第38話 世間を知った御曹司は
それからどうにかこうにか一か月が経過した。
郡山付きとはいえ、御曹司の尚貴にとってそれは楽ではない暮らしだっただろうが、愛里の予想に反し、尚貴は音を上げたりはしなかった。
漫画新人賞を受賞して漫画の仕事をするのだ、という希望が、彼の慣れない生活を支えている。それは愛里にもなんとなくわかった。
この日は尚貴が応募していた女性雑誌の新人賞の結果発表日だった。
朝早く尚貴から「不安(>_<)(>_<)(>_<)」とか、昼休みにも「絶対受賞したい!!!」などといったLINEメッセージがひっきりなしに届くので、愛里は仕事をさっさと片付け、急ぎ足で尚貴の家に向かった。
「お邪魔しまーす」と慣れたように玄関の扉を開けると、パソコンの前にかじりついて更新ボタンを押しまくる尚貴の姿があった。
「どう?」
尚貴の似合わなすぎる袢纏姿もだいぶ見慣れてきたなと感じつつ、愛里も画面を覗き込む。
「うーん……あ! 更新された!」
「おおっ!?」
タイミングよくサイトが更新され、結果が出たようだ。
「また……」
パソコンを前に項垂れる尚貴。
「落選」
ありゃー。
愛里は鞄を下ろしてちゃぶ台に原稿用紙を広げながら尋ねる。
「講評はなんて書いてあった?」
大事なのは、落選した後の行動だ。結果とアドバイスをどれだけ活かせるか。
「話が意味不明、と」
「あ、あはは……」
(辛辣だけど、いえてるかも……)
「他には?」
「イラストは美しいですが、漫画としてもっとメリハリをつけなさい、って」
「なおさんは、そうだね」
今日の作業を開始する準備をしながら、愛里は勇気づける。
「でも、すごいなあ。私なんて"絵が雑なのでもっと丁寧に"なんて指摘ばっかりなのに、さすがだね」
「僕にはエリンギちゃんの方がすごいと思うよ。だって、丁寧に描きさえすればOKなんでしょう?」
「いや、私は丁寧に描いているつもりだもん……」
「そうなの?」
「う、うん」
得意分野は人それぞれだ。長所を活かし、短所を減らし、焦らず成長していくしか道はない。
だが尚貴はさっきから項垂れたまま、なにやら落ち込んでしまっていた。
「はあー……。もう……今日の作業、気力わかないよ……いや、なんでもない。そんなこと言ってどうするんだよ。やろう。やるやる」
辛い気持ちはよくわかる。でも、早く立ち上がってまた走り出すしかない。
愛里が作業をしていると、尚貴ものそりと起き上がって、ペンを手に取った。
それからまた月日は巡り、初冬に入った。木枯らしが吹きすさび、暖房の効きも悪い室内で漫画を描いていると、芯から冷える。尚貴の袢纏がコスプレではなくなっていた。
現実は厳しかった。
漫画家デビューなんて遠い先の未来のように感じることばかりで、それでも歩みを止めないで、愛里と尚貴は漫画を描き続けていた。
「また落ちた。これで何度目だろう」
「ドンマイ、なおさん。次、行こう」
励まし合って、机に向かう。季節が変わっても、やることは変わらない。
「……落ちてばっかりだ……」
「まだまだ、改善の余地あるよ。頑張ろう!」
「うん……」
仕事が終われば家の中に缶詰めになって、ひたすらに原稿に向かう。尚貴は次々に漫画を描き上げては果敢に新人賞に挑戦したものの、ことごとく落選していた。
愛里の評価はというと、少しずつ上がってきていた。やはり、自分を抑えて雑誌の好みを優先すると、結果に繋がりやすいと感じた。先日ついに佳作を取って雑誌に載った。まだそれだけでは商業漫画家としてデビューしたとは言えないものの、大きな進歩だ。嬉しくて、郡山に頼んでご馳走を作ってもらった。尚貴も、素直に祝ってくれた。
同じ夢を追っている立場で、人の成功を祝福することは難しい。
もしかしたら愛里に先にいい結果が出たことで、尚貴が嫉妬してしまうかもしれない、と思って初め気を遣っていたけれど、尚貴にそういう様子はなかった。逆に、どうやったらいい結果が出るか、教えてほしいとまで言ってくる。
