第百話
別に現実に不満があるなんてことは無い。いや、嘘ついた。可能なら、少年時代から道を踏み外さない様にやり直したい。だが、そういう現実離れした欲求とは別の、リアルな話をするなら案外今の生活に文句は無い。そりゃあ、早く正社員として何処かへ就職して二人に恩返しがしたいとか、痩せたいとか、モテたいとか、加齢臭をどうにかしたいとか。挙げ連ねるとキリは無いのだが、それは一度置いておいてだね。何が言いたいかと言うと、今の原口秋人の生活を蔑ろにしているわけでは無いのだと言うこと。うん、それだけは念頭に入れておいて欲しい。して……
「ごめん、原口くん。今日は一時で良いかな? 君には早くに来て貰ってるし、出来れば花渕さんにも稼がせてあげたいんだ。でもお客さん来ないと……どうしてもさ」
「え、ああ。大丈夫ですよ、お疲れ様でした」
結局、僕はこの日一度も花渕さんと言葉を交わすこと無く早めの退勤となった。さて、さっき言ったことをまた少し思い出しておいて欲しい。これは不平不満では無いと。
この生活にはイベントが少なすぎる。別にそれが普通なのだ。というか、イベントは起こさなければ起きないのだから当然で、でもあまりに刺激が強過ぎる生活との同時進行にどうにもそのギャップが引っかかる。帰り道に僕はそんな事を考えていた。向こうでの一日といえば、起きるところからもうちょっとしたイベントが挟まってくる。もうすっかり妹ポジションに収まったとはいえ、あれでやはり美少女なのだから。あんなのに抱き付かれていると思うと、毎朝がワクワクドキドキイベントと言って差し支えあるまい。起きたら今度はまだまだ見慣れぬ、嗅ぎ慣れぬ異国ならぬ異世界の風景と景色に胸を踊らせ。慣れない世界の、更に見たことの無い地への旅などと……そんなもの、童心に帰るに決まっている。
「……海、行きたいなあ。こっちでも」
こちらの世界ではひたすらに繰り返し。繰り返して繰り返して、来月出るお給料を貰って始めてイベントを発生させられる。世界の真理だ、まず先立つ物がなければと言うのは。そしてもう一つの大きな差。それは会話の少なさ。海に行きたいとボヤいた今の独り言も、向こうならばきっと、絶対イヤ! 私は行かないから……私が行かないんだからアンタも行くんじゃないの! とか。良いっスね! 釣りとかどうっスか? オレ、こう見えて得意なんっス! とか、いくらでも食いついてくるのがいると言うのに。
「……はあ、馬鹿らし」
このため息ひとつも空に消えるだけ。散々一人で眠りたいと願っても、こっちに帰ってくるなり寂しさに見舞われる。やはり僕も寂しがり屋で間違い無いみたいだ。なんだ、なんなんだ。寂しがり三人集まってパーティ組んで。
そんなバカな事を考えて帰宅しても、家にはまだ誰もいない。この帰ってくる家があるというのも、大きな違いの一つだろうか。正直、帰って来ればいつでも安心出来る、居心地はそんなに良くも無いけど、落ち着く自室があると言うのは嬉しい。家の有り難みを染みるほど感じる時だってあるしね。さて……
「ええと……『急募、遊び相手』と……」
別にこれは悪いことじゃ無い。悪いことじゃ無いんだ。やるべきことと言うのはやった。いや、就職活動とかするべきかもしれないけどさぁ……じゃなくて。世界の本質は、やりたい事をする時間という物に集約されるのでは無いだろうか。遊ぶ為にお金が必要だから働く。働いてお金を稼いでいない間の時間は好きに使う。使い方は人それぞれで、お金をより稼ぐために働いたり、効率よく働くためのスキルアップを図ったり、働いた対価で色々な娯楽に打ち込んだり。そう、それが本質。
「お、きたきた……ボイチャも繋ぐかなぁ」
僕はかつて、この生活を否定した。だがそうでは無かった。いや、働かずにゲームだけしてるのはダメなんだけど。いや、うん。つまり……働いたのだからゲームくらいしても良いじゃ無いか! と、そう言いたいのだ! 遊ばせろ! 向こうにゃ娯楽らしい娯楽は無いんだよ! あっても小難しい本とか、アナログでアウトドアな物とか! 僕は! こうして! オンラインでインドアな娯楽に勤しみたいんだよ! なんだろう、ひどくダメ人間になった気分だ。
『お、アギさんお久しぶりでーす』
『こんな時間にゲームか。このダメ人間』
『おまいう』
『オマエモナー』
