
「大丈夫、確立は拙者が」
「きっと他の誰よりもその術を知り尽くして……いるのは、流石にアイツの方でしょうが」
「しかし、その力には誰よりもお世話になりましたから」
さあ、一緒に。と、その人は一歩だけ前に躍り出た。
すると、爬行していた魔獣どもは一斉に動きを止め、そしてその人の方へと意識を向ける。
すぐに襲ってくるだろう。
なのに、その人の背中には怯えは——
「————行こう——マーリン————」
「——揺蕩う雷霆——ッ!」
この世界にその言葉は存在しない。
故に、その式は成立しない。
だから、私は必死になって言葉を学んだ。
言葉の成り立ちを、ルールを学んだ。
なのに、その存在しない筈の式は力を持ち、そしてその人の大きな身体に雷光の加護を与える。
およそただの人間には制御出来ない、最大出力の強化魔術を。
「————っ! 勇者様——っ!」
その人の姿はすぐに消えた。
私の目でも、強化無しでは捉えきれない。
けれど、その人の無事を私の魂が知らせてくれる。
その人の戦いぶりを——その、ただの人間だった筈のその人の、武神の如き強さを——
「——十六年だ——っ。あれから十六年——俺はずっと待っていた————」
岩石の魔獣が宙を舞う。
砕け散って、地面に叩き付けられて、動かなくなって、そして再生する。
それを繰り返しながら、着々と数を減らしていく。
ここは夢想の空間ながら、しかし現実には土も泥もろくに存在しない屋内なのだ。
再生の材料が限られているんだ。これなら……っ。
「————もう一度——もう一度呼ばれることがあったなら、今度こそふたりを幸せにする——あんな終わりをもう味合わせない————っ」
「その為だけに身体も技も鍛え続けた————」
声だけが聞こえる。
魔獣が砕ける音も、雷が空気を裂く音も雑多なのに、その人の声だけが頭の中に入ってくる。
悲痛な叫びだった。
後悔と、そして羨望の叫びだった。
「初めて見た時、確信した」
「彼は俺と同じように、あの世界と繋がったのだと」
「そして同時に悟った」
「もう——俺にはその機会は無いんだと」
「だから——」
もう、諦めていた。
もう二度と、自分が何かを護ることは無いのだと。
何かを救うことは無いのだと。
もう、全てを彼に託すつもりだった。
彼は叫ぶ。
そうだ、羨望だ。
私はその感情をよく知っている。
羨ましい、妬ましい。
自分にはもう、その機会が無いのに——
そういう勘違いを、私もよく知っている。
魔獣は破壊される。
その人の振り抜く拳が、振り回す腕が、頑丈な筈の岩の肉体を砕いてゆく。
すり潰されて、形を残せなくなって、そして核を壊される。
その最後を、きっとその人は見せたかったのだろう。
私達でも成せなかったその勝利を、かつてのその人は——
「……よもや、こんな形でまた戦う日が来るとは」
「感謝ですぞ、ミラちゃん。やはり拙者は運が良い。ああ……本当に、感無量ですぞ」
「……運なんかじゃありません」
「勇者様の心が、気高い精神が、それを招いたんです」
「極小の、確率とも呼べない確率の奇跡を信じて、己を鍛え続けた勇者様だからこそ、こうしてこの場所で……」
魔獣は全てその場から消え去っていた。
全て壊し切ったのだ。
その人は、己の中の絶望に勝利した。
本物ではない、無敵ではない魔獣とはいえ、その人は自らの敗北を乗り越えたのだ。
その証が、目の前に広がる光景——もうひとつの絶望の形だ。
「……これが、ミラちゃんの知る絶望ですかな」
「であれば……これも倒してしまわねば、拙者がここにいる意味が無いでしょう」
現れたのは、大きな大きな真っ黒な卵。
艶やかで、歪んでいて、美しくて、あまりにも醜悪なもの。
こんなもの、一度だって目にしたことはない。
だけど、それが何かはすぐに分かった。
「——魔竜——っ」
「……ふむ。なるほど、ドラゴンの卵でしたか。なんとまあ、凶悪な姿でしょう」
バキバキとその殻を突き破って産まれたのは、とても雛とは呼べない巨大な魔竜だった。
これは……私の恐怖……だけど……?
