第三百七十六話【恋の音、変な男】
アギトの——アキトの元いた世界に来てから、今日が十八日目。
朝を迎え、綺麗な窓ガラスの向こうに朝日が昇るのを見て、そして私の中で確信と覚悟ががっちりと固まった。
「おはよう、ミライちゃん。今朝は……ううん、今朝も早起きだね」
「おはようございます、マーリン様」
「今日……全部終わらせましょう。何もかもを終わらせて、この世界に——この平穏に不必要なものを排除する。魔獣も、魔術も——」
——私達も——
マーリン様は少しだけ寂しそうな顔をして、私の手を握ってくださった。
ずっとずっと幼い姿になってもなお、この方は変わらない。
聡明で、繊細で、しかし大胆で。
かつてそうだったように、私達を導いてくださる、未来を識る星見の巫女様。
そう——未来視なんてものを持つ、この世界にあってはならない異物。
「……寂しい結論を出したね、君も」
「だけど……そうだね。僕が君の立場でも、きっと同じことを考えた、同じ答えに辿り着いた」
「この世界に不要なものは、何も魔獣だけじゃない」
「全部終わらせて、私達も帰って、そしてアキトの中にある余計なものも無くしてみせる」
「すぐには無理でも、向こうでアギトと暮らしていれば、必ず機会はある筈です」
星見の巫女も、天の勇者も、それにその半身も、全ては異物。
アキトはそれを重々理解していた。
けれど、そういう言い方は選ばなかった。
そもそもそういう人間だからというのと、排除しようという思考を持ち合わせなかったから。
それでも、目立たないように、魔術を使わないように、魔獣と戦わないように、と。
アキトはそれが自分の為だと勘違いしたまま、私達に要求していた。
「……その前に、だ。ミラちゃん」
「いいのかい? 君の考えは相変わらず手に取るようにわかる。いや、手を握っているから……なのかな」
「難しい話になっちゃうよ? 何せ、相手はあのバカアギトだからさ」
「そう……ですね。きっと私の言いたいことの半分も理解出来ないでしょう」
「でも、やります。バカアギトだけど、それでも」
そっか。と、マーリン様は微笑んで、そして私をぎゅうと抱き締めた。
いつもとは違う、小さくて軽い身体で。
女性的な柔らかさも無い、香水の甘い匂いも無い。
だけど、凄く凄く安心する鼓動が聞こえる。
いつもより暖かくて、いつもより弱々しい。
不安さえ覚える脆さで、私を包み込んでくださった。
「……もう一度だけ、式の確認をお願いしてもよろしいですか?」
「失敗しているつもりはないですし、するつもりもありません。ですが……今日を逃せば……」
「そうだね。今日、全てを終わらせる。これは願望ではなく責務だ。ここを逃せば全てが破綻する」
「まったく、困った話だね。プレッシャーにならないように星見の力を取り外した……と、いつか君達に嘯いたのに」
「まさかここへ来て、最大のストレスを与えてくるとは」
マーリン様の未来視は絶対だ。私達はそれを一度として覆せなかった。
しかしそれと同時に、それに及ばないという結果は残さなかった。
怠惰は簡単に未来を潰してしまう。
かつて張り切って歩き続けたように、今回も気を張り続けなければならない。
でなければ、悪い未来はあっさりと未来視の結果を塗り潰してしまうだろうから。
「——【Unfadable——と、私は式を組み上げました。けれど……」
——私は全ての罪禍を見逃さない——
その式に込めた意味はそういうものだった。
全ての影を照らし出す、消すことの出来ない燭台。
あらゆる悪を、あらゆる罪を、そしてあらゆる災厄を照らし出して捕まえる。私の意図はそうだった。
だけど、式はそれに応えてくれなかった。
「正直、十分な範囲だと思うけどね。けれど、君の気持ちも不安も分かるとも」
「もしもこれで失敗すれば、この世界は——アキトはきっと、とんでもない苦労を背負って生きていく羽目になる」
「優良な術式ではなく、最優の術式を求める」
「初めてかもしれないね。君が自分の満足以外の理由でそれを志すのは」
「……そう……でしょうか。む……むむ……むぅ。そうですね、そうでした。わがまま……でしたでしょうか。昔の私は」
君はわがままになって良いんだよ。と、マーリン様はまた私を抱き締めて、そしてゆっくりと言霊を復唱する。
