第4話 目が合うたびにドキドキ
前を歩く人が、自分のスペースの前で少し歩を緩めるだけで、その人の顔をじっと見てしまう。もし、立ち寄る気配があったら、すぐに対応できるようにと。でも、多くの場合それは空振りに終わる。それだけじゃなく、目が合って気まずくなって逃げられてしまったり。
(しょうがないよねー……)
十二時を回り、愛里の売上は二冊だった。その内訳は、知り合いの漫画創作仲間二人による購入で、自分も後で買いに行くつもりのいつものメンバー。お互いの漫画を読み合って、意見を交換し合う、夢追い仲間であり、コミケの後、彼女らと打ち上げ飲み会も予定していた。大事にしたい仲間達だけど、つまりは内輪の売り上げということだ。
隣のサークルはどうかというと。
一冊も売れないどころか、足を止める人もまったくいなかった。
(しょうがない、しょうがないよ……)
これは、彼が特別悪いわけではない。
愛里だって、初参加のときは一冊も売れなかった。
一冊も。
読者を楽しませたいと、乏しい知識をかき集めて、眠い目をこすってギリギリまで手直しに手直しを重ねて入稿したのに、それなのに、たった一日しか販売できない当日、誰も興味を持ってくれなかったのだ。
その日は恥ずかしさで途中で帰りたくなった。
(でも、帰らなかったけどね)
そんな、あの頃を思い出して胸が痛くなる。
彼はひらひらした裾で目頭を拭っていた。
だめだめ。辛気臭く泣いていては、客は寄り付かないよ。
でも、深い悲しみの中にいて、心細くなってしまっている彼にはどうすることもできないのもわかる。
愛里は「よし」と決めて、財布から千円札を出した。
「あの私、一冊買ってもいいですか?」
「……い、いいんですか?」
彼は、雲の切れ間から差し込む日差しにまぶしそうに眼を瞬かせるように、そう尋ねてきた。
「はい。見てみたいなって。あなたの本」
醸し出す不思議な空気感から、彼の描く作品はたしかに気になった。嘘ではない。
彼は自分の作品を大事そうに、こわごわ一部手に取ると、
「ありがとうございます、初めてのお客様」
こぼれんばかりの、とても嬉しそうな笑顔で差し出してくれた。
「私なんかが初めてですみません」
どちらかというと、彼のこの笑顔が見たかったのかもしれない。ま、いいじゃないか、どんな理由で買ったって。
「ありがとう。とても、とても嬉しいです」
よかった、笑ってくれて。
泣いてばかりのコミケ初参加者を、どうにか励ましたかった。
コミケに来てよかったと思って帰ってもらいたかった。
愛里は頷いて言った。
「よかった。感想も話させてくださいね」
売れるのも嬉しいが、感想をもらえるのは、さらに嬉しいのを知っている。
予想通り、というか予想を超えて、彼は泣き出した。
鞄から取り出したレースのついたハンカチがどんどん湿っていき、美しかった鼻も赤くなって、悲惨なことになっている。
「ありがとう、ありがとうございます。本当にありがとう。この日のために準備してきたから、売れないまま帰りたくなかった」
わかる。わかるよその気持ち。
こんなに喜んでもらえたら、買った甲斐があったというものだけど。
(よし、これはもう、絶対に感想を伝えなければ!)
愛里は立ち上がらんばかりに、
「初めは仕方ないと思います!! 自分たちの他にも、こんなにいっぱいサークルさんがいるんだし、なかなか見てもらえないですよ! でも、参加しているうちに、仲間が増えたり、あとはやっぱり気に入ってくれる人も、いつか現れます」
「そうでしょうか」
「そうだと思いますよ。みんな、めげない心でやってますから」
強く微笑んでみせる。
さて、あまり話し込んでもいけない。自分以外のお客さんとのエンカウントも増やしてあげたい。
彼も時間が惜しいことに気づいたのか、
「あ、おつり、六百円……渡さなくてはいけませんね」
と、鞄をごそごそあさり始める。
「少々お待ちを。……って、あ、しまった」
ハンカチを持った反対の手には……
「細かいのがありません」
がくっと項垂れる彼に、愛里は意味が分からず自分の目を疑った。
――《《百万円の札束》》が握られていた。
!!!?!??????
札束!?
子ども銀行のオモチャ?
それとも、なんちゃって札束風のメモ帳かな!?
「当日はお金がおろせなくなるということを聞きましたので、これだけあればいいだろうと思ったのですが、困りました。おつり、これでもよろしいですか」
「よろしくないです」
今日ほど札束が不要な日もないというのに。
百万円? もの大金が……こんなとこに持ち出されていることに緊張してしまう。
この人の空気の中では、次には泉から出てきて金の斧と銀の斧を差し出してきてもおかしくはないけれども、こういうありえない物を実際に目で見てしまうと、さすがにその重さにクラッとする。
「そうか、これでは品物をお売りすることができない。それは嫌です……ですからどうか」
札束からぴっと一枚抜き取ってこちらに渡してくる。
多すぎです!
愛里は買い物用の財布をしまい、釣銭用のポーチを取り出し、
「ああ私、細かいのありました! おつりなくていいです! ついでに、両替もできます!! 一万円札も崩せますよ!」
だからそんなものを押し付けてくるのはやめてください。しまってください。
「あの……盗難とか気を付けた方がいいですよ」と念のため忠告する。これだけ大規模なイベントになったコミケでは、毎年盗難や盗撮が問題視されるようになってきた。
すると彼は、あたりを警戒しながら並べていた本を数冊しまいはじめた。いや、盗まれる恐れがあるのは、そっちじゃない。
なんだろうこの人。
ちょっとズレているのを感じていたけど、まさか百万円札束(真ん中を紙テープで留めてあるやつ)を持ってきているとは恐れ入った。
箱入り御曹司か何かですか!?
その時、
「尚貴様」
という凛とした声が響いた。
目の前に人がいることに気付いて、愛里ははっと顔を上げる。
そこには黒いスーツを着ている、愛里より一回りくらい年上――三十代ほどの、いかにも仕事人という感じの有能そうな男が一人立っていた。
お客さん……?
この人の知り合い……?
尚貴様と呼ばれた隣の彼は、さっきまでとは違ういたずらが見つかったような、バツの悪い表情で、「郡山……」と、つぶやいた。
このスーツの人、様って言ってるし、隣のサークルさんは何かのお客様? なのかしら?
「このような場所に、お独りで向かわれるのは危険ですと、おわかりいただけませんか。すぐにそちらに回ります」
「……来るなって言ったじゃないか」
「そうは参りません」
……ていうかもしかしてどこかの国の王子様ですか?