恐怖心の全てを克服したとは思ってない。
けれど、これについてはもう何度も何度も倒している。
これよりも恐ろしいものだって見た。
それでもなお、私の前にこれが現れる理由は……
「——デン——ス——ケ——さん————」
「——っ。その声……レイガス……?」
「そう……でしたか。貴方の身に訪れる不幸は、ここまでの憎悪をも生み出す程に……」
その人は悲しんだ。
そして、もう一度拳を握り直した。
これは——この空間は、私の恐怖と、その人の後悔で出来ていた。
「——勇者様……」
たった一撃。魔竜はたった一撃で葬り去られた。
強くなかった……わけじゃない。
威圧感も、存在感も、質量も、確かにそれは私の知る魔竜そのものだった。
けれど、その人は簡単にそれを倒してしまった。
怖かった。
私はそれがとても怖かった。
この平和な世界で——どうしてここまで——
「……さて、どうしたらここから出られますかな」
「既にふたつの後悔を倒し、脅威の気配はどこにもありませぬが……ふむ」
「アギト氏の活躍までは出られない……ということでしょうか」
では、待ちましょうかな。と、その人はそう言ってその場に座り込んだ。
ひぃ、疲れたでござるよ。なんて、汗ひとつかかずにそう言うのだ。
その強さは……その後悔は、その未練は。その想いは……
「……勇者様。どうか……どうかこの戦いが終わった後に、あの方に会っていただけませんか……?」
「ずっと……ずっとずっと、あの方は……」
「……そうでござるか。アイツもこっちに……そうでござったか……」
その想いは、あの方の中にもずっとあった。
かつての旅の中で、マーリン様は何度も何度も古い冒険の話を聞かせてくださった。
そして必ず、嬉しそうに勇者様の偉業を語るのだ。
強く深く、永く、愛していたのだ。
それがその人の中にもあって、もう一度——奇跡のようなこの瞬間だけに、もう一度会って話をする機会があるのなら——
「……申し訳ござらんな、ミラちゃん。心遣いは感謝するでござる。ですが……会うわけにはいきませぬ」
「……っ。どうして……ですか……? だって、勇者様はマーリン様を——」
ええ、心より愛しておりますぞ。
その人は目を瞑ってそう言った。
深く深く、息を吸って。
そして、躊躇うことなくそう言った。
世界を隔て、長い時間を経てもなお、あの方だけを愛しているのだと、そう言った。
「けれど、ここに姿が無い」
「彼女には未来が視える。そして、そうでありながらここにいないということは、そういう未来はあり得なかったということでしょう」
「であれば、それを歪めるつもりも無し」
「——どうして——っ!」
「だって……だって勇者様はずっと……ずっとずっと想ってらしたんですよね……っ」
「ずっと、もう二度と会えないだろうって分かって、それでもずっと……っ」
「それが、あり得なかった再会が、この時にだけ叶うんですよ⁉︎ なのに、なんで……っ!」
難しい話ではござらんよ。と、その人はまた笑った。
寂しい。悲しい。つらい。
そういう感情だけで、その人は笑った。
会いたいと心から願いながら、会わないと決意を口にした。
「……分かっているんでござるよ、全部」
「この戦いの後、君達は元の世界へと帰還する」
「すると、拙者を含めたこの世界の全てが、君達とこの一件を忘れるでしょう。無いものを覚えておくのは不可能ですからな」
「しかし……彼女はきっと、その記憶を残して帰ることになるのでしょう」
ならば、余計な荷物は持たせぬ方が良いでしょう。
その人はまだ笑っていた。まだ、つらそうに笑っていた。
「……マーリンにはまだ未来がある」
「凄く綺麗で、儚くて、優しくて、甘い」
「マーリンには良い男が現れる……いや、ずっとそばにいる」
「だから、もう俺のことはいいんだ」
「ここで俺と会って、俺を思い出して、俺に焦がれてしまったら、全てが台無しになる」
「俺はアイツに幸せになって欲しい。アイツを幸せにしてやりたかった、その夢は叶えられなくなったけど」
「ならせめて、幸せを見落とさない手助けはしてやりたいんだ」
「……それで……それで勇者様は報われるんですか……?」
ああ。と、その人は笑った。
少しだけ嬉しそうに笑った。
きっと、強がりだった。
でも、幸せそうに泣いていた。
だから私は、もう何も言えなかった。
だから私は、その人のように涙を流していた。