消えることのない、消すことの出来ない。
その強過ぎる願望が、義務感が、式を想定しているものとは違えてしまっているんだろう。
だから……
そう言ってマーリン様は私の頭を撫でる。
少し撫でて、そして離れて。優しい目で私を見つめたまま、こくんと小さく頷いた。
「——私が照らしたいものは——世界——」
「罪を暴くのではなく、悪を裁くのではなく、誰かを護りたいという意志で式を組み直す」
「誰かの——アキトの行く先を——」
「うん、そうだね。君はいつだってそうしてきた。それをよくないものだと僕は言った」
「だけど——ことここに至って、君はそれを良いものに変えてしまっただろう」
「自己肯定の為の献身ではない。確立された自己から生まれた献身だ。だから、自信を持って」
式を組み直す。
組み上げたものを破壊して、そして一から積み上げる。
出来上がりに満足いかなければ何度だって蹴倒す、踏み潰す、叩き壊す。
ずっとずっと——私になるまでも繰り返し続けた当たり前のルーティン。
大丈夫、すぐに終わる。だって、答えはあるんだもの。
だって、ずっとあったんだもの。
「——私が全てを照らす明かりになる——」
「これが、私の最後の魔術式。ミライとして組み上げる、この世界で最後の魔術です」
「うん、良いと思う。君らしくて、あの子らしくて」
さて、それが決まったなら。と、マーリン様は大きく伸びをして、そしてじーっと時計を見つめ始めた。何かが始まる……?
「——すんすん。むっ、そういうことね。マリン、それも星見で知ってたの?」
「あはは、そうだよ。今日のこの日はほとんど見えていた。それだけ重要なものだって、マナも気を利かせてくれたんだろう」
「迎えに行こう、ミライちゃん」
ただいまー。と、声が玄関から聞こえた。バカアキトだ。
むう……ちょっとだけ気分が落ちてきた。
高揚感もあるけど、やっぱり不安と……うん、不安が大きい。
これからの戦いへの不安じゃない。その前。
あのバカアキトの理解力が、どの程度無残なのかを思い知らされるのが怖いのだ。
「お、ふたりとも起きてるな。めっちゃ早起きしてきたと思ったのに。むむ……」
「あはは。今朝ばかりは寝坊なんて出来ないよ。おはよう、アキト」
おはよう。と、アキトはヘラヘラ笑って、マリンにも私にも手を振った。
まあ……仕方がないのかもしれない。
今この世界では、私とマリンは大体同じものだ。
異世界での知り合い、仲間、家族。
そして、幼い子供。
だから、私達を見るときに区別を付けない。でも……
「……アキト……ううん、アギト。ちょっと話良い?」
「おう? 良いけど……急に改まってどうし——も、ももももしかしてなんか嫌な知らせ……じゃないだろうな……っ⁈」
ああもう、やっぱりこうだ。
間が悪いと言うかなんと言うか、こいつは私をなんだと思ってるんだ。
だけど、ここで怒ったら意味が無い。
それに……これでこそ、だ。
これでこそ、私の知ってるバカアギトなんだ。
「……アギト。アンタの生まれたこの街、すっごくすっごく良いところね」
「ちょっとだけ人の温もりが足りないけど、でもそれは家の壁の外側だから」
「中に入れば凄く暖かい家族がいて、家庭があって。そして……何よりも平和だわ」
アキトはちょっとだけ首を傾げて、けれどすぐに真面目な顔をしてくれた。
だけど……うん。多分、勘違いしてる。
根本的なところで抜けてるし、ズレてるから。
でも、続けよう。
「いつも言ってたわよね、私。アーヴィンをより良い街にする、って。その理想は、ここにあった」
「魔獣に侵される心配も無くて、逃げ込める家が幾つもあって、物資も豊富で」
「私の——ううん、あの世界の人々の誰もが思い描いた理想の街が、ここにはあった」
こんびにってお店は、きっと向こうでは再現出来ない。
あれだけの種類の品物を一店舗で揃えようだなんて、提案してもきっと鼻で笑われる。
無理だ、絶対に。
他の店に比べてどうしたって高くなってしまう。
そもそも満足に商品を揃えられないし、保存も出来ないだろう。
だけど……目指してみたいと思わせる。
だって、この世界では成立してるんだから。
「——私はアーヴィンをこんな街にしたい」
