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第32話 砂糖菓子のように甘い部屋

「ごめん、なおさん、私だいぶ酔いが回っているみたい。なんか、喋りすぎちゃった」


 自分ばかり、しかも暗い話をしてしまった。嫌な女に思われただろうか。


 ふと顔を上げようとしたとき、尚貴に頭を撫ぜられた。

 そしてそのまま黙って抱き寄せられた。


「っ、なおさん……!?」


 尚貴の広い胸が、温かく脈を打っている。

 アルコールの匂い。こんなに近くに、なおさんが。


「僕は、エリンギちゃんの作品、とても素敵だったと思う。だから、少し悲しい」


 耳元で囁く声に、愛里の胸がチクリと痛む。

 でも、愛里が何か言うより先に、尚貴が続けた。


「でも、エリンギちゃんがうまくいってほしいと思うから、無責任なことは、何も言えない。とても頑張っているエリンギちゃんが、そう言うなら、そうなのかもしれない。わからないのは、僕が世間知らずだからかな」


 そっと体を離すと、尚貴は愛里の手を握る。尚貴の大きな手が、愛里の右手を包み、もみ、ペンだこをさする。


「きっと、僕よりエリンギちゃんは、ずっと戦ってきた。だから僕は何も言えない」

「なおさん……」

「僕は、まだそこまでやってもいないから、まずはやってみるよ。思った通りに自由にやってみる」

「そうだね」


 それでうまくいけば、それが一番いいのだから。


「お互い頑張ろう」


 愛里は視線を逸らして、小さく言った。


 世間知らずの御曹司。

 野球選手になれると信じて野球に打ち込む少年のよう。


 無邪気で綺麗で浅はかで希望に満ちている。


 でも実際、フジタ王国の王子様だから、それでいいのかもしれない。


 少し水を飲もうとして手を伸ばした時、頭がぐわんと揺れた感じがして、吐き気を覚えた。


「う……ぷ、飲みすぎちゃった。ごめん、なおさん、本当に酔っちゃったみたい」

「大丈夫? 部屋で横になって少し休んで」


 まだまだたくさん飲んでみたかったのに、ここでダウンだ。


 意外にも尚貴は酒に強く、介抱してくれた。


「大丈夫? エリンギちゃん、無理しちゃったみたいだね」

「う……ごめんなさい」

「楽な姿勢で休んで」


 尚貴の私室に戻され、ふわふわのベッドに寝かせてもらう。天蓋を見上げて楽しむ余裕もないくらい酔っぱらっていた。


 尚貴がベッドに腰かけて座り、脇に控えるようにして郡山が立つ。盆には冷たい水が用意されている。


「僕のベッドだけど、変なことはしないよエリンギちゃん」

「うん……郡山さんもいるし、ね」


 尚貴は‟郡山”と言われてああ、と思い出したように彼を振り返る。


「まあ彼はいてもいなくても、僕は好きにするけどね」


 空気のような存在ということだろうか。必要不可欠だけど、そこにあってもあえて見ないし気にしない。


 でも、変なことをする時(・・・・・・・・)にまで郡山さんがいるとか、自分はちょっと気になりすぎて耐えられないような……。


 落ち着かないよ……。


 あと今だって、そんなになるまで飲むなんてレディとしてあるまじき行為だと非難されているような気がするし。

 

「郡山もプロだから、僕達の邪魔はしないよ」

「え、そう……?」


 ちらりと郡山の方を見る。

 こちらに半分背を向けて、盆を片手に微動だにせず立っている。


 僕達の邪魔はしない、って……どういうこと?


 愛里のその視線を奪うように、尚貴が言う。


「試してみる?」


 愛里は思わず尚貴の方を見上げた。

 髪をかき上げるしぐさが、すごく色っぽい。

 ドキッとする。


 試すって、何を……!