散々な返信が多量に湧いた。お前ら……夜道に気をつけろ。ただ、こうしていると実感する。やはり、あの世界は夢なんかじゃ無い。確かに僕は彼女の影響を受けている。前ならこんな返信にも顔を真っ赤にしながらレスバトルに応じていただろうが、今は違う。あの少女の事を思えば、こんな些細な煽りなんて気にもならない。肉体的成長ばかりで成長させてこなかった精神面が、ここ最近で一気に伸びてきているのだろう。だからこんな……
『アギト、童貞やめらんないってよ』
『もう無理だろ』
『アギトが捨てられる童貞とかそれもう童貞じゃないわ』
よぉーーーしテメエらやってやろうじゃねえかよ! ああんっ⁉︎ 誰が童貞の権化じゃ! こちとら毎晩美少女と抱き合って寝とんねやぞ(誇張表現)‼︎ 実質非童貞と言っても差し支えんわ! 何⁈ 手出したのかって⁈ 出せるかぁいこちとら童貞守って三十年のベテラン選手じゃぁいッ‼︎
僕はゲームなどそっちのけで小一時間レスバトルに応じていた。大した精神的な成長()だ。こう……煽り耐性が低いのはなんとかしたい。向こうでも、こっちでも。結局、僕は集めたメンツが僕を放ったらかしでゲームを始めてしまったことに拗ねて、一人自家発電に勤しんで二人の帰宅を待った。ふぅ。
アラームの音で目が醒める。ああ、もう朝か。何度でも言おう。この世界にはイベントが不足している。白状すると、最近こっちで目覚めた時の背中の涼しさがとても寂しい。もうすっかり依存してしまっている。こっちの事もちゃんとやるって決めた筈なのに、頭はすぐに向こうの事ばかりを考える。彼女に何をしてやれるだろう。何をして貰っただろう。何を返していけるだろう。気付けばそんな……
僕はまた人気の少ないパン屋で時間を持て余す。朝からのシフトの僕と昼前からのシフトの花渕さんが被らないこの時間は、緊張感も無いしお客さんもいないから本当に考え事ばかりになる。もう何度目かも分からないしクドイと思うけど、言おう。イベントが少な過ぎるんだ。
少ないイベントの時間がやって来ると、それはそれで胃が痛くなる。午前十時五十分。十一時出勤の彼女が店に顔を出した。昨日と同じく、僕の事など視界に入れたく無いと言わんばかりに俯いてスマホばかり見ながらやって来た彼女に、僕は出来るだけフランクに挨拶をする。
「お、おはよう花渕さん」
「…………」
返事は相変わらず無い。まあいいさ。そりゃあ僕も仲良くしたいとは考えているけど、向こうにその気がないなら無茶ってもんだ。業務上必要な会話というかやりとりというか……教える事でもあれば、頷くくらいのリアクションは取って貰えるのだろうけど。教えられる事が無いというか……だから、無理。無理なもんは無理。嫌がる相手に無理に仲良くしようなんて、パワハラみたいなもんじゃないか。そういうのは……いえ、別に怖いから話しかけらんないとかでは無くてですね……ほんとですって……
「ごめん……原口くん……」
「あ、いえ。お疲れ様でした」
焼き増しの様な一日が終わる。満足感が欲しかったわけじゃない。達成感が目的だったわけが無い。僕は二人に胸を張って恩返しをしたいから変わろうと思った。だから仕事内容がどうとか、人間関係がどうとか。兎に角嫌な事があっても働くのをやめなければそれで良いと、そう考えていた。だから……だからこの焼き増しの意味の薄い一日だって構わないんだって……思うんだけど……
「……原口くん。ちょっと良い?」
着替え終わった僕に店長は声をかけた。なんだろう、早く帰ってゲームしたいんだけどな。別にゲームは逃げないし良いけど。なんて口にするわけにはいかないので、僕は小さく頷いて控え室に入る。なんだろう……もしかして、店たたむとか言わないよね……?
「原口くん。率直に言って……花渕さん、どう?」
「どう、って……仕事は早いし、特にお客さんに失礼な態度取るわけでも無いし。僕なんかよりずっと優秀に見えますけど……なにかあったんですか?」
僕は率直な感想を口にした。僕に対する当たりの強さは中々酷いものがあるが、だからといってお客さんに冷たく当たることは無い。少し笑顔が硬い気がするけど、そんなの僕が言えた事じゃ無いし。っていうか物覚えは僕より全然良いし……僕なんかよりキビキビ動けるし…………
「……そうか。うん、分かった。ごめんね引き止めて。お疲れ様」
「はい、お疲れ様でした」
こうして、あっという間にイベントの薄い二日が終わる。眠って起きればまた旅に戻る。向こうがこっちのモチベーションになっているような気もして少し複雑だが……それは仕方ない。アギトでは無い、僕に出来ることなんてもっと少ないのだから。言い訳じみたことを考えながら、僕はまた旅路に戻る為の眠りについた。この時はまだ、それで良いと思って……