「技術的なものも足りないし、そのすまほだって無い」
「真似をしようにも、到底届かない場所にいるのかもしれない」
「だけど……私はこの街を、この平穏を、あの世界に持ち帰りたい。だから……それで、ね」
ぎゅっと拳を握って、ふうと息を吐く。
そうしたら、自分がアキトの方を向いてないのに気付いた。
綺麗な床ばかりを見てて、見なくちゃいけない人のことを見てなかった。
慌てて顔を上げると、そこにはまだ真面目にこっちを見てくれてるアキトの姿があった。
「——っ。それで……だから……っ。アギト、お願いがあるの」
「勇者として——半身としてじゃない。市長と秘書としてでもない。マーリン様に言われたからでも、おじいちゃんに任されたからでもない」
「私と、アンタで。ふたりでそれを成し遂げてみたい」
だから——
何度目かも分からないけど、言葉に詰まって深呼吸をした。
大丈夫。自信を持って。
きっと伝えようとずっと思ってたんだから。
どういう結果であれ、それを成す。
そういう勇敢さを、こいつはかっこ良いって憧れてくれたんだから。
「————アギト。ずっと——ずっとずっと、私の隣にいてくれますか——?」
「勇者としてじゃない、秘書としてでもない。私と、アンタとして」
「理想を叶えるその時まで——叶えた後にも。最後まで隣にいてくれますか?」
アキトはちょっとだけ驚いた顔をして、それから少しだけ顔を伏せて考え込んでしまった。
これは……違う、嫌なわけじゃない。
言葉の真意を——返すべき言葉を考えている……んだと思う。
或いは……うん。多分こっち。或いは……
「……その、さ。僕は秋人で、アギトじゃない。いや、同じなんだけどさ。でも、厳密には違う」
「だから……全部が全部アギトとしての答えじゃないかもしれない。でも、聞いて」
ごほん。と、なんともわざとらしい咳払いをして、アキトは胸を張った。
堂々と、私がずっとそうしろと言ってきた通りに。
何よ、今更になって。遅いのよ。このバカアギト。
「——当然、ずっとずっとそばにいるよ」
「勇者……は、だってさ。そもそももう役目も無くなった……って言ってんのに、お前が魔人の集いをどうにかするまで……とか言ってるだけだし」
「秘書としてだって、そもそもまた雇って貰わないといけないし」
「だから、個人として答えるのは簡単だよ」
「ずっとずっと一緒にいるさ。だって、俺達は家族だろ」
或いは……呑気なことを考えているか。
ああ……ほら。そうだと思った。
すっごくニコニコ笑ってて、蹴飛ばしてやる気にもならない。
どうだ、この答えが欲しかったんだろう。って、馬鹿面に書いてある。
ああ……どうしよう。すぐそばでマリンが信じられないって顔をしてる。
うん、私も信じられない。このバカアギト……はあ。
「……ふふん! そりゃそうよね! アンタは私の言いなりだって、ずっとずっとそうやってきたんだもの」
「だったら最後まで——最後の最後まで、しっかりこき使うから、覚悟しておきなさい!」
「おう! おう……? おうっ⁈ ちょっと! お兄ちゃん! お兄ちゃんだよ⁉︎ 家族をこき使うな! 優しくして!」
ほら、ね。アギトは変わらないんだ。
きっと何があっても変わらない、どんな関係になってもこのままだろう。
そういう約束もしたし、そういう奴だって知ってるから、別にいい。それで良い。
「ちょっ……ミラちゃん、本当にいいの……? 一回蹴っ飛ばした方が……」
「大丈夫です、マーリン様。これから何回も蹴っ飛ばしますから」
「今だけは……まだやることがあるうちは、仕方がないから許してあげましょう」
ちょっと! と、バカアギトは騒ぐけど……ああ、どうしよう。こうもがちゃがちゃうるさいと本当に蹴りたくなってきた。
だけど我慢。この戦いが終わったら、目一杯噛むし蹴るし甘えるし齧り付く。だから……うん。
「さ、あんまり抜けた顔してる場合じゃないわよ。バカアキト、さっさとご飯にしましょう。早く支度して、全部終わらせるのよ」
「っ! お、おう!」
今はちょっとだけ我慢。
終わったら——これが終わったら、だから。
もうあんなことは起こさせない。
全部護って、一緒に帰るんだ。
だって、私達は家族なんだから。




