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第42話 年上の執事と

 尚貴から特に連絡はなく、翌日には何事もなかったように愛里は彼の家に行った。

 尚貴もやはり、何事もなかったように、愛里を迎えてくれた。


「いらっしゃい、今日もがんばろ!」

「うん! 目指せ、デビュー! だね」


 そうして、いつも通りにちゃぶ台の前に座り、漫画の続きを描いた。


 カリカリ、シャッシャと愛里の鉛筆の音が響く。

 ちゃぶ台を挟んで正面からは、液晶を叩く静かなペンの音。

 時折、郡山がお茶を淹れてくれて、冷めたら温かいものに取り替えてくれる。


 いつもと変わらない時間が過ぎていく。

 ……ように見える。


 でも本当は違う。


 尚貴が前より、作品に集中しているような気がした。

 まるで愛里の存在をこの場から排除するかのように。


 ちゃぶ台の向こう側に、見えないバリアを感じる。


 僕たちの間に甘い時間はもう二度と流れないのだと教えるように。


 でも、それも仕方ないと愛里は思うことにした。


 愛里だって、夢を追うために頑張っている一人だ。


 もともと、ここに来た理由も、仲間と集中して漫画を描くためであって、決して尚貴に会うためではないのだ。


 そうだよ。だから、漫画を一生懸命やろう。


 そう思っても、思おうとしても、心がじくじくと痛みだす。

 寂しさに凍り付くような、焦る気持ちが沸き起こってくる。


 叶わない思いを抱えたまま、尚貴と一緒に原稿を描かないといけないというのは、思った以上にしんどかった。


「ちょっと、外の風に当たってくる」


 愛里はそう言うと、立ち上がった。尚貴は画面に向かったまま「うん」と頷く。


 薄いドアを押し開けると、暗い夜の空が広がっていた。


 寒い。

 凍えるような寒さだ。


 愛里はためらわず、外に出ようとして、


「もう夜遅いので、私がお供します」


 後ろから、低い声と共に郡山が優しくドアを支えてくれた。


「郡山さん……」


 尚貴から離れたい一心で外へ出ようとしたものの、本当は今、一人になるのがつらかった。


「ありがとうございます」


 もしかしたらこの年上の男性は、それをわかってくれているのかもしれない。

 

 どこへ行くともなく歩いて、夜風に当たる。

 寒いなーと口々にぼやきながら、二人で夜の道を歩いた。


 愛里の足は自然と、小さい頃に友達とよく遊んだ公園の方へ向かっていた。そこに何かがあるわけではなくて、ただなんとなくだ。郡山はどこか行きたいところはないだろうか。そう思って訊いてみたけれど、「愛里様の仰せのままに」なんて言って、キザに片目を閉じられた。


 公園にたどり着いて、愛里がふらりと足を踏み入れると、郡山も続く。付き従うように後ろを歩かれるって、尚貴はこんな気分なのかとちょっと新鮮だ。


 時刻は九時を回っていて、人影はなかった。まだ深夜とは言えない時間帯だが、一人では怖いと感じただろう。郡山が同行してくれてよかった。


「郡山さん」


 ブランコの前の手すりに腰を下ろし、愛里は話しかける。


「ん? なんだ」


 キザな執事モードは辞めて、普通の年上男性モードに切り替わった郡山が、タバコに火を着けながらちらりとこちらを見た。ライターの火に赤く染まった横顔が、大人っぽくて、愛里は泣きつきたいような衝動に駆られてしまった。


「……なんでもないです。その……、ついてきてくださって、ありがとうございます」


 郡山はうまそうに紫煙を吐き出すと、


「いや、タバコ吸いたかったし、なんてな、はは」


 なんて笑うけれど、本当だろうか。


「大変ですね、執事さんって」


 愛里はタバコなんて吸ったことがなかったが、タバコが好きな人は職場にもいて、しょっちゅうタバコ休憩をしていたから、なんとなくわかる。

 すると郡山は、大きなため息をついて言う。


「いや、もうへとへとだよ。タバコはまあ、いいんだが、まさかあのボンボン坊ちゃんが、ここまでのタマだったなんてサ。俺の方がついていけねえよ」

「そっか……。お疲れ様です」


 たしかに尚貴の影響を最も受けているのは郡山だろう。言ってみればある日突然僻地に転勤を命じられたようなものだ。


「なんで俺は、いま弁当作ってるんだ? ボロボロの靴下の穴を縫ってるんだ? ってたまにわからなくなる」

「はは……」


 大豪邸で働いていたときにはまさかそんな技能が試されることになるとは思いもしなかっただろう。愛里は思わず同情した。


 郡山は紫煙を吐き出すと、ワックスで固めた黒髪頭を掻きながら、


「ああ、俺に敬語はいらんよ。つーか、本当は、坊ちゃんの友達なら、坊ちゃんがいなくったって、俺は執事としてお仕えしないといけないんだけどな。だから、それでおあいこってことで、どうだ、愛里嬢?」


 そう提案してくる。


「そっか……うん」


 尚貴も郡山に対してタメ口で話していたから、その感じを引き継いでみたら意外と自然に言葉が出た。


 それよりも。


「うん……友達、ね」


 抑える間もなく、愛里の目尻から、つーっと涙がこぼれた。

 沈黙。


「あー……」


 郡山は砂利を踏み、こちらへ歩み寄る。

 タバコの匂いと男の人の香水の匂いが、ぐずついた鼻に届く。


「えーと。確認だけど、フラれたのか? 坊ちゃんに」

「うん……」


 フラれた。言葉にしてはっきり言われるとまた凹む。


「ふーむ……。そりゃ、まあ、残念だったな」

「うん……。……っ、……ひっく……うぇぇん」

「よしよし。まあ、泣いとけ泣いとけ。うん」


 郡山は大きな手で、ぐっと肩を抱いてくれた。濡れるのも構わず厚い胸板に力強く押し付けられて、愛里は、しがみつくように泣いた。


「……でも、そうか。俺はてっきり、両思いだとばっかり、思ってたんだけどな」


 やっぱり、そう思うだろうか。

 尚貴が自分を好いているだろうと思っていたのが自分だけじゃないと知って、ほっと嬉しくなる。


「わ、私も……ひっく……そう、だと、思ってた……けど……」

「うん」

「夢を追うから余裕ないって……言われて……」

「ああ、まあ、そういう理由ね」


 郡山は納得したように頷くが、


「でもなんかもう、自信なくなっちゃった」


 もしかしたら尚貴はもう愛里のことを恋人対象としては見ていないんじゃないかとまで、愛里には思えてきていた。少しでもいい想定をすることが、トラウマのように怖い。また勘違いして、ショックを受けたり落ち込みたくない。


 郡山は愛里に吹きかけないように外を向いて煙を吐き出すと、また吸って、また吐く。そして、「焦っても仕方ないからな」と言った。


「坊ちゃんも愛里嬢も、一歩ずつ自分で歩いて、確かめていく先で、きっといろんな変化があるさ」


 愛里は止まらない涙を指で拭っていると、郡山が白いハンカチを貸してくれた。こんなもの持っているくせに、黙って胸を貸してくれたんだと思うと、その優しさにまた涙が出てきた。


「だから安心して今を歩けばいいと、俺は思うけどな」

「……安心して、今を……?」

「うん。愛里嬢は坊ちゃんが好きで、坊ちゃんもきっと愛里嬢のことが好きなんだろう? だったらちゃんと、なるようになるからサ」


 笑う口元の、小さな赤い灯りを、ぼんやり見つめる。

 自分より長い人生を歩いてきた分だけ刻まれた皺に、愛里は小さく頷いた。

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