「うーん、なおさんはもう少し、雑誌の傾向と合わせた方がいいんじゃないかな? なおさんの独創的なところは捨てがたいけど、ちょっと売り物にならないと思う」
愛里の見立てでは、尚貴は少々芸術的すぎるきらいがある。商業には不向きな作風だ。もっと読者にわかりやすい物語にしないと、いつまでたっても受賞は難しい。愛里自身、漫画雑誌の求めに応じた結果佳作を取れたと思っている。だから、間違っていないという自負もあった。
しかし、
「……それはいやだ」
「え?」
「捨てたくない。僕は、これで行きたい」
尚貴は頑なに、やり方を変えない。
「でも、もう少し譲らないと、たぶん受かんないよ」
「受かりたいけど、捨てたくない」
「うーん……」
尚貴は意外と頑固な作家だった。
「それだとデビューなんていつになるか、わからないよ」
それでも、現実は現実として厳然とそこにある。
「デビューしないと、誰にも読んでもらえないよ」
甘やかしてはくれない。
「漫画を描いてお金を得ることだって、できないんだよ」
そのことの意味が、尚貴にももうわかるだろう。
「それでもいいの?」
疲れた顔で、尚貴は黙り込んでいる。
今日もいつもと同じ仕事を終えて、いつもと同じようにここに缶詰めになっている。
どんなに漫画を描いたって、誰にも読んでもらえないまま、お金にもならないまま、今の暮らしを続けるだけでいいのだろうか?
いいわけがない、と思っている愛里に対して、ぽつりと尚貴は言った。
「でも僕は、佳作を取った作品より、前の方が好きだな。エリンギちゃんの作品」
今度は愛里の方が黙った。
それを言われると……何も言い返せなくて。
愛里も、自由に描いた前の作品の方が、好きだという自覚がある。
本当は、好きなものを描いて評価されたかったという気持ちがある。
だけど、漫画家として生きていこうと思ったら、わがままばかり言っていられないから。
――いや、わがままを叶えてしまう手段が、一つあるか。
「ならさ……なおさん、やっぱり、お父さんともう一度よく話した方がいいんじゃないかな?」
一般庶民の愛里と違い、御曹司の尚貴には強力な後ろ盾があるのだ。
「なおさんのお父さんも、きっと、びっくりしていると思うよ。なおさんが、ここまで真剣だったなんて」
「戻れないよ」
「意地張らないで、戻ればいいんだよ!」
思わず、語気が強まった。
「いいじゃん! なおさんは、御曹司なんだから。漫画を描けるときに、自分のペースで、好きに描いていけばいい」
そうだ。こんな窮屈な暮らし、なおさんにはやっぱり似合わない。商業に合わせて、自分らしさを捨てるなんてことも。
尚貴は少したじろいで、でも、静かに言った。
「いや、僕も考えたんだよ。たしかに、父さんの気持ちも、もっともだって。フジタの役職に就かせるため、僕にこれまで修行させてきた。それなのに、僕に、その気がないんだから、怒るよね。漫画の道を行きたいなんて僕はすごくわがままを言っている。追い出されても仕方ないんだなって」
「うん。でもそれは、謝ったらきっとさ……」
とりなそうとする愛里に、尚貴はきっぱりと首を横に振った。
「でも、僕は、応える気はない」
「なおさん……!」
「僕は自分の漫画を信じてる。夢を叶えられると思ってる」
すっかり板についた尚貴の袢纏姿が、今の愛里には眩しすぎて、目を逸らした。
「今の僕は無力だし、結果は出ないし、正直、苦しいよ。苦しい。楽になりたい気持ちだってすごいある。けれど、それでも諦めて実家に帰るくらいなら、僕は人生を終わらせる方を選ぶ」
世間知らずの御曹司が、厳しい現実を知ってもなお、意志は変わらないらしい。
「だからこのまま、ここで生きていくよ」
尚貴はこんなに不自由な思いを実際にしているのに、それでも頑として首を縦には振らない。
見上げた根性だ。
藤田尚貴という一人の青年は、こんなにも強く気高い夢追い人だったのか。
愛里はもう認めるしかないのを感じた。
尚貴の決意が本物であることを。
羨ましいくらいに純粋で、恐ろしいくらい屈強な信念があるのだと。




