第2話 「見本誌シール余ってませんか?」
数々のサークルの準備が整っていく中、息を切らして入ってきた人がいた。
背が高いからたぶん男性だと思うけど、男にしては長めの淡い色の髪を振り乱してきょろきょろして、周囲の注目を集めながら歩いている。なんだか物語世界から飛び出してきたような変わった服を着ている。ここは創作(少女)ジャンルで、つまり少女漫画を売り買いする場所だ。売る方も買う方も女性が多いし、もしかしたら男装コスプレイヤーさんの可能性もある。
その男の人は重そうなダンボール箱を三つも抱えていて、細くてのっぽな体をよたよたと揺らしていた。倒れたらぽきんと折れそうなほどか弱い感じ。というかあれだけの量の搬入は台車を使うべきだ。なぜ使わないのだろう。持ってないのかな。
こっちに来る。
まさか。
机の半分に横たえられて置かれていたパイプ椅子を降ろしたので確定した。この人がお隣さんだ。
「今日はよろしくお願いします」
こちらから挨拶すると、あっと驚いたように一呼吸あって、
「よろしくお願いします」
と、とても丁寧に頭を下げられた。声からするとたぶん男だ。弦楽器のように綺麗な声だったけど。
それにしても動作がいちいちこの場に馴染んでいない。
彼が箱を下ろすと、純白のふわふわフリルが広がった。女性ものを男性用に仕立て直したような、変わった服を着ていた――まあ今日は「ハレの日」だから、それはどんな服でもいいのだけど、汗だくで、とにかく暑そう。
彼はゆっくりとした手つきでダンボール箱を開け、品物を並べたり、値札を付けたりし始める。
することがもうない愛里はなんとなくその様子を眺めていた。
手つきがすごく優しくて、ピアノでも弾いてるみたい。どこか浮世離れしている。宝塚歌劇団とかそのまま出られそうな。ついつい見蕩れてしまう。
が、そんな優雅な準備などお構い無しに、スタッフの巡回受付が来てしまった。
巡回受付とは、参加した証明書や見本誌の提出を受け付けるために各サークルを回っているボランティアスタッフのことだ。
愛里は準備してあった参加証と見本誌を渡す。
スタッフはにこにこと微笑みながら受理して、まだ絶賛準備中の隣へと移った。
「見本誌シール? そうか、そんなのもあったんだ。そっちの封筒は置いてきたな。どうしよう」
みるみる顔が青ざめ始めたお隣さん。
あ、この人、見本誌シール忘れたんだな。
愛里もやったことがある。このシール、当落発表前の別の封筒に入っているので、忘れがちなのだ。
「すみません見本誌シール、余ってませんか?」
案の定、お隣さんはこちらに助けを求めてきた。
愛里はお安い御用と顔を向ける。
すると。
――わあ。
真正面から見た彼の顔は、とても整っていて、精巧に作られたお人形さんのようだった。
なんかもう、性別とか超越したような美しさを感じる。
不思議な世界観の服装も、彼の独特の雰囲気に合わせて仕立てられたものだったのかと納得するほど。
「あ……ありますよ、差し上げます。一枚で足りますか?」
「はい。ありがとうございます」
いけない、ぼうっとしてしまう。
なんて綺麗な人なんだろう。
「かっこいい」も「かわいい」も似合わない。工芸品のようにただただ美しかった。彼の周囲だけ、彼に合わせた色調で彩られていくよう。自分が彼を作りし神なら、パーフェクトな自信作として展示しておきたいと思うだろう。
心の中の時が止められてしまってから、どれほど経ったことか。
ここは神聖神秘的な森の中ではなく、コミケ会場東京ビッグサイトなのだということを思い出したのは、
剥き出しのまま放り出されている段ボール箱三つやら、
雪崩を起こすペーパー類、山盛りのチラシが宙を舞っていたり、
立て掛け途中のポスターの筒は転がり、向かいのサークルの方まで行っていたり、
何かを探しているのか、キャリーバッグがでーんと大きく仰向けに開かれているという、
開場間近にして有り得ない光景が嫌でも目に入ってくるからだった。
それらの真ん中で、立ち尽くしているかのように見えるキラキラの妖精さん。
準備、遅っ!!
よく見ると、指先はなんかやっている。
頒布物の角を綺麗に揃えている?
いやいやいやいや、そんなことしてる場合じゃないでしょう。
遅っっそい。
あの人、動きがとにかく遅すぎる。
これじゃ、間に合いそうにない。
あと十分弱で一般参加者(歩兵)が突撃してくるというのに。
ここまで散らかし放題じゃ、事故の元だ。
「あの、よければ手伝います!」
差し出がましいかもしれませんが、とかのレベルじゃない。この散らかりようを今すぐ何とかしないと、通行の妨げになる。
「いいんですか?」
「いいですよ!」
ていうかやらせて!
「すみません、慣れていなくて。道にも迷っちゃうし。うう……ぐずっ」
彼の瞳から零れ落ちる一粒の涙は朝露のごとく澄み切っていて――
泣いてる場合か!!
「これ、どこに置けばいいです!?」
「あ、はい。こちらに……」
とにかく時間との戦い。
通行の妨げになるような段ボールを裏に隠して、見栄えも最低限保たせて。
今までサークル参加してきた経験を活かし、それと数多くの短期アルバイト経験を総動員して、彼の求める理想のディスプレイを手戻りなく実現させていく。
「あと二分!!」
「ひゃー」
細かい配置は開場後でもできなくはない。座ってできるような作業は後回しにして、キャリーバッグを閉じるとか、ポスターの筒を転がらないように固定するとかそういう大きなことを終わらせる。
敷物もしわなくまっすぐ敷いて、
頒布物の漫画本は立てて並べるのと平置きと両方揃ったし、購入者特典のポストカードの置き場所も確保。卓上看板も立った。
どうにか一分前には片付いた。
「なんとか、大丈夫そうですね。これで……」
「本当に、本当に、ありがとうございますっ!」
憂いた姿も美しかったが、優しく温かく微笑む様子は天使か女神のようだ。
「いえ、ここでは助け合いですから」
こんな素敵な人を助けられて、私も幸せだよ。なんて。
「コミケ、初参加ですか?」
「実はそうなんです」
実はと言っているが、これで初参加じゃなかったら恐ろしいまでに準備不足&適応不足だ。
「初参加はみんなそうなりますから」
「そうなんですか」
個人差はありますが。
「家の者に、お手伝いはいらないって言った手前、やっぱ自分一人じゃだめなのか、なんてちょっと落ち込んでいたのですが」
家の者?
「そこまで落ち込む必要ないですよ」
兄弟がいるのかな。身近な人が普通にコミケに参加していると、事前準備なく気楽に参加してしまうかもしれない。
まあ、なんにせよ。
「もうすぐ始まりますね」
「はい!」
頷き返してくる目がきらきらとしていて、少し可愛い。
自分も初参加のときはこうだったな。
森の妖精みたいな人を、ちょっとだけ身近に感じた。