第5話 二人目のお客さん
このような場所は危険だとか言って、このような場所にスーツで現れた人が「様」付け呼びするとか、まるで皇族とか要人のような扱いにびっくりする。それとも、この隣接サークルさん、命に係わる病気でも患っているとか?
「郡山、今日僕は一人で行動したいと言ったじゃないか。どうして来ちゃうんだよ」
「申し訳ありません。しかし、尚貴様が藤田家のご子息としてふさわしい振る舞いを身に付けられるよう、わたくし郡山、旦那様より申し付かっております」
「そんなもの、三男の僕には関係ないって。兄さん達じゃないんだから」
「いいえ、尚貴様も藤田家の大切な一員ではありませんか」
さすがに会話が気になって気になって仕方がない。
やっぱりどこかの御曹司……?
「さ、尚貴様、帰りましょう」
そう言って郡山は、積み上げられた段ボール箱を勝手に動かして片付けようとする。この人の郡山という人、歳はアラサーだろうか。三十は超えていそう。こんな場所じゃなくて、もっとお堅いオフィス街とか、取引先との接待ゴルフなんかに邁進している方がずっと似合いそうだ。
「だめだよ、まだまだ僕の漫画を買ってもらう予定なんだから!」
一方尚貴という名らしい隣接サークルさんも、この場が似合うわけでもないけど。
「漫画?」
郡山は片付ける手を止め、鳩が豆鉄砲を食らったように目をぱちぱちとさせている。
「そうだよ。僕の描いた漫画を売るために、僕は一人でここまで来たんだ」
すると、郡山ははっきりとした口調で言った。
「尚貴様、このような場所で藤田家の品位を下げるのはおよしください」
なっ。
コミケ参加者56万人を敵に回す発言ですよ今の!?
……けど、よっぽどのお家柄なのだろう。
それこそ、叶姉妹みたいな?
「尚貴様、作品でしたら、藤田家のご子息にふさわしい形で発表くださいませ」
うわあ。
それって、プロの編集者とか付けて出版しろってことだろうか。
これが金持ちの発想なのだろうか。
夢を追う愛里にとってそれは垂涎の提案だ。羨ましいとか通り越して、住む世界の違いを感じる。
しかし、御曹司尚貴様は悲し気に首を横に振るのだ。
「いやだよ。これは、僕の物語だ」
謎めいた芯の強さで言う。
「そんなことしたら、絶対に台無しにされるか、僕らしさなんてカケラも残らないに決まってる」
どうやら金持ち育ちの発想は、さらに上を行くらしい。
愛里には何が嫌なのかちょっともうよくわからない。けど、彼は当然だとばかりに、郡山の意見をはねのけた。
スーツ男郡山は、押し黙ると、尚貴の作った漫画冊子をぺらりと一冊手に取る。そして数ページぱらぱらとめくると、無表情に言った。
「それはそうかもしれません。でも、こんなもの、誰が欲しがるというのです」
その場がしんと静まり返った。ように愛里には感じた。
こんなもの?
今、なんて言った? この男。
はたから聞いていた愛里だったが、感情が渋滞を起こしたようになって理解に遅れが生じた。
「帰りますよ、さ、片付けます」
そう言って手早く箱に詰めていく郡山を見て、
愛里の腹の底からムカムカムカっと込み上げてきているのは、たぶん、怒りの感情だった。
「こんなもの?」
今そう言ったよね?
その薄い漫画雑誌一冊作るのに、どれだけの時間と労力がかかるか知った上で「こんなもの」と言ったのか?
「こんなもの」を三箱も作って汗だくに入場し、「こんなもの」の角を大事に揃えて並べている彼の様子を思い出す。
そうだね、誰も欲しがらないかもしれないね。
それはその通りだ。
実際、誰も足を止めないし、泣いているのを気の毒に思った愛里が一冊買っただけだ。
コミケが素人の発表会だというようにバカにされていたのもまだ我慢できた。実際その通りなんだから。
だけど。
どんなに売れなかろうが、
未熟で無名の素人だろうが、
期待と愛情を込めて制作したであろう大事な作品を、
誰であろうと「こんなもの」と軽蔑して呼んで、勝手に片付けて、
そんなふうに邪魔することだけは、絶対に許せない。
「あのっ!!」
愛里は立ち上がって声を張り上げた。
「なんですか?」
片付け作業中の郡山にジロリと一瞥される。
だが、愛里はもう止まらない。
「ここはコミケですよ! 自由に作品を売り買いする場所なんです! 買いに来たわけじゃないなら、あなたがどうぞお帰りください!」
全身全霊、怒りを込めて睨みつける。
私は怒りに震えているのだと。
その真剣さは、齢二十五の自分より年上であろう郡山という堅物にも、息をのませた。
わかったか、部外者。
わかったら出て行け。
ここはコミケだ。戦いの場なんだよ。
しかし、彼は予想に反したことを口にした。
「……では、私にも一冊いただけますか」
「え?」
「買ったら、ここにいさせてもらえますね?」
アラサースーツの郡山は、一冊買わせてほしいと、それを冗談で言っている感じではなかった。
その顔は今や無表情ではない。
こちらとまったく同じくらいの真剣さで睨み返している。
バチバチと火花が飛びそうなほど睨み合う二人の狭間で、
「郡山……、買ってくれて、どうもありがとう」
尚貴だけが、嬉しさの涙を目に光らせてにこにこと微笑んでいた。
――やれやれ。
侮辱を受けたまさかの当人に毒気を抜かれたことで愛里は怒りの矛を収め、郡山は、
「はい。では、そちらに失礼します」
と言って、「尚貴様」の背後にビシッと立ち続けた。置物のようにもう微動だにしない。
愛里は落ち着かないし、さっきのことも、まだ解消したわけじゃなかったけれども。
買ってもらえることになって尚貴さんは喜んでいるみたいだし、まあ、いいや、と、無理やり気を逸らすことにした。あとこのおっさんにガツンと一喝したことで、ちょっとは気が済んだこともある。
尚貴ももう気を取り直すように道行く人に熱意のこもった視線を投げかけている。そして、
「ねえ郡山。もう来ちゃったんならさ、店番してて。トイレ行ってくるから。一冊四百円ね」
「かしこまりました」
先ほどのことなど、まるで当然のように受け流して、もう頼って、トイレに去っていく。
この郡山って人が傍に控えているのは、この謎のプリンスにとっては日常風景で、あんなふうに、表現の自由を制限されることも、もしかしたらあの人にとっては、普通のことなのかもしれない。
「あの……、お座りにならないんですか?」
だけど愛里にとっては、まったく普通のことじゃない。まるで非日常だ。
スーツなんてきちんとした身なりの人に後ろに直立されたままというのは、気が散る!
「仕事中ですので」
「でも、おひとりなのに立ってるの変ですよ」
この人も常識が通じない人かもしれないと、ちょっと首を突っ込んでまた言ってしまった。
ジロッと視線で射貫かれる。
う、怖い……。
さっきからこんな小娘にごちゃごちゃ言われて、やっぱ怒っているよねこの人。
そもそも、一回りくらい年上だし。男だし。
しかし郡山は、片眉をくいっと下げると、
「お嬢さん、あのな。さっきはすまなかった」
ぼそりと、すまなそうにそう謝ってきた。