第3話 温かな拍手と共に……開場!
「十時になりました」というアナウンスが流れるとともに、会場は温かい拍手に包まれた。コミックマーケット、始まりの合図である。
一日の始まりにわくわくと胸をふくらませ、この場所があることに感謝して、自分の知らない誰かまで幸せでありますようにと願って一人一人が手を叩く、この瞬間が愛里は好きだ。
資本主義社会の無機質なお金のやり取りにはない、野生の人間達の単純な期待感や喜びが、この拍手には、詰まっているような気がする。
そういえば初参加の彼はどうかなと思って横を振り向くと、今度は感動の涙をこらえているようだった。気持ちはわからなくもない。
なんだか、良い人みたいだな……。
ちょっと変わってるけど、悪い人ではなさそう。
だが、感涙している場合でもない。
怒号と共に速足でさっささっさと歩く人の波が押し寄せ始める。
「うおー!」
どどどどど。
「走らないでくださーい!」
どどどどどどどどどど。
目の前を流れゆく、人、人、人。
人の波というのはこれのことを言うのだろう。
目にもとまらぬスピードで、駆け抜けていく人達。
世界で最も多く人が集まるのは、イスラム教の「メッカ」聖地巡礼に次いでコミケが第二位、というデマが拡散されたこともある。たしかにそう信じてしまいかねないほどの量だ。
だが、前を流れる人々は愛里や隣のサークルに足を止めたりはしない。
彼らはまずお目当てのサークルに直行するのだ。多くは壁サークルと呼ばれる、大手人気サークルに向かう。
この時間に入場できている一般参加者は、ほとんどが始発組と呼ばれる始発電車を利用した者や、徹夜組と呼ばれる夜通し並んだ者だ。
始発組が過酷な競争率をかいくぐったり、徹夜組が違反行為と知ってなお夜を徹してわざわざ隊列をなすのは、今日しか買えないお目当ての物販をゲットするため。ほとんどが個人個人の直接販売の為、売り手もそんなに部数を出すことはできない。早く行かないと売り切れてしまう。
限定美少女萌えグッズを求めて我先にとダッシュする男達というのは、卵子に群がる精子の縮図、いや拡大図かもしれない。
「あの」
隣からおずおずと話しかけられた。
「はい」
「あの……その……」
空気が揺れるような会場の中、声がか細くて聞き取れない。長い髪を濡れた頬にへばりつかせて、例の隣のサークルさんが何かを話しかけてくるけど……
「どうしたんですか?」
なにか困り事だろうか。
「いえ、その……」
彼はなんと言ったらよいものか思案しながら、
「誰も来てくださらないなあって」
ぽそりとつぶやいたその言葉だけは、愛里にはよく聞き取れた。
気持ちが痛いほどよくわかった。
こんなに人がいるのに、自分は誰からも求められていないという現実。
「あっごめんなさい、邪魔をしてしまって」
「いえ、私も暇なので!」
その苦しみを、彼は一人で受け切れなかったようだ。
たった一人で、初参加なのだから、それも仕方がないだろう。
素人の作った作品というのは、基本的には売れないものなのだ。それも、商業出版されている有名作品の二次創作ではなく、自分で考えたオリジナル作品となると、手に取ってみてもらうことさえ難しい。
その事実を知った上で参加するのと、知らないまま参加するのとでは、当日に受けるダメージが違う。
この人は恐らく、知らなかったのだろう。
しかも、頒布物をすごい量印刷して持ってきているようだ。期待もしていただろう。
元から有名じゃない限り、売れないよ、そんなには……。
「うーん、午前中はお目当てのサークルさんのところに直行する人ばかりだと思います」
愛里はコミケの先輩として、そのショックをできるだけ緩和してあげたいと思った。
「なるほどなるほど」
「午後になればゆっくり見て回ろうとする人も増えてきますよ。勝負は午後からです! それまでは、耐えるのです!」
そう、サークル参加者もやはり戦士。装備もさることながら、無視され続けてもめげない鋼鉄の心を持つ。何人に何度素通りされようと懲りずに作品を出し続けていれば、気に入ってくれる人がいつか現れる。それを知っている人が残っていく。
愛里は売れだすのは午後からだと経験上知っているから期待はしていない。
期待をしてしまうと、不安につぶれそうな顔をしているお隣さんみたいになるから。
そんな諦めが少し悲しくもあるけれど。
(私も、作品をあんな風に求められたい。いつか)
いつかは「売り切れる前に」と急がれる側になりたいなと憧れる。
その気持ちは、持ち続けたいと思う。