 我が物顔でこの場を制圧する王子のような尚貴の姿勢に、愛里はたじろぐ。

 

「なおさんも、酔ってるの……?」

「酔ってないよ。僕、お酒は強いんだ」


 たしかに愛里の酔いが回ってからは、一口飲んでは尚貴に残りを飲んでもらうばかりだった。尚貴は愛里の二~三倍は軽く飲んでいるのに、平気そうな顔。


 うん、なおさんって、お酒強いんだな……って思った。


 だからこれは、誘ってる……?


 でも、


「私は酔ってるわ」


 愛里はきっぱりとそう言って、尚貴の返事を待ってみる。


「なら、やめとこう」


 気高さはそのままに、尚貴はにっこりと微笑んで引き下がる。

 酒に酔わせて隙あらば、みたいな感情は全くと言っていいほどなさそうだ。

 

「ごめん……」


 試すようなことをするのは可愛くないと反省する。


 でも、どう答えたらいいんだろう。

 まだ、付き合ってるわけじゃないし。


 って、すっごく期待しちゃってるなあ、私。


「泊っていってもいいからね。僕は別室で寝るよ?」

「いっ、いえ、そこまでしてもらうわけにはいかないよ」

「うち、お客さんを泊めること、よくあるんだ。だから気にしなくていいよ」

「明日も仕事だから……」

「朝はもちろん送るよ」

「でも……うっ、吐きそう」

「ほら、いいから寝て。あとはメイドに任せて」


 どうしよう、泊まるなんてだめだよ。


 でも、うとうとと、まぶたが落ちていく。


 お客さんをよく泊めるなんて、常識が違う……。


 空調がよく効いた、砂糖菓子のように甘いこの部屋で、愛里は泥のように眠ってしまった。


 朝起きたら寝巻に着替えさせられて、メイクまで落とされていた。寝ている間にエステティシャンが綺麗にしてくれたんだそう。目覚ましのアーリーモーニングティーを運んできたメイドさんが、カーテンを開けながら教えてくれた。


 愛里が着てきた服は全てクリーニングされ、ビニールを被せられて渡された。夜のうちにやってくれたんだとかで、申し訳なさとか恥ずかしさとかよりも驚嘆が勝った。私生活に人手が加わっているって、すごすぎる。


(なんかもう、異世界にいるみたい……)


 尚貴に会う前に身支度を済ませられるよう気を回してくれたりもした。尚貴の私室にはバスルームもあって、そこで朝風呂を済ませた。


「おはよう、エリンギちゃん。よく眠れた?」


 準備が終わる頃に、尚貴が迎えにきてくれた。


「おはよう、うん。ごめんね、結局泊めてもらっちゃって。しかも、お部屋も借りちゃって……」

「いいのいいの」


 尚貴は昨日とはまた違う英国風スーツを着ていて、髪も整えられていた。一緒に、早朝からホテルのような朝食をいただく。

 そして藤田家の車でそのまま出社することになった。


 ちっぽけな(有)丸井螺子の、ゴミなんかが転がっている薄汚い駐車場で、

「ご到着でございます、愛里様」

 運転手に丁寧に降車のお手伝いをされて、鞄も郡山に両手で捧げ持つようにして渡されて、


「「行ってらっしゃいませ」」

「行ってきまーす」


 会社の玄関からは、いつも出社の早い里中さんが目を丸くしてこっちを見ていた。


 終わるのが惜しいような、いつもの気楽な日常に早く戻りたいような。


 土産話付きで戻るのは、悪くないな。

 ……夢のような世界だった。


 すると車の窓から尚貴が顔を出して言った。


「また遊びに来てね、エリンギちゃん」

「うん、ありがとう。また」

「今度、漫画一緒に描こうよ! 作業部屋あるからさ、手ぶらで来てくれても描けるよ!」

「それ、楽しそう! やりたい」


 なおさんも、楽しいと思ってくれたんだ。


 夢じゃないって、期待しても、いいのだろうか。

 こんなに世界が違うけど。

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