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第43話 堅実に生きている人

 涙が引いてから、尚貴の家に戻った。


 なるようになるから、安心して焦らず今を歩けばいい。両想いだから大丈夫だと、郡山が勇気づけてくれたことで、きっとそうだと、愛里も根拠なしに思うことができるようになって。


 その日、漫画制作に精を出すことまでできた。

 郡山のおかげだ。

 

 翌日、愛里は仕事を定時であがると、その足で尚貴の家へ向かった。呼び鈴を鳴らすと、郡山が出た。


「お疲れさん。坊ちゃんはまだ仕事だけど、中で待つか?」


 郡山はいつものスーツに黒のウエストエプロンをかけている。現在何か調理中のようだ。


「うん。お邪魔します」

「はい、どーぞ」


 気心知れた仲だし、尚貴の不在時にも郡山はいるから、先に仕事終わったら来ていていいからねと尚貴は言ってくれていた。今まで愛里はそれに甘えたことはなかったが、もう一度郡山とおしゃべりがしたくて、この日は先に来てみたのだった。


「何作ってるの?」

「坊ちゃんの夕飯だよ。今日は、海藻サラダに、れんこんハンバーグと、コーンポタージュスープ」

「私も手伝うよ」

「ばか、俺の仕事だ。おまえは漫画を描くのが仕事だろう?」

「まだ仕事じゃないけどね」

「学生は勉強が仕事、みたいなやつだ」


 愛里はちゃぶ台にパソコンを置いて座布団に座る。今日はペン入れだ。パソコンが起動するのを待つ間、気になっていたことを尋ねてみる。


「郡山さんって、いつから執事なの?」

「俺か?」


 ジュウっとフライパンで肉を焼きながら「んー俺は紆余曲折あって……」と、黄ばんだ天井を仰ぐ。


「若い頃になー……ハメられて死亡確定な状況で、旦那様に助けてもらうことになって、それからだな。執事を目指して学んだのは」

「え、ハメられて……死亡確定?」


 なにそれ?!

 急に飛び出してきたハードボイルドな生い立ちに、目を丸くしていると、


「いろいろあんだよ。おい愛里は、飯食ったのか?」

「うん。食べてきたよ」


 郡山は皿に盛り付けると、ご飯をよそってちゃっちゃと食べ始めた。これは郡山自身の分だったらしい。


「あ、言っとくが、俺の分の食費は計算の上出してるからな」

「そ、そうなんだ」

「坊ちゃんの安月給じゃ、さすがになー」


 郡山の雇い主は尚貴の父親であって尚貴ではない。尚貴は自分が生活していくのに精一杯だ。


 それよりさっきの話が気になる。


 郡山さんって、どんな人生を歩んできたんだ?


 しかし、愛里が聞きたいとせがんでも、シークレットだと言って詳しくは教えてもらえなかった。


「俺の事なんかよりさ、愛里は、いつから漫画家を目指してきたんだ?」


 もっと郡山のことが知りたかったのに、はぐらかされて仕方なく答える。


「私は、小学生のころから、だよ」

「そりゃすげーな。一貫してて」

「すごい? かな? 叶ってない、けどね」


 夢追い人という人種がややレアなためか、すごいと言われることはよくあった。

 でも、一体何がすごいというのか。

 夢ある夢を追い続けること? それって遊び人ともいえる。遊び人を尊敬する人はあんまりいないだろう。

 一つの目標に一途なところだろうか? 単に融通が利かないバカなのかもって自分に対して思うことだってある。


「私からしたら、堅実に生きてる人の方が、すごいと思う」


 郡山の言う「ハメられて死亡確定」がどんな状況だったのか想像もつかないけど、藤田家に助けてもらって藤田家の執事になりたいと勉強して、そして実際に執事として働いている。


「立派だよ……」

「まあ、漫画家と比べたら堅実な方かもしれないけど」

「でも、珍しい職業だよね執事って」

「一般的ではないよな」

「うん」


 郡山は一瞬で食べ終わってしまったらしく、もう皿を洗っている。早食いにもほどがある。郡山はエプロンを外すと、車のキーをじゃらっとさせて、


「そろそろ坊ちゃんを迎えに行く。ここで待ってるか?」


 ドキリ。尚貴が来てしまう。それを思うと、心臓が痛んだ。

 もちろんここは尚貴の家だし、彼は来るに決まっている。ここに来たのはそもそも自分だ。でも、行かなかったらもっと気まずくなると思ったから来たのだ。気まずいのは気まずいのだ。

 

 愛里は一人ここで彼を待つのを想像して、


「私も行きたい」


 それよりはと、またあえて向かうことを選んだ。恐怖は逃げれば二倍になる。立ち向かえば半分になる。

 

「はいはい。じゃあ行くぞ」


 アパートの駐車場に停めてある車は黒塗りで高級感がある。おそらく郡山のものではなく、彼が藤田家から貸与されているものだろう。愛里は助手席に乗り込んだ。走り慣れた道を行き、尚貴の勤務先に到着する。


「お帰りなさいませ尚貴様。お疲れ様でございます」


 助手席の愛里を見て、尚貴は驚いていた。「なおさん、お疲れ様」

「おつかれ、エリンギちゃん」


 工場に勤める尚貴の服はスーツではなく、グレーの作業着だ。家に帰ってから着替えていたのか、愛里がその姿を見るのは初めてだった。


「愛里様は食事を済まされたそうです」

「うん。食べてきました。なおさんはまだだよね?」

「そうだね。いつも家で食べるから」


 郡山がドアを開け、尚貴は後部座席に乗り込む。


「早かったんだねエリンギちゃん」

「うん。お先にお邪魔して作業していました」


 静かに車が走り出す。

 車内が沈黙する前に、なにか話さなきゃと思って愛里は振り返って口を開く。


「なおさーん、郡山さんがね、どうして執事になったのか、教えてくれないんだ」

「申し訳ございません。ヒミツでございます」

「そっか。気になる?」

「気になるよ。珍しい職業だし」

「わたくしのことなど、お気になさらずに」

「えー。ブーブー」


 郡山のお堅い躱し方に、ふふっと笑みが出る。

 さっきまであんなにくだけていたのに、なんか変な感じ。


 よく考えたら、彼は今まさに仕事をしているのだ。執事の仕事を。主人のために調理したり繕ったりと準備するのも執事の仕事の一つなのかもしれないが、最も大切なのはこうして主に丁寧に接することだと思う。だから、愛里が隣にいても、彼は執事の顔でいる。尚貴の前では。


 いいな。やっぱプロって、かっこいいな。


 自分や尚貴にはない魅力がある。


 尚貴がじーっとこちらを見ているのに気付いて、視線を後ろに送る。


「なおさん?」

「なんでもない」


 素っ気なく返されて、愛里は首を前に戻した。

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